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誰かの傷跡 5
大輔たち生安課が、チャイエス店の摘発に入った翌日夕方、早くも札幌から結花の父――林孟徳(はやしたけのり)が合田に付き添われ、荒間署に連行されてきた。
ずっと荒間署で父を待っていた結花は、父と会って声を上げて泣いた。逃亡生活のせいか孟徳は少しやつれて見えたが、泣きじゃくる娘を抱きしめた時は濡れた目をしながらも、晴れやかな笑顔だった。
父と娘の、感動的な再会シーンだった。それなのに――大輔は呆気に取られた。初めて実物の孟徳と会って、その美貌に目を奪われてしまったのだ。
写真で見た時も美形だとは思っていたが、本物は写真の比ではなかった。切れ長の、目尻がスッと上がった涼やかな目元が印象的な、往年の映画スターのような華さやかさが孟徳にはあった。身長も高いし、結花の父ということは四十代後半から五十代半ばの年齢だろうに、スラッと引き締まった体格で、髪も黒々とし、量も年齢の割に多い。
あの容姿では、数十年ぶりに孟徳と会った玄武の古参メンバーもすぐに気づいただろう。よほど太ったり、頭髪が薄くなったりでもしない限り忘れられない、そうそういない美丈夫だ。
「結花ちゃんのお父さんて、ホントにただの街の不動産屋なの?」
同じく初めて孟徳と会った桂奈も、大輔と同じ感想を抱いた。駅の反対側にあんな美中年がいたなんて、今までよく気づかなかったものだ。大輔たちの情報網は、まだまだ穴だらけらしい。
札幌まで孟徳を迎えにいった合田は、もう一人、若い男も連れ帰った。荒間駅の防犯カメラに孟徳と写っていた男だ。映像でも若いとわかったが、実物は少年と見間違えるほど幼かった。パスポートも在留許可証も持っていないので、本当の年齢は不明だが、男が自分でいうには結花より一つ下の十九歳で、劉と名乗ったらしい。
孟徳と劉の事情聴取が気になった大輔だが、大輔たちには生安課の仕事がある。チャイエス店店長を風営法違反で逮捕、送検して今回の仕事の大まかな部分は終わりだ。もちろん、その後の事務処理も膨大に残っているが。
その店長は風営法違反以外にも、逮捕時の公務執行妨害並びに傷害罪で刑事課から逮捕、送検された。しかし彼には本丸と呼べる重大な嫌疑がかかっており、厳しい取り調べがさらに続いた。
中国マフィア『玄武』の、違法送金に関わる諸々の法令違反。店長は玄武の金庫番として、それらを仕切っていた疑いがある。さらには幹部メンバーである彼から証言を引き出し、玄武のあらゆる犯罪行為、金の流れを詳らかにしなければならない。
それらは組対三課の扱いになるが、こちらは複雑な犯罪のため逮捕、送検にはもう少し日数がかかるだろう。
風営法違反での店長の送検がすんでも、事務処理はまだたくさんあるし、他にも多くの業務がある。大輔たちの毎日は慌ただしく過ぎていった。そして大輔たちが店長を送検してからさらに数日。仕事終わりの大輔は――あの場所にいた。
荒間署から少し離れた、つい先日まで合宿生活を送っていた、合田宅である。
大輔は寝起きしていた一階の和室で、自分の荷物と晃司、一太の荷物を仕分ける作業をしていた。ここで寝泊まりしたのは数日間だったが、男連中は私物や下着を置きっぱなしにしていたので、それぞれの荷物が結構な量で合田宅に放置されたままになっていた。
その片づけを、久しぶりに定時で上がった大輔が任された――というより押しつけられた。一太も定時で上がっていたが、最近はこき使われているわりに大輔と違って手柄も少ない、と不満を爆発させ、今日だけはさっさと帰ると宣言して本当に帰ってしまった。
桂奈や、保安係ではないが一緒に合宿していた結花の荷物は、さすがに男性の大輔が片づけるわけにはいかず、組対四課の手伝いが落ち着いたら桂奈が後日取りにくる予定だ。
そして晃司はというと――。
大輔は、畳に正座でTシャツを畳みながら、長いため息を吐いた。そのTシャツは晃司が部屋着に使っていたものだ。大輔の部屋着より一回り大きいTシャツを、ギュッと抱きしめる。合田の家で洗濯したそれは、晃司の家の柔軟剤とは違う匂いがして、いつもの晃司の匂いがしなくて寂しくなった。
寂しくなったのは、Tシャツの匂いの違いのせいだけではない。晃司は今も、結花とずっと一緒にいる――。
孟徳が戻ってきても、結花が父に会えたのは最初だけだった。孟徳は自ら録音した内海組の投資詐欺現場の音声データを証拠に、投資詐欺容疑で逮捕されたのだ。
他にも二つの犯罪組織との関わり、内海組と、過去にメンバーだった玄武との繋がりを徹底的に調べられている。それらの取り調べが終わるまで、娘の結花でも面会は許されない。結花の心労は終わらなかったのだ。
だから晃司は、結花のそばに居続けている。父が帰ってきたはいいが逮捕されてしまい、結花は心配で大学にも行けていない。父が行方不明だった時の方が、無理はしていたのだろうが、元気に日常生活が送れていたぐらいだった。
そんな彼女を、晃司が放っておけるわけがない。晃司は仕事の合間を見つけては結花と連絡を取っているし、彼女が会いたいと言えば駆けつけた。今日も仕事終わりに結花の実家を訪ね、今頃二人はあの広い家で二人きりで話し込んでいるだろう。
晃司を――信じている。結花が晃司に好意を抱いているのは間違いないが、晃司がその思いに応えることはないとわかっている。それでも――不安だし、単純に嫌だった。
晃司が好みの女性と二人きり。嫌でたまらないが、結花の状況を思えば嫉妬する自分の器が小さいだけな気もして、それでまた自己嫌悪が強くなる。
「……晃司さぁん……」
Tシャツに顔を埋め、恋人の名を呼ぶ。吸い込んだ匂いが彼の匂いじゃなくて、寂しい――。
「おいおい、彼氏の服抱きしめて、ナニやってんだぁ?」
大輔は忘れていた。ここは――合田の家だったということを。
心臓がひっくり返りそうなほど驚いて顔を上げると、和室とリビングの境に立って、ニヤニヤしながら大輔を見下ろす――合田と目が合った。
「晃司のパンツは二、三枚置いてけよ? 俺が使わせてもらうから」
ニヤリと笑った合田をギロリと睨む。
「置いてきません! 絶対に!」
「なんだよ、ケチ。パンツぐらいいいだろ、彼氏に手を出すわけじゃないし。ま、その彼氏は今頃……美人女子大生とイイ感じ、だけど?」
「晃司さんはそんなことになりません! あっ! 言ってるそばから晃司さんのパンツ触らないで下さいよ!」
ダメだと言ったのに、大輔が丁寧に畳んだ晃司のボクサーパンツを、合田は広げてヒラヒラさせた。腹が立って乱暴に取り返す。
「なんだよ、手伝ってやろうとしたんだよ。つうか、そんなにキッチリ畳むか? どうせバッグに詰める時にグチャグチャになるだろ」
合田はヨッコラセ、と年相応なことを言いながら、大輔の前に胡坐で座った。そしてせっかくきれいに畳んだ晃司の洗濯物を、晃司のトートバッグに適当に詰めていく。
「ちょっと! 俺がやりますってば!」
「彼氏の荷物は触らせないってか? お前、自分のこと棚に上げて嫉妬深いのな」
合田はさっきからずっとニヤニヤしている。大輔をからかって遊んでいるのだ。今の合田は優しい先輩ではなく、非常に面倒くさいオッサン、である。
合田は組対三課の中心メンバーとなって、孟徳や劉の取り調べを行っていた。だからこの片付けも、鍵さえ借りられれば大輔が一人でやると言ったのに、なぜか合田は休憩ついでだ、とついてきた。しかしほとんど手伝わず、大輔に面倒くさいチョッカイをかけるだけだった。
「あのぉ合田さん、忙しいんでしょ? なんで俺についてきたんですか」
遠慮なく訊くと、合田は、ん~? とふざけた調子で首を傾げた。
「晃司、結花さんにベッタリだろ? 結花さんの心情を思えば仕方ないけど、大輔は寂しがってるだろうと思ってさ。……俺に怒ってりゃ、寂しがってる暇も、嫉妬にかられてる隙もないだろ?」
合田が優しい人なのはもう知っている。けれど、それだけの理由で忙しい仕事を抜け出して付き合ってくれるほどだとは、まだ知らなかった。
大輔は目をパチクリさせた。
「合田さん、本当に出世に興味ないんですね」
「なんだよ、人が優しくしてやってんのに。……晃司のパンツの代わりにお前のパンツ貰うぞ」
「うわぁああ! や、やめて下さい!」
お気に入りの星柄のボクサーパンツを合田に掴まれ、慌ててひったくる。小学生みたいなパンツだな、と笑われると思わず睨んでしまった。
優しくても――油断のできない男だ、合田は。
大輔がプリプリしながら作業を再開させると、手持ち無沙汰になったのか、合田はスマホを弄りながら話し始めた。
「怒らせちゃったみたいだから……俺らが掴んでる面白い話、教えてやろっか」
「それって……孟徳さんや、あの若い男……劉ってやつのことですか?」
「そ。あの若い中国人、孟徳さんの昔の知り合い……親友の息子だったんだ」
合田たちの事前の調べでは、孟徳に中国人の身寄りはいなかった。そのため孟徳には国に残して気がかりな家族はおらず、むしろ犯罪組織に加わっていた過去は、日本に来た時点で断ち切るつもりだったらしい。しかしたった一人、その身をずっと気にかけていた男がいて、それが劉の父親だったという。
結花の実家に隠されていた古い写真、それに若かりし頃の孟徳と写った男が、その親友だった。いわれてみると、写真の男と劉はよく似ていた。
劉は外国人技能実習生として来日し、県内の小さな部品工場で働いていた。両親はすでに他界し、日本で仕事を見つけて身を立てるつもりだったが、受け入れ先の工場が近年問題になっている、外国人実習生を安い労働力としか考えていない劣悪な労働環境の職場だった。働けば働くほど、仕事や賃金に不満が溜まっていく中、運悪く、地元が同じということで近づいてきた玄武のメンバーと繋がってしまう。
劉は研修先の工場で必要だったため、日本で運転免許証を取得している。これは玄武にとって好都合で、彼は同郷であることを利用されてズルズルと組織に引き込まれていった。研修先の劣悪な環境に耐えかねたこともあり、研修先の工場の寮から失踪。そのまま玄武を頼るが、彼らは善意で劉に近づいたわけではない。劉はパスポートなどを取り上げられ、結局玄武でも自由のないまま働かされたのだった。
そんな劉が玄武の下っ端として、孟徳の店に現れた。孟徳の存在に気づいた玄武の古参が、孟徳を再び仲間に引き入れるために店に来た時、運転手として同行してきたのだ。
孟徳は、自分一人のことだったなら、その時点で古い知り合いの誘いを、しかも犯罪の手伝いなど断っていたが、彼らが連れてきた劉を見て、断り切れなかったのだという。
親友に生き写しの息子。しかも玄武に加わった経緯が、親友や自分と同じだった。孟徳も親友も貧しさゆえ、食べるためにマフィアに入った。それなのに自分だけ組織を抜け、国も捨てて日本に渡った。楽なことばかりではなかったが、日本で家族を持って、仕事も順調だった。自分だけ――。
玄武の古参メンバーは、当然孟徳と劉の父親の関係は知っていた。だから息子を使って孟徳を揺さぶったのだ。親友は数年前、中国国内の組織のトラブルですでに亡くなっており、劉の母も幼い頃に病気で亡くなっていた。
「それで仕方なく、孟徳さんは玄武や玄武と組んだ内海組を手伝ったんですね」
「性格悪いが、賢いやり方だよな。自分だけ日本に逃げて幸せに暮らしてる、て罪悪感につけ込むんだから。店や結花さんに危害を加えるぞ、て脅しても、警察に駆け込まれるだけだったしな」
合田の言うとおりだ。決して褒めたくはないが――非常にズル賢い。
「だけど、孟徳さんも頭のいい人だ。ただ言いなりになってただけじゃない。玄武の違法送金に店を使わせたり、内海組の投資詐欺に自分の客を回したりして、積極的に犯罪に関わることで、やつらの犯罪の証拠を着実に掴んでいった。孟徳さんは、それを使って玄武と取引するつもりだったんだってさ、劉を組織から抜けさせることと、パスポートを返せって」
「え? でもそれなら……劉と一緒に警察に来ればよかったじゃないですか。劉は研修先から逃げたことで強制送還されるかもしれないけど、組織とはそれで縁が切れるでしょ? 孟徳さんだって、その証拠を持って自ら出頭すれば逮捕もされなかったかもしれないのに」
「それができなかったのは……孟徳さんが洞口夫妻を詐欺にかけた後、すぐに金を返しただろ? そのことが内海組の三崎にバレて、孟徳さんの目論見もバレちゃったんだな。人を脅しても、自分が揺すられるなんて許さない三崎は、孟徳さんと劉を殺害することに決めた。力関係では内海組の方が上らしく、玄武もその決定に従うことになった。それを察して、孟徳さんは殺される前に劉を連れて逃げたんだよ」
マフィア映画かⅤシネマのような展開に、大輔の目が点になる。
「そんなことって……ありえなくは、ないか。でもでも! だったらなおさら警察に来てくれればよかったじゃないですか! 被害がなければ動けないって言っても、孟徳さんの持ってる犯罪の証拠があれば、内海組も玄武もすぐに調べられましたよね?」
「それも……孟徳さん一人なら、そうしたんだろ。孟徳さんは警察に行けば助かる。けど劉は、一度組織が殺害を決めたら……警察に行っても助からない」
大輔は眉根を寄せ、考え込んだ。少しずつ、大輔にも話が見えてきた。
「そっか、劉は玄武の下っ端で、運転手ぐらいの雑用しかしてなくて、大した罪は犯してないんですね? だから警察に出頭して逮捕されても、日本での懲役はまずありえなくて……強制送還になる。その状況で中国に帰国しても、本国の玄武に見つかったら……」
「おっ、正解。さすが日本のヤクザ、景成会と仲良しなだけあるな。外国のヤクザの考えそうなことも、よくわかってるじゃないか」
「誤解を招くような発言はやめてください。うちは、景成会と仲良しなんかじゃありません」
「そうかぁ? 景成会の幹部とヘルスでシッポリって聞いたけど……」
「あ、あれは……そんなんじゃありませんよ! 緊急事態だったし……なにもありませんからね!」
警察で秘密は持てない。大輔が景成会の幹部――槇村に迫られたことは、本部でも知らない刑事はいなかった。
ニヤニヤ笑う合田を憎たらしそうに睨み、話題を変えようと話を戻す。
「孟徳さん、どれぐらい逃げてるつもりだったんですかね。内海組も玄武も日本国内ではそこまで大きな組織じゃないから、北海道とかまでは追ってこなかったでしょうけど、それでもしばらくは県内には帰ってこれなかったでしょ? 結花さんになにも言わないで、そんなに長い時間逃げるつもりだったんでしょうか」
「ああ……ここからは、完全にオフレコだぞ?」
そう言って、合田がニヤけた顔を引き締める。大輔は不穏な空気に体を強張らせた。
「孟徳さん、劉を秘密裏に中国に帰国させようとしてたんだ。ロシア経由で」
大輔はまた考え込んだ。秘密裏・ロシア経由・帰国――と日常生活では繋がらない単語を文章にしていくと、オフレコと念を押された意味がわかってくる。
大輔はあ然となった。
「それはつまり……劉のパスポートは玄武に取り上げられてて手元にないわけだから……どこかで偽造パスポートを入手して、普通の観光客なんかは使わないルートを経由して、中国に……」
密出国――と言った声は、風に掻き消されそうな囁きとなった。合田は無言で頷いた。
「あ、あの……孟徳さんって、日本に来てからは……駐車違反ぐらいしかしてない、模範的な善良な市民、だったんですよね?」
「……書類上は、な」
大輔の開いた口が塞がらない。色々聞きたいことが多すぎて、なにも聞けずに黙っていると、合田がシレッと話を続ける。
「それを実行に移す前に出頭してくれてよかったよ。もし密出国の手伝いなんかしてたら、起訴は免れなかったからな。そしたら孟徳さんは前科者になっちゃうとこだったから」
「え? その話ぶりは、孟徳さん、起訴はされないってことですか?」
「ああ、家族のような相手を人質に取られて脅されてたし、犯罪の証拠を丁寧に取っておいてくれて、俺らの捜査にも大いに協力してくれてるからな。なにより、投資詐欺に関しては自腹で全額返済してるし」
「よかったぁ! 結花さん、これでやっと安心できますね!」
「お前……ほんとにいい子だね」
「はい?」
「いや。それに……劉も、ほぼお咎めなしになりそうだ」
こちらは意外だった。彼が玄武に加わってからどんな仕事をしていたか詳細はわからないが、少なくとも技能実習生として勤めていた工場から無断で逃げ出しているのだから、それはなにかしら罪に問われるのではないだろうか。
「強制送還もされないんですか?」
「劉がいた研修先の工場ってのがかなり悪質で、先月摘発されてるんだよ。ほら、最近問題になってるだろ、技能実習生の待遇がひどすぎるって。まともなとこもあるが、劉のところは悪い方の典型例で、他にも何人か外国人が逃げ出してるようなとこだったんだ」
「それで、情状酌量? してもらえたってことですか? 劉はどうなるんです?」
「別の実習先で研修を受けられるみたいで、また日本で暮らせるってさ」
「えええ?! そんなこと……随分寛大な、てゆうか特例すぎません?」
「孟徳さんが、強く望んでな。親友を助けられなかった代わりに、その息子の面倒を見てやりたいみたいなんだ、日本で」
「気持ちはわかりますけど……そんな希望、フツー通ります? 入管とかよく許しましたね」
「んん~、こっからはもう絶対に内緒だけど、上が色々動いてくれたんだよ」
「……上?」
「実は、孟徳さんの不起訴も上層部(うえ)が根回ししたんだよ。警務部の吉田部長が地検の担当者に直々に申し入れたって」
「警務部、ですか? しかも吉田部長が出てくるなんて……」
鈍い大輔もすぐにピンときた。まったくの門外漢の警務部、というか吉田警務部長が動いたということは、さらにその上の――警察庁からの指示があったと考えられる。
気づいてから、大輔はさらに混乱した。そして先ほどの疑問が蘇る。
「あのぉ……孟徳さんって、ほんっとうにただの市民、街の不動産屋さん、なんでしょうか?」
ただの市民の起訴不起訴の決定に、警察上層部がわざわざ介入してくるなんて――あり得ない。大輔が、孟徳のとんでもない秘密を疑ってしまうのは無理なかった。
合田は腕組みし、うう~ん、と唸った。
「書類上は、な。まぁ……あんま深く掘り下げんな。平穏無事な警察人生を送りたかったらな」
二ッと不敵に笑った合田に、大輔はある話を思い出した。桂奈の元カレの話を――。
そして悟る。これは――関わらない方がいいやつだ、と。
大輔は少し青ざめて、大きく頷いた。
「俺は……結花さんが安心できるなら、それでよしと思います」
「お優しいねぇ? 今頃彼氏に迫ってるかもしれないのに」
「それでも……晃司さんがハッキリ断ればいい話ですし、晃司さんはそうしてくれるはずです」
「ほぉ~、ラブラブだな。他の男のことで泣いたり、他の女にプロポーズしたりするくせに」
「ぷ、プロポーズって、あれは……? て、他の男のこと、なんで合田さんが知ってるんですか?!」
「だってお前ら、うちで喧嘩してたろ。誰だよ、お前を泣かせた他の男って」
大輔は硬く口を噤んだ。捜査一課管理官の穂積を、合田が知らないわけがない。穂積に迷惑がかかるので、絶対に悟られたくなかった。
「……合田さんの、知らない人です」
「……嘘だな」
「はい?!」
「わざわざ俺の知らない奴、なんて言うかよ、本当に俺の知らない奴だったら。てことは……S県警の奴だな。誰だぁ?」
大輔は浅はかな己を呪った。ここは、完全黙秘するべきだったのだ。相手は本部の組対三課で外国人犯罪組織を取り調べる刑事だ。簡単には口を割らない連中を日々尋問している上、あらゆる情報をかき集めるため、人から話を聞き出すプロなのだ。
「しかも俺が知ってそうな県警の警官ってことは……」
「も、もういいでしょ! 俺を泣かせた人なんて……本部にはいません!」
動揺した大輔は大きな墓穴を掘った。あ、と両手で口を押えるももう遅い。合田がニンマリと笑った。
「本部、か……。お前らが付き合いあるっていうと、景成会絡みで組対四課か……その顔は、違うんだな」
合田が大輔の表情を読む。見事に言い当てられて焦った大輔は、口を手で押さえたままブンブンと首を横に振った。
「じゃあ……捜一だな。去年お前のとこに帳場が立っただろ。あの時は三係と……管理官は誰だったっけ?」
「あああああぁあああ!」
正解を言い当てられるのは時間の問題だった。気が動転した大輔は強行突破、とばかりに合田に飛び掛かり、そんなことをしてもなんの意味もないのに、合田の口を右手で塞いだ。
合田は驚いたが、すぐに面白そうに笑って続けた。
「思い出したぞ! 管理官は……」
「お願いです! それ以上はもうなにも言わないで下さい!」
穂積の名前が出そうになって、大輔はさらに暴れた。面白がってわざと名前を言おうとする合田の口を、必死で塞ごうとする。合田は顔だけではなく、上半身を縦に横に振って抵抗した。そうしているうち、大輔は合田と縺れるように畳に転がった。
合田が黙る。大輔も――黙った。
気づけば大輔は、合田を畳に――押し倒していた。
合田に馬乗りになり、合田の顔の横に手をついた姿勢で見下ろすと――合田の顔は目を奪われるほど整っていた。穂積のような繊細さはないが、大理石彫刻のような華麗な美しさだ。
大輔は、種類は違えど『年上の美形』というカテゴリーに圧倒的に弱い。和風でも洋風でも、細面でも男らしく整った顔でも、美しければなんでも――弱い。
「あ……すいませんっ!」
慌てて身を起こそうとしたが、両手を合田に掴まれた。
「……力、つよっ!」
合田の両腕は見た目どおり力強かった。大輔をガッチリ掴んで離さない。
「やっぱ、イケメンに押し倒されるのって……いいわ。な、俺は晃司と別れてほしいなんて思ってない。晃司に言う気もないから……お前の童貞、俺にくれよ」
「なななななに言ってるんですか! そんなこと絶対にできません! わっぷ!」
離れようとしたのに、合田に強引に抱きしめられた。合田の逞しい胸に顔を埋める格好になって――大輔は動けなくなった。
逞しくも触り心地の良い胸の感触が、大輔を離れがたくした。
(やっぱり、雄ッパイ、ヤバい……)
合田は、初めて会った時と同じ良い香りがした。大輔の胸が、合田に伝わってしまいそうなほど――ドキドキとうるさくなった。
「この広い家に一人でいるとさ……時々、すっごく寂しくなるんだ。だから、お前らがうちにいた時、実はかなり楽しかった」
「……え?」
聞いたことのない寂しげな声に顔を上げると、見たことのない儚げな笑みと目が合った。
優しい人は――寂しがり屋でもあったのだ。ウザいぐらいの明るさも、鬱陶しいセクハラも、もしかしたらその寂しさのせいなのかもしれない。
この人もまた、見えない傷跡を隠している。きっとそれは、誰もが隠し持っていて――。
合田が大輔の手を取り、優しく自分の胸の上に置いた。
「……これ、お前の好きにしていいんだぞ?」
耳元で、甘く囁かれ――。
危険な誘惑に、大輔の手は理性から切り離されて勝手に動き出した。合田の胸を優しく揉みしだく――。
その感触は、大輔の雄の本能を激しく駆り立てた。この胸に、素肌に触れてみたい。この胸を思うままに、乱暴なまでに乱してみたい――。
大輔の手が合田のワイシャツにかかった。その瞬間――。
「……現行犯逮捕だな」
大輔は飛び起きた。すぐそばで聞こえた低く――恐ろしい声に。
「こここ、晃司さん?! なんでここに?!」
和室とリビングを仕切る敷居の上に、晃司が仁王立ちしていた。
「とうとう浮気の現場……抑えたぞ! お前が、俺と結花のこと気にして落ち込んでるだろうって、心配して迎えにきてやったのに……この浮気モン!」
「違います! これはその……」
慌てて合田を振り返る。合田から誤解だと説明してほしかったのに、合田は心底楽しそうに、意地悪そうにニヤけていた。
「悪いな、晃司。いきなり大輔に押し倒されたんだよ。それで……オッパイ揉まれまくってるうち俺もつい、ノッちゃって」
「なに言ってんですか! 合田さんが俺を離してくれなかったんでしょ?!」
「押し倒してきたのはお前の方だろ? しかもあんな強引に……」
「ちがーう!! 合田さんが俺の好きな人を無理やり聞き出そうとするから……」
ハッと晃司を振り仰ぐ。晃司は怒りのあまり、表情をなくしていた――。
「大輔の好きな人、ねぇ……」
「あわわわわ……ちっ違うんです! 言い間違いです! ええっと……」
なにをどう説明したら、この最悪な状況を打開できるのか――。大輔は頭をフル回転させたが大きく空回りし、まともな言い訳が一つも出てこないどころか、さらに口を滑らせた。
「香さんのことを合田さんがしつこく……」
「香……穂積管理官か! あれなら童貞の大輔が泣かされるのもしゃーないな。あの人は……まさに魔性だもんなぁ」
ヒーッ! と大輔は声にならない悲鳴を上げた。
「合田さん! 別に香さんとはなにも……」
「捜一の管理官を名前で呼ぶ仲とは……驚いたな。俺のことも、柾司さん、て呼んでもいいんだぞ」
「呼ぶか!」
大輔と穂積の関係を知った合田は、なにが面白いのかしつこく大輔をからかった。大輔がいちいちムキになるから余計に面白がったのだろうが、テンパった大輔はそこまで頭が回らない。
合田にいいようにからかわれ、怒って反論する大輔。大輔はまったく気づいていなかった。仲良さげに喧嘩する二人の様子が、嫉妬に狂った晃司の目にどう映っているのか――。
仁王立ちの晃司の肩が、プルプルと震え出す――。
晃司の堪忍袋の緒が――ついにブチ切れた。
「いい加減にしろ! この……どスケベ童貞! もう許さねぇ……優しくもしてやらねぇ! 抱いて抱いて抱いて……抱きまくってやるから覚悟しろぉ!!」
夕暮れ時の、閑静な住宅街。そこに気の毒な刑事の、不穏で――不適切な叫びが響き渡った。
雄ッパイに目覚めた大輔の童貞、その行方は――。
どこかの犬が、うるさいと抗議するかわりに――アオンと一声鳴いた。
――終わり――
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