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歓楽街の夜 3
「確かに、なんでだろうね。一太くんだってブサイクじゃないし、可愛い系ではあるのに」
大輔のオッパイ押しつけられすぎ問題、は大輔たちが自席に戻っても続き、そこに桂奈も加わった。
桂奈はノートパソコンを開き、今夜の摘発の調書をまとめている。キーボードを叩く手を止め、どこかを見て少し考え込んだ。
「童貞と素人童貞の差なのか……それとも、やっぱりイケメンとフツメンの間には埋めがたい溝があるのか……」
先ほど事情聴取相手の変態プレイに付き合わされた桂奈は、冷静な顔をしているが気分は相当イラついているようだった。淡々とひどいことを言っている。
素人童貞でフツメン、と微妙な言われ方をした一太がムウッと顔をゆがめる。
「押しつけるオッパイのない桂奈さんに言われたくありませーん」
「はい、それセクハラ。懲戒処分からのネット炎上コースね」
「はいぃ? 桂奈さんこそパワハラ! 立場を利用して後輩を脅してますよ!」
「パワハラでもしなきゃやってらんないわよ、こんな職場」
チッと、女性らしからぬ低い舌打ちをして、桂奈は事務仕事に戻った。キーボードを叩く音は、パソコンの破損が心配になるほど乱暴だ。
先ほどの出来事がさすがの桂奈でも堪えたのかと、桂奈の正面に座る大輔が心配して窺っていると、隣に座る一太が大輔の机を小さく叩いた。振り向くと手招きされ、壁代わりに立てられた分厚いファイルに顔を隠して、一太が内緒話を始めた。
「桂奈さん、ちょっと前にフラれたんだよ」
「……え?」
「去年の年末ぐらいに、合コンで知り合った県庁勤めの男といい感じになって、何度かデートもしてたんだけど、桂奈さんが忙しくって向こうが思うように会えないうちに、向こうに彼女が出来ちゃったんだって」
だから荒れてるんだよ。と教えた一太は、悪そうな顔で笑っていた。
「それわざと? 聞こえてるからね、一太くん」
低く冷たい声がして、大輔と一太はビクリと震えた。ソッとファイルから顔を上げると、正面から桂奈が怖ろしい顔で睨んできた。ヒエッと怯えた大輔と一太に、桂奈の隣の晃司が笑いをかみ殺している。
「男のくせに噂話が好きよねぇ、警官って。だから警官の男はイヤなのよ」
「警官の男も、女刑事はちょっとなぁ……」
怖いもの知らずなのは、桂奈の先輩の晃司だ。はい?! と桂奈に睨まれても、晃司は肩を竦めて素知らぬ顔だ。
「もういいの。合コンも年々誘われなくなってるし……またしばらくは仕事に打ち込んでやるんだ、あたし。それで、来年こそ生安課(ここ)からいなくなってやる」
物は多いが整理整頓が行き届いた桂奈の机には、昇任試験の問題集が積まれていた。桂奈は先日、巡査部長への昇任試験を受けたばかりだった。
「試験、受かってるといいですね」
大輔が本心からそう伝えると、桂奈の険しい表情がほんの少し和らぐ。
「ありがと。ま、自分で言うのもなんだけど、筆記試験は余裕なんだ、あたし」
「問題は面接だよな、お前の場合」
晃司が面白そうにそんなことを言った。大輔は意味がわからず首を捻ったが、桂奈は怒ることもなくため息を吐いて頬杖をついた。
「課長の推薦も受けられたんだから、いい加減……禊は済んでると思うんですけどねぇ。小野寺さん、本部の誰かからなんか聞いてません?」
「さぁ? 桂奈の話は出てねぇな。でも……出ないってことは、普通に試験通るんじゃねぇか? 結果に問題なければ」
「平等に、試験結果を扱ってもらえると信じていいんですかね」
晃司と桂奈の話は、大輔にとってはなんの話か想像もつかなかった。隠す様子もないのだから二人に訊いてもよさそうだが、なぜか気安く口を挟んではいけない気がした。
晃司と桂奈は、県警本部の刑事部に同時期に在籍していた。捜査一課と組織犯罪対策四課と、所属した課は違うが同じ刑事部で、殺人事件と暴力団犯罪を扱う二つの部署は同じ事件を扱うことも多く、晃司と桂奈も刑事部時代に何件か同じ事件を担当したという。
晃司と桂奈は本部に呼ばれるほど優秀な刑事であるので、後輩でまだまだ新人臭さが抜けない大輔にはついていけない会話も多い。二人は本部にいた時の人脈か、自分で築いたコネかわからないが、大輔が知らないような情報をたくさん抱えているのだ。二人の間でしか通じない話は多かった。
恋人の晃司と、彼と年も近く独身の美人刑事が自分のわからない話をしているのだから、嫉妬めいた気持ちを抱いてもおかしくないが、大輔は不思議と二人に嫉妬することはなかった。二人のように仕事ができるようになりたい、と思うことはあっても、仲良さげに二人しかわからない会話をする二人を妬む気持ちは沸かない。
二人の会話の内容より、そのことが気になってきた大輔は、頭を捻って二人をジッと見つめた。
晃司と桂奈は、自分以外の人からはどんな風に見えているのだろう。これだけ仲が良さそうなのに、二人は付き合っているのか、などと聞かれたこともないから、他の同僚も大輔と同じように、二人に先輩後輩以上の関係性は疑っていないのだろうか。
しばらく二人を見つめたが、恋愛経験がほぼゼロの大輔には――なんの答えも導き出せなかった。
諦めて自分の仕事に戻る。大輔も今夜の摘発の事務処理を大量に抱えていた。書類作成のため、ノートパソコンを開く。
「そういえば大輔くん、南口のチャイエスの内偵って進んでる?」
晃司との話が一区切りついた桂奈は、ガラリと変わった話題を大輔に振った。
大輔は、一カ月ほど前に学生時代の友人との世間話の中で、荒間駅南口の商店街にチャイニーズエステといわれる店ができたと知った。店の立地から怪しく、大輔は上司の係長の許可を取って自ら主導で店の内偵調査を行った。
チャイニーズエステとは、中国人やアジア系外国人の女性が接客するマッサージ店の総称だ。オイルマッサージや足つぼマッサージなどの健全なサービスを提供する店がほとんどだが、マッサージ店と名乗らないのは、マッサージ店を名乗るには国家資格を有する者が施術を行わなければならない法律があるからだ。
そして中には、マッサージだけでなく性的サービスを行う店もある。いわゆる――ヌキありの店だ。その方法は様々だが、性的サービスを提供するには、風俗営業の届け出を出して許可を得なければならないが、ヌキありのチャイエス店は届けを出していない。
大輔が内偵を進める店は、その類だった。真っ当な商売はしておらず、風俗営業の届け出を出さずに性的なサービスを提供する違法店で、その証拠を大輔は少しずつ丁寧に集め、近々今夜のように摘発を行う予定だった。
「……はい。順調だと思います。後は摘発入るタイミングを、係長に相談しようかと」
「おお~、じゃあもうすぐだね、大輔くんにとって初めての、自分仕切りのガサ入れ」
桂奈は自分のことのように喜んでくれた。今夜のヘルス店の摘発は、桂奈が中心となって行ったもので、その内偵で桂奈も忙しかったのに、大輔の仕事もかなり手伝ってくれた。内偵を進める際のアドバイスもたくさんくれた。
「ありがとうございます。桂奈さんや……小野寺さんに教わることばっかで、俺の仕事って感じがあんまりしないんですけど」
恋人の晃司も、たくさん支えてくれた。普段はあまり接点のない、南口商店会の顔役と引き合せてくれたのも晃司だ。晃司が北荒間に知り合いが多いのは知っていたが、南口でも顔が利くと知って驚かされた。
「最初はみんなそんなもんだよ。ガサ入れ仕切って、やっと大輔くんもいっぱしの生安課刑事、かな?」
「そう、なれればいいんですけど……」
大輔は自信なさげに苦笑いを浮かべた。南口の怪しいエステ店について最初に情報を得たのが大輔だったので、大輔が中心となって内偵調査を進めた。そのまま大輔がリーダーとなって摘発に入る予定だが、桂奈や晃司のようにテキパキ行える自信はまったくない。
「気弱になるなよ。舐められても面倒なだけだ。ハッタリでも偉そうにしとけ」
弱腰の大輔に晃司が喝を入れる。口調は厳しかったが、目を見るといつもの優しさが満ちていた。晃司も桂奈も、大輔の初の大仕事を応援してくれているのだ。
頼りになる先輩二人の応援を得て、大輔もほんの少し自信を持てた。
「はい。頑張って……今夜の桂奈さんぐらい迫力出していきます」
「ちょっとぉ、あたしは偉そうにしてないでしょ。毅然としてるの、あたしは」
「フラれた八つ当たりしてるようにしか見えなかったけどな」
「小野寺さんまで、ひどい!」
ひどいと言った桂奈は笑顔で、それにまた大輔は笑った。疲れた保安係に、ひと時朗らかな空気が流れる。
たった一人を除いては――。
「……なんだよ、大輔ばっかり。オッパイも大輔だけ、ガサ入れを仕切るのも大輔だけ……」
大輔の隣の一太は一人、悔しさで目を滲ませていた。
「俺は大輔の先輩だぞ! 俺にオッパイもガサ入れも譲れ~!」
一太は本気のようだったが、保安係の先輩たちは笑い声を大きくした。一太の目に溜まった涙が溢れそうになる。大輔は少し一太が気の毒になった。
泣きそうなほど悔しがり、プルプルと震える捨てられた子犬のような一太を見ているうち――結局大輔も噴き出した。
「大輔~!」
その夜保安係に最後に響き渡ったのは、素人童貞の切なく哀しい叫び声だった。
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