誰かの傷跡 1

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誰かの傷跡 1

ついにその日が来た。 組対三課、四課、荒間署生活安全課合同の、荒間駅南口違法エステ店「百合―Lilly―」の一斉摘発が始まろうとしている。 時刻は午後八時過ぎを回った。南口の通りはいつもと変わらぬ賑わいだ。大きくも小さくもない駅の、小規模だがまだ新しい商店が並ぶ平和な街並み。大輔たちはその平穏な景色に溶け込み、今は明かりの灯らぬ不動産屋の二階にある店をほうぼうから見張っていた。 「……はい、こちらはいつでも……え? 奴が来たら……俺の指示で踏み込むんですか?!」 大輔は、チャイエス店のビルの向かいにあるカフェの前で自分の携帯で通話していた。待ち合わせ相手とでも話すフリをして、ビルの裏手で一太と待機する晃司と、店に踏み込むタイミングを打ち合わせている。 「でも……俺がそこまで仕切っていいんですか? タイミング見誤って、重要参考人に逃げられたりしたら……」 ヘタレな大輔は重責に耐えられなくなりそうになり、つい恋人同士の時のように晃司に甘えてしまった。しかし晃司は、優しいだけの恋人じゃない。厳しい先輩刑事でもある。 『アホ。なに弱気になってんだよ。今夜のリーダーは誰だ? 大輔、お前だろ。S県警一のイケメン刑事は、顔だけじゃないってところを見せてやれ』 晃司らしい励ましだった。大輔は、刑事として尊敬している晃司に叱咤激励され、恋人として抱く甘えをキッパリ捨てた。決意の滲む低い声で、はい、と答える。 晃司が自分に任せると言ってくれた。それは、晃司が自分を警官として信頼してくれている、ということだ。憧れの警察官でもある晃司の期待に、絶対に応えたかった。 硬い表情で晃司との電話を切る。すると、隣で友人を装って待機する桂奈がクスクスと笑っているのが聞こえた。 「大輔くん、気合入れすぎ。そんなんじゃ逆にトチっちゃうよ。万が一、店長か現金の運び屋を取り逃がしたら……荒間署(うち)で待つお偉方に怒られる、じゃすまないんだから頑張って」 「やめて下さいよ! そんなプレッシャーかけられたら、余計に緊張します……」 大輔の覚悟はたやすく揺らいだ。荒間署で大輔たちの“成果”を待ちわびる――強面の面々を思い起こし、ブルッと身震いする。 合同摘発と銘打ってはいるが、実際に店に踏み込むのは大輔たち荒間署生安課のメンバーだけだ。最初に大輔たちが風営法違反で摘発に入り、現場を抑え、それから各課が証拠の押収、責任者の聴取を執り行う手筈だ。ようは大輔たちが鉄砲玉、ということだ。 ただの鉄砲玉だが、一つだけ命令されていることがある。店に踏み込むタイミングは、店に現金を運んでくる内海組のチンピラが店に入った瞬間だと、それだけは厳命されていた。内海組の金の流れを把握したい組対四課は、入金係の組員を確実に捕まえたいのだ。 毎日のように金を運んでくる内海組のチンピラは、いつも午後八時過ぎに店に現れる。それは結花の協力で把握していた。 「そういえば一太さんが……」 結花から一太を連想し、大輔は小さく笑った。 「鉄砲玉にされるのまで俺たちだ! てまた怒ってました」 捜査一課にしろ、組織犯罪対策課にしろ、大輔たち所轄署捜査員の扱いがひどいと、一太は常々文句を言っている。実際、突入の現場に三課も四課も誰も寄越さないのだから、一太が怒るのももっともだと大輔も感じた。 けれど、先輩の桂奈は大輔に同調することはなかった。 「一太くんも甘いなぁ。使われてるうちが華、なの。使えない奴は、すぐに使ってもらえなくなるんだから」 桂奈は呆れた風にそう話した。やはり一度は本部に行った桂奈の言葉は違う。大輔は自分の甘さを自覚させられ、そういうものか、と素直に納得した。さすが桂奈さん、と続けようとしたが、桂奈は意地悪な顔で大輔を見ていた。 「だからもし、内海組のチンピラを取り逃がしたりしたら……四課の半分ヤクザに拷問されちゃうかもよぉ。落とし前つけろって」 「そんな……いくらマル暴でも、そこまでしたら本物のヤクザじゃないですか。ありえないです」 「あら、随分余裕。あぁ……そっか。大輔くんは大塚さんのお気に入りだもんね。四課の課長候補の大塚さんに、直々にスカウトされちゃったもんねぇ」 「はい? あんなの……冗談に決まってるじゃないですか」 今日の打ち合わせの前に、大塚と話す機会があった。その時大塚が笑いながら「やっぱり大輔は持ってるなぁ。お前、組対四課(うち)に来いよ」と、誘ってくれたのだ。もちろん、彼なりの冗談、リップサービスだとわかっている。 桂奈だってそんなことはわかっているくせに、組対四課への復帰に燃えるあまり嫌みを言ってくるのだ。さっきから少し意地悪なのも、大塚の冗談のせいだ。 「どうだろうねぇ、まるきり冗談にも聞こえなかったけど。もし大輔くんがあたしを出し抜いたりしたら……警察辞めたくなるぐらい、あらゆるハラスメントしてやるから」 「そんなことしませんてば! それに俺は、組対より捜一志望ですから……」 「あぁ……大輔くんの“推し”は……麗しの穂積管理官だもんね」 「……推し、ですか?」 「でしょ? あたしさ、ずっと気になってたの。小野寺さんとラブラブなのに、穂積管理官が井上さんと付き合ってるって知って泣いちゃった大輔くんの気持ち。大輔くんて彼氏だったら最悪じゃん! て最初は腹が立ったんだけど……そのうち、穂積管理官って、もはや大輔くんにとってのアイドル、推しメンなんじゃない? て気がしてきたのよね」 彼氏だったら最悪、と女性に言われると、その女性に恋愛感情を抱いていなくても、ひどくショックだった。なにも言い返せず黙っていると、桂奈は少し早口で続けた。 「だからさ、大輔くんが泣いちゃったのは、例えていうなら……激推しのアイドルがデキ婚した時の衝撃、悲しみに近いんじゃない? あたしもちょっとだけオタクだからわかるけど……オタ活と恋愛ってまったく別物じゃん。小野寺さんのこと好きって気持ちと、管理官を推す気持ちは全然違うものだし、管理官に恋人ができて泣いちゃうのもしかたないんだよ。誰だってイヤだもん、推しに恋人がいたら」 大輔は、目から鱗が落ちる、を今まさに体感した。衝撃的でわかりみが凄い桂奈の言葉が、ストンと胸の奥に落ちる。 自分でもわからなかった。晃司を世界で一番愛しているのに、穂積に恋人ができたと聞いて激しく落ち込んだ自分の本心が。 けれど桂奈の言葉で、腑に落ちた。穂積は大輔にとって――推しアイドルだったのだ。 「あ! 大輔くん、来た!」 桂奈に小突かれハッとし、慌てて振り返る。待っていた男――金の運び屋が現れた。 甘ったれの新人でも刑事の端くれだ。大輔の間抜け顔がキリっと引き締まる。 現金を持ち込む男の顔は、結花の機転で一太が撮った写真で確認している。――間違いない。大輔は確信すると、男の持ち物を探した。男は今日も少しくたびれた紙袋を提げていた。 こちらも間違いない。あの紙袋には、内海組が犯罪で手に入れた金が詰まっている。 大輔は男がビルの外階段を上がって店に入るのを確認すると、隠し持っていた小型トランシーバーをズボンのポケットから引っ張り出し、通話ボタンを押した。深呼吸し、短い指示を出す。 「入金係を確認した。全員、突入!」 大輔も駆け出した。桂奈が後ろに続く。 男が上った階段を大輔は一段飛ばしで上り、扉を開けて中に叫んだ。 「荒間署生安課だ! 全員、その場から動かないように!」 そう怒鳴りながら、ジャケットの胸ポケットに入れた捜索差押許可状――家宅捜索に必要な令状――を取り出し、パッと開いてかざす。 その間に店内を見回した。ビルがまだ新しいので、店内は明るく小ぎれいだった。入り口近くのカウンターも広々としていて、北荒間の店と比べたらいかがわしい雰囲気は薄い。一瞬、本当にここで違法に性的サービスが提供されているのだろうか、と疑ってしまう。だが、カウンターにいる中国人店長の真っ青になった顔色が、なによりの証拠だった。 店長の顔は内偵中に何度も見ているので、間違いようがない。大輔は、まずは店の責任者に話を聞こうと店長に近づいた。日本語で話しかけるとわからないフリをされるかもしれないので、簡単な中国語ができる桂奈に一緒に来てもらった。 店長のそばに、内海組のチンピラもいる。こちらは驚いてはいるが、慌てたり怯えた様子はない。自分が悪いことをしたと思っていないか、犯罪に関わっていると知らないのかもしれない。 「荒間署ぉ? お巡りがなんの用だぁ?」 若いのに、柄シャツにスラックスという、今時珍しいチンピラらしい装いの男が大輔に迫ってくる。激しく抵抗する様子はなさそうだが、暴れ出さないか、武器を隠し持っていないか慎重に窺う。男が持つのは、現金が入った紙袋だけのようだった。 チンピラらしいチンピラに、犯罪の証拠である大量の現金に、大輔はつい気を取られた。見た目や持ち物から、ここで一番危険に感じたのはチンピラだったが、経験の浅い大輔は未熟でその勘はアッサリ外れる。 「大輔くん! 店長が逃げた!」 桂奈が先に気づいた。カウンターの中の、結花の話では商売っ気のない人の良い中国人店長が突然身を翻し、店内に逃げ込んだ。カウンター下の棚にあった、一冊のノートをひったくるように持ち出して。 「おい!」 大輔と桂奈も慌ててカウンターの中に入る。しかしすぐに店長は引き返してきた。店の裏口から晃司と一太が突入したので、店長は裏口から逃げられなかったのだ。 表も裏も封じられたが、店長は諦めなかった。戻ってきた店長に驚いて突っ立ている大輔を壁に突き飛ばし、表のドアから外に飛び出した。不意打ちを食らった大輔は無様に床に転がり、機敏に店長を追ったのは桂奈だった。 「待ちなさい!」 桂奈の怒鳴る声を聞いて大輔も慌てて立ち上がろうとするが、慌てているせいでもう一度コケた。 「大輔! 大丈夫か?!」 晃司が不穏な様子の大輔を心配して声をかけてくれるが、駆け寄ってくることはなかった。当然だ。晃司は店内の女性従業員と、違法な性的サービスを受ける客が逃げないよう見張っている。一太も同様だ。 大輔もすぐに動き出さなくてはならなかった。大丈夫です! 大声で答え、大急ぎで店長と桂奈を追って店を出る。遅れて現れた、応援の生安課の同僚とすれ違いざま、中を頼むと伝え、階段を今度は二段飛ばしで駆け下りた。 店から出た二人は、通りを走っていた。店長は中肉中背で腹も出ており、運動不足な見た目だ。たぶん女性の桂奈より体力がない。だから必死で走って逃げても、同年代の女性より体力のある桂奈に簡単に追いつかれそうだった。大輔は先を走る二人を追った。 大捕物の様子を、商店街を行き交う市民が目を丸くして眺めていた。北荒間と違って普通の商店街である南口では、ほとんど見られない光景で物珍しかったのだろう。 「待ちなさい! なんで逃げるの?!」 桂奈が怒鳴る。その後、中国語でなにか叫ぶと、突然店長が足を止めた。振り返った店長は――どこに隠していたのか、小さな、しかし鋭い両刃のナイフを突き出した。 大輔も桂奈も、これには大慌てだ。すぐそばには何人も市民がいる。 ただの雇われ店長だと思っていた男が、ここまで激しく抵抗するとは、大輔は想定していなかった。一瞬パニックになり、思考と体が固まってしまった。 「なにボーッとしてんの!」 桂奈が大輔を怒鳴りつける。それと同時に、桂奈がナイフを構えた店長の右手に掴みかかった。ナイフを奪おうと店長の右手を捻る。ダッシュでは桂奈に分があったが、力勝負ではどうしても男の店長に手こずった。店長の手はナイフを握ったまま離さなかった。 大輔が呆けている一瞬のことだった。 店長が桂奈の両手を振り払おうと、めったやたらに右手を振り回す。その勢いで、ナイフが桂奈の左目の下あたりを掠った。 「桂奈さんっ?!」 桂奈の左頬に、赤い筋が真横に走った。真っすぐな筋に、真っ赤な血が滲む。 考える前に体が動いた。大輔は頭を低くし、店長の突き出た腹に思い切り突っ込んだ。元ラガーマンの恋人――晃司仕込みの低めのタックルが決まり、店長が地面に倒れ込む。その拍子にナイフが滑り落ち、それが遠くに蹴り出されるのを大輔は目の端に捉えた。桂奈が凶器を遠ざけてくれたのだ。 受け身を取らずに倒れた店長は、すぐには起き上がれなかった。大輔が体を起こしても、仰向けのまま唸っている。背中を打ったのだろう、上手く呼吸できない店長を桂奈が無理やり引き起こし、苦しそうにしているのも無視して、今度はうつ伏せで地面に押さえつけ、手錠をかけて拘束した。店長のズボンの後ろポケットには、さっき持ち出したノートが丸めて突っ込まれていた。 ナイフを持って暴れた男を捕らえられ、ホッとするも――大輔は青ざめた。 「……桂奈さん……ち、血が……」 「は? そんなことより、こっちにも応援呼んで。風営法違反どころか傷害で現逮だよ、まったく……」 桂奈は頬の血を拭うこともせず、怒りのまま乱暴に店長を立たせた。 桂奈は組対時代に勉強したという中国語で、店長になにか話しかける――というより怒鳴り散らした。大輔に中国語はわからないが、厳しく責め立てていることは、その口調や声から明らかだった。 大輔は無線で荒間署に応援要請をし、その後晃司にも連絡して店長を捕らえたと伝えた。荒間署で待機する組対課の刑事たちにも連絡しなければならない。すべきことはたくさんあった。それらをこなしながら――桂奈の頬の傷から目が離せない。 仲間が――大切な人が、血を流すのを見たのは二度目だ。けれど、慣れることなどなかった。 血は、大輔に死ぬほどの恐怖を思い起こさせる。 最愛の人から大量に流れ出た血を思い出し、今も足が竦むほど怖くなってしまう。 桂奈は怪我をしたことなど、まったく気にしていないようだった。早口で店長になにかまくし立てている。 桂奈は元気だ。それなのに大輔は、彼女の頬に真横に走った傷が、滲む血が――震えるほど恐ろしかった。
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