歓楽街の夜 2

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歓楽街の夜 2

『下半身警察24時』での事情聴取を終えた保安係は、店の責任者である店長だけを荒間署に連行してきて取り調べを続けた。店は当面営業停止、店長とこれから呼び出すオーナーの処分によっては店の営業許可取り消しもあり得る。 慎重で厳正な捜査、それにともなう事務処理もまだまだ残っているが、大輔は一人、荒間署三階のトイレでハンカチを洗っていた。先ほど店で吐いた時に、半袖のワイシャツの胸辺りが汚れてしまった。六月になってクールビズが解禁されたので、ネクタイとジャケットを着ていなかったのは幸いだったかもしれない。 形状記憶タイプのワイシャツ、しかも安物なので家で洗えるが、汚れたままにしておくのは気持ち悪いので、ハンカチを濡らしてワイシャツを何度か拭いた。泊まりも多い仕事なので普段は替えのワイシャツを置いているのだが、運悪く今夜に限ってそれがなかった。 「……臭い、しないかな……」 目につく汚れは落ちたが、臭いが心配で汚れた胸元を引っ張り鼻を近づける。まだかすかに臭う気がして、大輔は渋い顔でもう一度濡れたハンカチで胸元をゴシゴシと擦った。 「おーい、まだ吐いてんじゃねぇよなぁ?」 トイレのドアが開いて、大好きな人――晃司が現れた。条件反射でパッと顔を上げると、鏡越しに意地悪くニヤニヤする恋人と目が合い、大輔はムッと顔をしかめた。 「心配してきてくれたんですか? それとも……からかいにきたんですか?」 「心配して来たに決まってんだろ。服の汚れ落としてくるって言って中々帰ってこないから、また気分悪くなってんのかと思ってさ」 「すいません。早く戻らなきゃと思ってたんですけど、服が臭いまま戻っても迷惑かなって」 「……ん~? 大輔のことだから気にしすぎじゃねぇの?」 そばにやって来た晃司が、大輔の濡れた胸元に顔を寄せる。晃司の体温を感じるほど近づかれ、スンスンと胸元を嗅がれると――それだけでドキリとしてしまう。 「大丈夫だろ。それに、ちょっとぐらい臭くたって、忙しすぎて気にしてる暇ねぇよ」 「そう、ですかね。ならいいんですけど。早く戻らないと、仕事は山積みですもんね。今日は何時に帰れるだろ……て、晃司さん?」 晃司が大輔の左頬に優しく触れた。いくら誰もいないトイレとはいえ、職場でこの距離感は際どい。晃司はいつでも大胆だが、今日のように忙しい日にここまで触れてくることは少なかった。 「あの、晃司さん……人が来ちゃうとマズイと思うんですけど……」 「変なもん見せられて……心配になったんだけど、俺の気にしすぎだったか?」 晃司が心配してくれたのは、大輔の体調だけでなかった。大輔の心も晃司は気にかけてくれているのだ。 大輔は、子供の頃に心に深い傷を負ってトラウマを抱えている。そのせいで性的な事象への嫌悪感が人より強い。晃司と出会って、風俗街を抱える生活安全課で働くようになって、それは大分軽くなったが、苦手であることには変わりなかった。 大輔は優しい恋人に愛しさが募り、自然と甘い笑顔になった。 「平気です。気持ち悪くなったけど……それはほんとに、ただキモいってだけなんで」 そっか、と晃司は優しく微笑んだ。職場のトイレだから、晃司の温かい手はすぐに離れていき、大輔は少し寂しくなる。 「大輔が吐いて、桂奈がキレてたぞ。吐きたいのはあたしの方だって」 「で、ですよねぇ……女性の桂奈さんの方が気持ち悪かったでしょうし。桂奈さんのスーツ汚さないですんだのだけはホッとしましたけど」 「桂奈だけじゃなくて、一太も大輔に怒ってたぞ」 「え? 一太さんが? 床掃除させちゃったからかな……」 「じゃなくて、お前が店の嬢にオッパイ押しつけられてたから」 晃司がスケベな顔でニヤリとする。大輔は、そこ? と呆れ返った。 「すっごい巨乳の婦警がいたよな。あの子にオッパイ押しつけられたんだろ? 顔も結構可愛かったし。羨ましい~」 恋人の前で平気でニヤける晃司に、大輔は呆れた冷たい視線を送る。 「晃司さん、わかってるくせに。俺、お……オッパイを押しつけられても全然嬉しくないし」 「ほんとか~? 一太はお前が可愛い巨乳ちゃんとイチャイチャしてたって言ってたぞ」 「それ、一太さんの願望ですよ! 俺が困ってるのに中々助けてくれなかったし」 怒った大輔は恋人に背を向け、汚れたハンカチを再度洗うために洗面台の蛇口をひねった。 「俺は憎たらしい業突く張り店長の相手してたのに、大輔は可愛い巨乳とイチャイチャかぁ。なんか俺も腹立ってきた」 「もー、しつこいですよ! 俺がそんなのちっとも喜ばないって知ってるじゃないですか」 「羨ましすぎるから……おっさんのチ〇コ押しつけてやる」 「ギャー! なにしてんですか!」 ムチャクチャなことを言って、晃司が背後から抱きついてきた。そして宣言通り、大輔の尻に股間を押しつけてきて――。 「せ、セクハラ!」 「うっせ! 可愛い巨乳にニヤニヤした罰だよ」 「ニヤニヤなんかしてないのにぃ!」 罰だと言いながら、晃司が笑っているのは振り返らなくてもわかった。ホレホレ、と腰を擦りつけられるたび、大輔が情けない叫び声を上げる。そのたび晃司が声を立てて笑った。 晃司は大輔をからかって遊んでいた。大輔もそうとわかっていたはずなのに――。 晃司に後ろから抱きしめられ、尻に晃司を感じていると、大輔はあっという間に落ち着かなくなる。 ここは職場のトイレで、晃司がふざけているだけだとわかっているのに、胸がドキドキしてきて――下半身に熱を感じてしまう。 「……どうした? セクハラ、拒否んねぇのか?」 大輔の変化は、晃司にはすぐに見抜かれてしまった。ふざけた調子の消えた、低く男らしい声を耳元で囁かれると、大輔の耳はカッと赤く染まった。 ついこの前の休日も、こんな風に愛し合ったばかりなのだ。後ろから、晃司に何度も――。 大輔は濡れた目で晃司を振り返った。晃司の喉がコクリと鳴る。 「バカ。今、そんな目で見んなよ……」 引き寄せられるように晃司の顔が近づいてくる。己の唇に晃司の吐息を感じ、大輔は目を閉じたが――。 「あー! 小野寺さんが大輔にセクハラしてる~!」 いきなりトイレのドアが開いて、一太が叫んだ。 「……い、一太さん! 助けて~」 「うるせぇなぁ、これはセクハラじゃねぇよ。スキンシップだよ、スキンシップ」 大輔と晃司は瞬時に体を離し、仲の良い先輩後輩を装った。 「うっわぁ、それってセクハラ常習犯のセリフっぽい~」 もしかしたら大輔より色恋沙汰に鈍い一太は、二人の演技にアッサリと騙されてくれた。二人のやり取りにケラケラと笑っている。 「でも、ちょっといい気味。大輔ばっか女の子にオッパイ押しつけられてんだもん。かわりにオジサンのセクハラ受ければいいんだ」 「え~、一太さんひどい。俺、ほんとに困るんですよ、ああいうの」 「は~、イケメンは言うこともイケメンだねぇ! あんなオッパイに触れたのに困るって。普通は喜んじゃいますよねぇ? 小野寺さん」 一太はしばらく前に素人童貞だということを同期の刑事に暴露された。それ以来、童貞の大輔に絡んでくることが増えた。 「大輔ももっと強く嫌がればいいのにさ、変に優しくするんだもん。本当はオッパイ攻撃嬉しいんだろぉ?」 「そんなことないですってば! 本当にほんとに困ってるし……そんなこと言う一太さんこそセクハラですよ!」 童貞であるのに北荒間の風俗嬢にモテる――と一太は思っている――大輔に対し、自分は一応非童貞であるのに一向にモテない、と一太は理不尽な怒りを抱くようになった。 今夜もまた一太の難癖が始まったとウンザリしていると、見かねた一応先輩の晃司が、二人の肩を叩いた。 「いい加減戻らねぇと、桂奈がブチギレんぞ。大輔のオッパイ押しつけられすぎ問題は暇な時に議論しようぜ」 「そんな問題、起きてないですよ!」 「一度、キッチリ話した方がいいと思う! なんで大輔ばっかりオッパイ押しつけられるんだよ! 俺だってもう何年も生安課にいるのに、一回もオッパイ押しつけられたことないからね!」 「そんなこと言われても~」 晃司に諌められても二人の低俗な議論は続き、結論が出ないまま三人は生活安全課に戻っていった。
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