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突然、桜花の背中に純白の翼が現れた。それとほぼ同時に、背後からばさっという音が聞こえる。振り返ると、いつからそこにいたのか守桜が立っていた。彼の背にも、桜花と同じ純白の翼が羽ばたいている。守桜は桜花の方へと歩いて行った。
「合格か」
「ええ」
二人が横に並ぶと、桜花は秋桜に微笑みかけた。
「秋桜ちゃん、お別れね」
「どこへ、行くの?」
「言ったでしょ? ここは生命が生まれ、還ってくる場所」
「……じゃあ、……」
秋桜は彼女たちの正体を察する。その様子に、桜花は肩をすぼめて苦笑した。
「私たちは生前、自分の生命を粗末に扱った。その罪を償うために、誰かの生命を生かすことが天帝から与えられた試験だったの。ごめんなさい。あなたを利用した形になってしまって」
苦笑が僅かに歪む。
「でも、それだけのためにあなたを助けたわけじゃないの。……信じてもらえるか、分からないけれど」
「信じます」
即答だった秋桜に、彼女は少し驚いたようだった。そして、今まで見てきた笑顔とは違う、心から嬉しそうな笑顔を見せた。
「時間ね」
星空の中央に一つの大きな光が灯った。その光は桜花と守桜の許に差し込み、徐々に広がっていく。
「またどこかで、会えますか……?」
不思議な気分だった。出会った時はあんなにも二人を毛嫌いしていたのに、今は別れるのが惜しい。いつの間にか、二人のことを好きになっていたようだ。
これから桜花と守桜が向かう先のことを思えば、この問いかけは愚問だろう。しかし桜花は秋桜の気持ちを汲んで、安心させるように笑いかけた。
「どうか夢を叶えて。その思いを伝えて。この世界のどこかにいる私たちにもその詩が届くくらい。そしたら今度は、私たちがあなたに会いに行くわ。だから、きっとまた会える」
「……はい」
星屑みたいな僅少な希望。けれど可能性の低さを嘆くことはもうしない。その可能性が零ではないのなら、信じて進む。
「ね、秋桜ちゃん。一つ、お願いしてもいい?」
「なんですか?」
桜花が微笑みの中に哀切を漂わせる。こんな悲しそうな笑顔は見せるのは初めてだった。
「私たちがまた道を踏み外す前に、あなたの詩を聞かせてね。そしたらきっと、あんなバカなこと、二度としようとは思わないから」
消えてしまいそうなのに、でもこれ以上にないくらい人間らしい彼女がそこにいた。
秋桜は想像することしか出来ないけれど、一ヶ月も顔を合わせてきたのだ。察することはできる。
先日、河川敷で桜花の歌声を聴いた時、秋桜はその声と空気に魅入られた。
『あなたは好き? 歌うこと』
『一興をたしなむ程度にしか思ってないわ』
あんなにも魅力的な声を持っているのに、桜花は歌へのこだわりはなくて。
『あ、でも、やっぱりそれだけじゃないかな』
『他にどんな理由で?』
『信じたいから、かな』
あれから頭の隅でずっと考えていた。一体何が、彼女を歌わせるのだろう。何故、あんなに哀切極まりない歌を歌うのだろう。
『でもま、信じたいとか言ってる時点で信じてないのよね、きっと』
想像することしか出来ない。全ては根拠のない秋桜の想像でしかないけれど。彼女が信じたかったもの、それは恐らく――。
そこはひどく、ひどく寂しい場所。秋桜が知るどの場所よりも。憎悪、嫉妬、悲嘆、諦観。そんなものすら生易しい。そこにあるのは存在することすら矛盾する、虚無ただ一つ。
「……はい。必ず、届けてみせます」
秋桜は力強く頷いた。それが秋桜に出来る、感謝と決意の表し方だと思ったから。
「ありがとう」
人は本当に嬉しい時、涙が出るという。
桜花の目から一筋の涙が零れた。心から満たされた、幸せそうな笑顔がそこにあった。秋桜はこの笑顔を、生涯忘れないだろう。
光が強くなっていく。桜花と守桜を包み込もうとしていた。
二人が背を向けた。本当に最後。別れの時だった。
「待って! 私こそ、ありがとう! 私っ、頑張るから!」
この先何があっても、もう手放したりしないから――。
二人は振り返って、笑ってくれた。
とうとう世界が真っ白になっていく。秋桜の意識も光の中へと消えた。
最後の瞬間には、また桜の花弁が舞った。
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