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誰かの傷跡 3
夜の病院は、当たり前だが静かだ。照明も最低限のものに落とされ、どこも薄暗い。暗くて静かな場所にいると、気持ちが余計に塞いだ。
大輔は病院の裏手にある、夜間受付のそばのベンチに一人で座っていた。夜間の出入り口はここしかないと聞いたので、ここで待っていれば治療が終わった桂奈とすれ違うことはない。
晃司は大輔を病院の車寄せで下した後、結花を迎えに行った。ここまで車でたった十分ほどだが、その間、二人はなんとなく黙っていた。晃司は、大輔が桂奈の怪我に動揺していること、その深い理由をわかっていながらも触れなかった。大輔も自ら話す気分ではなかった。上手く言葉にできない、と言ったほうが正しいだろうか。
夜の病院でこうして待っていると、晃司の手術中を思い出す。恐怖に押し潰されそうになった数時間を――。
弾はきれいに取り出せて、幸い傷は浅く、内臓も脊髄も損傷がないので、回復は早いだろうと術後に医師から説明を受けても、ちっとも安心できなかった。
今も――怖くてたまらない。心臓が冷えて、凍えている。桂奈の怪我はずっと軽傷だ。わかっているのに、恐怖を振り払えない。
うつむき、暗い廊下を睨んでいると、ヒールの足音が近づいてきた。
「……大輔くん?!」
桂奈の驚いた声がして顔を上げる。治療を終えた桂奈に――大輔は目を剥いた。桂奈の左頬は、大きなガーゼに覆われていた。
大輔の動揺を察し、桂奈が少し慌てる。
「大げさだよね、このガーゼ。傷自体はほんとに浅いんだけど、大きかったんだよね。指に貼るような絆創膏じゃ足りなかったから、こうなったの。これも血が止まったら取っちゃっていいって」
話しながら桂奈が大輔の隣に座る。
「病院に来るほどの怪我じゃないんだけど、公災の手続きに診断書必要だし、大塚さんがとにかく診てもらえってうるさくって。大塚さん、ひどいんだよ。もし傷跡が残ったら、お前の結婚相手は俺が探してやる、だって。それって今時はセクハラです、て言い返しちゃったけど」
桂奈はそう言って明るく笑った。それなのに、大輔は胸がギュッと締めつけられた。真っ白なガーゼから目が離せない。万が一、桂奈の傷が消えなかったら――。
「……だったら、俺と結婚してください。もし傷が治らなかったら」
桂奈の笑顔が――固まる。それから見たこともないほど大きく、目が見開かれた。
「……ちょちょちょっと、ほんっとに大した傷じゃないってば! てゆうか大輔くんまでひどい! アラサー女は顔に傷があっちゃ結婚できないって言うの?」
「そんなことはありません! 桂奈さんは素敵だから、顔の傷なんて関係ないけど……けど……すいません、俺が一緒にいたのに怪我させちゃって」
大輔は桂奈に向かって頭を下げた。自分が情けなくて、もう一生顔を上げられない気がした。
「ごめんなさい、俺、店長が取り出したナイフ見て、完全に足が止まりました。パニックになりました。いや……店長が逃げ出した時点でテンパってたんです。ほんと……すいません。俺が仕切るのはまだ早かったんです。俺……いつも、誰も守れない……」
自分が未熟なせいで、女性が顔に傷を負った。恋人が撃たれた時でさえ、なにもできず泣き叫んだだけだった。
自分は誰も、なにも守れない。情けなくて恥ずかしくて、激しい自己嫌悪に苛まれる。
大輔は、桂奈の傷を見るのが怖くて顔を上げられなかった。しばらくうつむいていると、腕に優しい温もりを感じた。桂奈が、大輔の腕に優しく触れていた。
「小野寺さんが撃たれた時のこと……まだ立ち直れてなかったんだね」
そっと桂奈を見る。桂奈は困ったように微笑んでいた。
「無理ないと思うよ。あたしだって、目の前で同僚が撃たれたらすごいショックだと思う。それが大切な人ならもっと……辛いよね。でも、あたしが怪我したのも、小野寺さんが撃たれたのも大輔くんのせいじゃないよ? 大輔くんが責任感じることじゃないから」
「だけど……店長が振り回したナイフがあと数センチずれてたら、桂奈さんは失明してたかもしれないんですよ? 小野寺さんを撃った弾も、もう少し背骨の近くに当たってたら、脊髄を損傷して麻痺が残ってたかもしれない。……俺、怖いです。誰かが……大切な人たちが傷つくのが」
「……そうだね。でも、それがあたしたちの仕事だし、大輔くんの理屈で言えば、怪我してたのは大輔くんでもおかしくなかったんだよ。先に店長に突っ込んだのが大輔くんだったら、銃撃の現場で小野寺さんと立ち位置が逆だったら……。ね? お互い様だと思うしかないよ」
「だったら俺が……自分が怪我した方がいいです」
「こら! そういう考え方は危険だよ。誰かを守りたかったら、まずは自分を守れるようにならなきゃ」
「けど……晃司さん、あの時のこと、俺の前では話さないんです」
晃司が撃たれた恐怖と地続きで、ずっと胸に引っかかっていたことがある。重傷を負った晃司は、あの時のことを大輔の前では話さない。治りかけの傷が痛んだこともあっただろうが、それさえ口にしなかった。
撃たれたその瞬間に一緒にいた大輔に、あの時のことを、傷のことを一言も話そうとはしない。
「他の人とは……冗談みたいに話すこともあるのに、俺が頼りないから……俺があの時を思い出してウジウジするのわかってるから……俺には話さないんです。怪我したのは晃司さんなのに、俺の方が辛そうにするから……」
撃たれたショックや傷の痛みで晃司が苦しんでいるならば、恋人の大輔が支えなければならない。けれど、あの時を思い出すと、大輔の方が苦しくなってしまう。恐ろしくなってしまう。
晃司は優しいから、辛いことを思い出させないように、あの時のことを大輔に話さないのだ。そんなのは――対等な本物の恋人同士の関係ではない。大輔ばかりが晃司に甘えて、情けなさで死にたくなる。
「俺……誰も守れないだけじゃなく、大切な人に頼ってもらうこともできない……」
誰も守れず、誰も助けられず、大事な人の支えにもなれない。そんな自分がどうして警察官をやっているのか、わからなくなりそうだった。
大輔の腕に触れた桂奈の手が、優しく揺すられる。目線で促された方に振り返ると、少し離れて合田と――晃司が並んで立っていた。
「どうしたんですか、二人して。まさか二人もあたしのお迎えですか? 急にみんなに優しくされると……なんか怖いんですけど」
桂奈が笑いながらそう話すと、合田も笑って答えた。
「そのまさか、だよ。桂奈が怪我して病院行ったて聞いたから、心配でたまんなくて駆けつけたんだ。俺って、可愛い後輩に優しいからな」
「ええ~! ウソだぁ! 合田さんが言うとメチャクチャ嘘くさいんですけど」
「おい、ほんとに心配してんだぞ」
合田はいつものように軽い調子で笑っているが、その声はいつもより真面目に聞こえた。桂奈を心配しているのは本心なのだろう。それは桂奈にも伝わって、彼女の笑顔が優しくなる。
「ありがとうございます。玄武の幹部を捕まえて、組対三課も忙しいだろうに抜け出してきてくれるんだから……合田さんがいまいち出世できないのはそういうとこなんですね」
「あのな、俺はもともと出世なんて興味ないよ」
それもきっと本心だろう。合田は有能だけれど、捜一や組対課の刑事特有の乱暴なほどの野心を感じさせない。
「……で、小野寺さんはあたしじゃなく、大輔くんが心配で合田さんについてきちゃったんですよね? あたしはついで、でしょ?」
「はぁ? ちょうど結花を署に連れて帰ったところで、出かけようとしてる合田さんに会ったから……そのまま俺が乗せてきてやったんだよ」
「もう! そこは桂奈が心配だった、でいいじゃないですか。どこ照れてるかわかんないし」
桂奈と合田が揃って笑うと、晃司は不機嫌そうにソッポを向いた。その態度から、晃司が大輔を心配してまた病院に戻ってきてくれたと知り――情けなさを上回って嬉しくなる。
「どうやら図星らしいから……晃司は大輔と帰れよ。俺は桂奈と帰るから」
「あら、合田さんやっさし~!」
「大輔がお手柄だったからな。玄武の金庫番を捕まえられたご褒美だ」
合田が大輔に向かって、バチンと音がしそうなウィンクをした。落ち込んだ大輔も、合田の目から星が飛んだのが見えた気がして――つい笑ってしまった。お陰で少し、元気になった。
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