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フードファイターの最期
不意に、涙があふれてきた。
ぼくひとりで、一体どうしたらいいのだろうか。
「健」
青柳先生が、静かにぼくに語りかける。
「残しては、もったいないだろう」
そうだ、もったいない。
青柳先生から何度も繰り返し聞いた言葉。
青柳先生の人生をかけた言葉。
食のありがたさを、食べられることの素晴らしさを伝える言葉。
ぼくはゆっくりと、席を立った。懸命に、ダンの残りを減らしていく。
そうだ。こんなに美味しいものを、こんなにたらふく食べられるなんて。ぼくはなんて幸せなんだろう。
涙をぬぐいながら、皿をどんどんと積み重ねていく。
声援が、聞こえる。
「田中くん、頑張ってー!」
経理の良子さんの声がする。
会社の人たちが、家族が、そして世界中の人たちが、今このぼくのことを応援してくれている。
負けるわけにはいかない。
ダンの皿が片付いた。残りは、リンの皿1枚だけだ……!
「うっ……」
立ち上がった瞬間に思わず口を抑える。
今の動いた衝撃で、体のバランスが少し狂った。
全身に寒気が走る。その寒気は胃を刺激し、中のものを外へと押し出そうとしてくる。
「うっ……」
ぼくは、それを必死になって抑え込む。
あと、1皿。あと、1皿だ……。
「健」
そう笑顔で話しかけてくれた青柳先生の顔が浮かぶ。
「食べられるということは、本当にすばらしいことだ。だからこそ、私たちは食べねばならない。必ず、全てを食べきらねばならない。生命の恵みに感謝して」
「はい」
懐かしい光景が目に浮かぶ。ああ、これは夢だろうか。
意識が徐々に遠のいていく。涙で視界が歪む。声援が遠のいていく。
もう終わりだ。
その言葉が脳裏をかすめた瞬間、
「健!」
という鋭い声がぼくの頭を貫いた。
「お前は、そんなところで終わる人間ではない」
青柳先生の声が聞こえる。
「すべてを食べきらねば」
そうだ、すべてを食べきらねば。
「もったいない!」
ぼくはそう叫ぶと、ゆっくりと立ち上がり、リンの席へと向かっていった。
ぐらりと脚が折れる。はいつくばってでも、必ずたどり着く!
「健!」
再び大きな歓声が耳元に鳴り響く。
「そうだ、健」
「田中くん!」
経理の良子さんの声がする。
「ケン!」
会場から、たくさんの声援がぼくのもとに届く。
エミール、ダン、デイビット、リン、4人の姿が目に入る。皆、必死になって、ぼくに向かって叫んでいる。よかった、無事だったのか。
必ず、やって見せるから。
ぼくはリンの席にたどり着くと、腕に力を入れ、体をぐっと引き上げた。
大丈夫だ。
「ケン」
皆が、上空を指さす。時計だ。
時計が、2時間58分を示していたあと2分。あと2分以内に食べ始めなければ失格になってしまう。
しかし、手が動かない。ここまで移動するだけで、全身は疲れ果て、もう体を動かす力は残ってはいない。
頭がぐらぐらとする。またじわじわと胃が体を圧迫していく。
「もったいない」
青柳先生の声が届く。
「そうだ」
「もったいない、もったいない」
会場がもったいないコールで包まれる。
「あと30秒だ」
皆の祈りの声がする。
「田中くん……」
経理の良子さんの声。
「あと10秒……」
ぼくは、意を決し、最後の皿を持ち上げると、全てを口に流し込んだ。
大きな音を立てて、皿が机へと置かれる。
荒い息をゆっくりと整える。
パンとぼくは手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
その声に、会場は今までにない歓喜の声で包まれた。
「よく召し上がって頂きました。私たちの完敗です」
その言葉を最後に、ぼくは意識を失った。
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