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誰かの傷跡 2
街中での大捕物を終えた大輔たちは、一息つく間もなく、荒間署に戻って慌ただしくしていた。きっと今夜は帰れないだろう。
しかし忙しいといっても、大輔たち生安課は本来の仕事はほとんどできていない。違法風俗店の責任者である、暴れ回った店長を風営法違反容疑で取り調べたいが、刑事課が傷害はうちで、組対三課は玄武の重要参考人だからまずはうちだ、はては組対四課まで内海組との関連を先に調べさせろと訴えてきて、四つ巴となった事情聴取争いは、課長が現れた組対三課が勝って有無を言わさず横取りされた。
ただのチャイエス店店長の取り調べに、本部の組対課が躍起になるのはわけがあった。店長は店から逃げ出す際、一冊のノートを持ち出した。それを調べると――玄武が闇銀行を使って中国本土に送金した記録、帳簿だと判明した。
実は雇われ店長は玄武の金庫番で、玄武のほとんどの金の管理を任されている幹部メンバーだったのだ。チャイエス店の経営に熱心でないはずだ。重要で大切な本業が他にあったのだから。
意外な大物を捕らえたことで事情聴取は長引き、そして夜も遅くなってしまい、昨今は被疑者の人権にうるさいので、生安課の聴取は明日に回された。とはいえ明日になっても、生安課が事情聴取できる順番は、午後か夕方になってからだろう。
それでも大輔たちに休んでいる暇はない。店長以外の従業員、それに客からも話を聞く必要がある。その後は膨大な事務作業が続く。さらに合間には、事情聴取を横取りした組対三課や四課からあらゆる雑務が押しつけられてくる。
一太はキレる寸前だが、桂奈の話を聞いた大輔は、使われているうちが華だから、といら立ちを収めた。働き改革、と騒がれる世間とかけ離れすぎていないか、と疑問に思いながらも――。
自分の仕事と、押しつけられた仕事に忙殺されそうな大輔は、今は生安課の自席にいた。今夜は遅くなっても生安課のフロアは明るく、大勢の警官がまだ働いていた。しかし、保安係の席には大輔と一太しかいない。晃司は組対三課に交じって働いており、桂奈は――おそらく組対四課を手伝っているのだろう。つまり保安係に残っているのは――まだまだ使えない二人、ということになる。
「はぁあ……もう今日は絶対に帰れないよね」
大輔より大分早くキーボードを叩く隣の席の一太は、そのスピードを緩めることなく愚痴を零した。
「ですね。まぁ、帰れないのは組対の皆さんも一緒だし。上は上で忙しそうでしたよ」
「だろうね。俺たちに仕事回しといて、自分たちは帰ってたらさすがに抗議するよ。……て、小野寺さんと桂奈さんはぁ? ほんとあの二人は上手くやるよねぇ」
「それもまぁ、仕方ないですよ。あの二人は本部でも使えると思われてるみたいだから」
「なんだよそれぇ、それじゃ俺たちが使えないみたいじゃん!」
「そ、そんなつもりじゃ……あ、小野寺さん」
一太に絡まれて困っていると、晃司が戻ってきた。ひどく慌てた様子で、大輔も一太もなにかを察する。一太が手を止め晃司に問いかけた。
「小野寺さん、もしかして上でなんかあったんですか?」
「ああ……結花の親父さんが札幌で出頭した。それでまたバタバタしてな。お前らにも一応報告」
「よかった! お父さん、無事だったんですね。結花さんも一安心ですね」
気丈に耐え続けた結花の笑顔が思い浮かび、大輔の疲れも少し飛んだ。一太も嬉しそうにしている。
「まぁ、元気そうだよ。ただ……まだ色々謎がありそうだぞ。駅の防犯カメラに映ってた若い男と一緒に出頭したそうなんだが……そいつが怪しいんだ。中国人らしいけど、パスポートも在留許可証も持ってないってさ」
「え? 不法滞在者ってことですか?」
「なんでそんな男と、結花さんのお父さんが一緒にいるんですか」
大輔と一太の問いが被り、晃司が噴き出す。
「さぁな。ほんとあの親父さん、謎が多いよ。とりあえず結花には連絡した。いったん実家に帰らせてたんだけど、今からまた署に来るってさ。まだ親父さんは札幌で、明日の飛行機もいつになるかわかんないけど、無事な姿見るまで安心できないんだろ。……だから結花を迎えに行ってくる」
「え? それ……」
一太が縋るように晃司を見つめ、晃司は心苦しそうに顔を歪めた。
「悪いな、一太。結花からご指名だ、俺に迎えにこいって。つうか……俺だと頼みやすかったんだろ。だからちょっくら出かけてくるわ」
結花は晃司を頼りきっている。それには一太も――大輔もヘコむ。一太はわかりやすく落ち込んだが、大輔が表に出せるわけがない。そして晃司も、一太や他の警官がいるから、大輔にフォローしてくれなかった。仕方ないとわかっているが、大輔はコッソリふてくされた。
「そういえば、桂奈さんは? 上でのお手伝い忙しいんでしょうけど、俺らの仕事も二人じゃちっとも終わらないですよ」
一太が不機嫌を隠さないで言う。代わりに怒ってもらえた気がして、大輔は少し気分がよくなった。けれど、続く晃司の言葉に大輔の嫉妬は吹っ飛んでしまう。
「あ、桂奈なら病院行ったぞ」
「えっなんで? あの傷そんなにひどかったんですか?!」
突然声を荒げた大輔に、晃司が驚いて目を瞬かせる。
「いや、たぶんそんなでもなさそうだけど……バタバタしてるせいで傷が塞がらないのか血が止まらなくて、見かねた大塚さんが市立病院行ってこいって。あそこ、夜間診療も受け入れてるから」
「血が止まらない、んですか?」
「つっても、絆創膏に滲む程度だぞ? けど、大塚さんが心配してさ。なんか、娘が怪我して帰ってきた気分なんじゃねぇの」
そう話す晃司の口調は軽かった。だから大輔が青ざめて心配するほどではないのだろう。ただ、桂奈の傷は深くはなかったが、長さがあって小さな絆創膏一枚では収まらなさそうだった。ちゃんと手当しないと、いつまでも傷が塞がらず血が止まらないのかもしれない。
桂奈は傷の手当のために病院に行ったのだ、と自分を言い聞かせるが、さっきの光景を思い出すと――ブルッと体が震えた。鋭利なナイフが桂奈の頬を掠った瞬間を――。
大輔の体の震えは小さなものだった。隣の一太も気づかないほど。それでも気づいてくれたのは、机を二つ挟んで正面に立つ晃司だった。
「大輔……桂奈を迎えに行ってやったらどうだ? あいつも車で行ってるけど、ちょうど俺も結花を迎えに行くのに車出すから、結花の実家に行く前に市立病院で下してやるよ。んで、帰りはお前が運転してやれ」
「……え?」
桂奈は自分で署の車を運転して病院に行ったのだから、帰りもそうするつもりだろう。晃司がそんな面倒なことを言い出したのは、桂奈のためじゃない。大輔のためだ。
晃司はわかっている。桂奈の怪我で、大輔がひどく動揺していることを。その隠された理由も――。
「ちょっと小野寺さん! 俺一人じゃ仕事が終わらないですよ! 桂奈さんなら勝手に一人で帰ってくるでしょ」
「うるせぇなぁ、お前は同僚を心配する優しい心がないのか? 市立病院も結花の実家も近いし、すぐに帰ってくるよ。そしたら俺もこっちの仕事するから、少し待ってろ」
晃司がそう言っても、一太はまだ文句を続けた。そのうち晃司がキレて二人の言い争いが始まる。
いつもの光景を眺めながらも、大輔の脳裏からさっきの光景が消えてくれない。
大輔は一生懸命、口喧嘩する二人に呆れて笑うフリをした。
そんな大輔の無理にも気づいた晃司と二人、大輔は桂奈のいる病院に向かった。
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