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『手紙』とは中国語で『トイレットペーパー』の意であると云う。
だからといってこの初めて貰ったラブレターで——記念というか、お守りというか、景気づけに持ってきたこれで——ケツを拭くわけにはいかぬと、高橋一馬は「好きです」という慎ましやかなる丸い文字を眺めながら思った。
「くそったれ……!」
クソを垂れ終えた自身を自虐するかのように、高橋は唸った。
額に浮かぶは玉の如き脂汗。
滴れど滴れど、次から次へと流れてくるそれは、腹やケツの痛みによるものに非ず。
現在時刻、10時20分。
初デートの待ち合わせ時刻、10時30分。
刻限(タイムリミット)間近による焦りである。
「くそ……!」
無論これは自らの体外に排出されたクソを見下ろしての言葉ではない。
高橋は自身の迂闊さを責めていた。
何故、紙があるかどうかを確認しなかったのか?
場所は、駅の外にあるトイレである。
当然あるものと油断していた。
駅前での待ち合わせ。刻限の30分前に着いたものの、突然の——あるいは初デートが齎した緊張による可能性が高い——腹痛に襲われ慌てて駆け込んだのが運の尽き。
注意一秒、怪我一生。という標語があるが、現状はそれに近く高橋の口からは「くそ!」の連呼が止まらない。
残り時間は8分。
相手はもう来ているかもしれない。ともすれば「お互いに早く来ちゃったね」などと初デートらしい初々しい会話が発生した未来もあった。無念。それはもう消えた。
高橋は震える手でスマフォを触る。
「大変申し訳無い。少し遅れそう」その一文を打つか否か。
または「大変申し訳無い。俺は今、駅のトイレでうんこしているのだけれど紙がないから駅員さんから貰って来てはくれまいか?」と頼むか否か……否。即座に否定する。これは否である。
まさか意中の相手にクソの話を振るわけにもいくまい。
高橋にはプライドがある。
しかし、このままではこの個室から出ることなど出来ない。
恐らく身近で頼れる者は、彼女ただ一人である。
いつかこんなことも笑い話になる……そのように楽観的に考え、正直に助けを求めるのが最も合理的な判断であると学年一の学力を誇る高橋は理解しているが、それが出来ないのが好きな女を前にした男である。
残り6分。
「くっ……!」
ソの音を出さず、無慈悲に過ぎていく時の中で、高橋は祈った。
紙よ。我を助けたまへ。
その瞬間、だった。
「どうかしましたか?」
声が聞こえた。
天上からではなく、扉の向こう側から。
「大丈夫ですか?」
落ち着いた紳士の声。
IQ180を超えると言われるさしもの高橋も、この余りにも突然過ぎる何者かの登場に驚きを隠せなかった。
だが、口は動いていた。
「か——紙が——無くて——」
途切れ途切れ。
けれど意図はしっかりと相手に伝わり——
「では、これを」
扉の下方の隙間より差し出されたのは、一枚の紙。
表には『辞表』と書いてある。
「え!?」
辞表!?
不意に加速した世界の速度に、思考が追いつかない——
「驚く気持ちはわかります。しかし、ここに紙が無いもので」
「紙が——」
「無いのです」
無慈悲。高橋は駅員を呪った。自身の知力の限りを尽くして呪ってやろうと思った。
そんな高橋を諌めるように、親切なる何者かは言った。
「駅員を呼びに行ってもいいのですが、雰囲気から察するにどうやらお急ぎのご様子」
確かに、時間は残り五分とない。
「一先ずそれでお尻を拭けば、ここから出る事が出来るでしょう」
「ですが——それでは、あなたが——」
「私のことはお構いなく。こんな天気の良い日曜日の午前中に出勤を命じられた社畜の鏡である私は、今日こそはブラック企業と決別してやると勢い込み勇んでそのようなものを持ってきたのですが、私には美しい妻も可愛い娘もいるのです。今日だって、遊びに行くという娘を見送る為に、そこまで一緒に来たくらいです。故に、おいそれと勢いだけでやめるわけにはいかぬと、我に返った次第なのです」
「ですが……」
「いいのです。使ってください。流してください。私のつまらぬ激情と共に」
「……かたじけない」
日ノ本の国に生まれた大和男子の魂が蘇り、紡がれたるは古の身に余る感謝を現す言の葉。
高橋は辞表を受け取り、破いた。
そこにあった会社名と名前を見る。絶対にこの会社には就職しないぞと誓いながら、これを書いた者の名を探す。
それはすぐに目に止まった。
「ありがとうございます! 山田太一郎さん!」
高橋は硬い辞表で即座にケツを拭き、個室から飛び出した。
無論、そこにはもう山田太一郎の姿はない。
当然ながら、彼は去っていた。
高橋は、未だそこに残っている山田太一郎の気配に一礼した。
「この度は、不詳、高橋一馬を助けて頂きまして、誠にありがとうございました。誠心誠意、感謝しております」
暖かな空気が、トイレに満ちる。
クソの匂いも、同時に。
それから顔をそむけるように、高橋は顔を上げて、走った。
外にあるベンチには、既に彼女の姿があった。
「申し訳なし! 待たせてしまって!」
「ううん。今来たとこだから大丈夫だよ」
嘘である。と、洞察力に優れたる高橋は一目で見抜いた。
いま来たというのならば、ベンチに座っているのは道理に合わない。
疲れたから、ベンチに座っているのである。
つまりは、ずっと前から彼女は待っていたという結論が導き出される——!
「本当に、ごめん。山田さん。遅れてしまって大変申し訳ない」
「そんなに謝らなくても大丈夫だから……あ、でも、そこまで悪いと思ってるなら」
「思っているのならば?」
「山田さんじゃなくて、花子って呼んでよ」
上目遣いにこのようなことを言われて断れる男子はいない。況や、今日は初デートである。如何に天才鬼才の称号を恣にする高橋と言えど、論理的思考を放棄せざを得ず、口は自然の理に従って動いた。
「そ、それじゃあ……は、花子……さん」
「さんなんて付けなくていーのに。でも、ま、行こっか」
「……はい」
差し出された手をぎこちなく掴み、高橋は思う。
山田太一郎……妻と娘がいると言っていた……娘とは、そこまで一緒に来たと……山田花子……同じ名字……果たしてこれは、偶然にも名字が一致しただけとして片付けていい問題なのか?
否——否である。
高橋は誓った。
山田太一郎さん。このご恩に報いる為にも、あなたの娘さんは、僕が必ず幸せにしてみせます。そしてあなたの老後も保証します——と。
いつか結婚式で読む手紙には、今日のことを書かせて頂きます。あの時あなたが救った男は、自分だけでなく、他人のケツも拭けるような、立派な男になりました——と。
高橋は歩き始めた。
柔らかく繋いだ手を振り、遠い桜色の未来を夢想しながら。
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