別れ

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別れ

僕が彼女達と出会って1年が経過した。出会う前の1年はとても長く感じたものだが、出会ってからのこの1年はとても早いものだった。息苦しかった毎日は劇的に変わり、毎日を生き生きと過ごすことができるようになった。店に通う時間を確保する為に、仕事も効率良く行う工夫をして随分と評価されるようになった。 終業時間が迫り、彼女達に会えるワクワクが止まらない僕は鼻歌を歌いながら帰り支度をしていた。 「ラー君、帰る前に応接室に寄ってくれ。」 帰り際に、上司から声をかけられ僕は不快感を覚えた。これから彼女達に会いに行くのに。ちなみに、趣味を尋ねられて、ラーメン店に通い詰めている話をしたところ、僕の渾名はラー君となっていた。本名がすぐ浮かぶ人はいないだろう。仕事が評価されるようになる前には、お前とか貴様と呼ばれていたのだから。僕は応接室の扉を開く。 「失礼します。」 「終業間際に悪いな。」 「手短にお願いします。」 「実は、ラー君を海外の支店に異動させるという話が出ている。君の仕事ぶりが評価されたということだ。良かったな。」 「えっ!?嫌なんですけど。」 僕は間髪入れずに断った。 「何を言っている?これは栄転だぞ。断る理由はないだろう。給料も今の倍は出る。」 「金の問題じゃなくて、海外で働くなんて嫌だと言っているのです。」 「ラー君、この会社に勤めている以上は拒否権はないぞ。正式な辞令は一週間後に出るから後はよろしく。」 上司はそう告げて応接室を出ていった。僕は頭が真っ白になった。店に向かう道中、彼女達が口々に叫ぶ。 「嫌だよ。一緒が良いよ。私も連れていって!」 「あんたがいなくなっても、どうでも良いわよ。まあ、連れていってくれても良いけどね。」 「あらあら、私はどうすれば良いのかしら?仕方ないのかしらね。」 僕だって連れていきたいけど、言うまでもなく、そんなことはできない。僕がこの町にいなければ、彼女達に会いに行くことはできないのだ。どうにもならないことを考えて僕は途方に暮れた。いつの間にか、いつもの店に到着し、券売機で券を購入する。彼女達の声はもう聞こえなかった。 放心状態で席に着くと、初めてこの店に来た時の醤油つけ麺が提供された。初めて食した時の衝撃はなく、長年生活を共にした伴侶のように、落ち着いた懐かしい味わいがした。もう2度と、この味にありつけないなんて考えられない。僕は勇気を出して、店の奥にいる大将に声をかけた。 「いつもありがとう、大将。美味しくいただいてるよ。」 大将は固い表情のまま呼び掛けに応じる。 「お客さんこそ、毎日毎日ありがとうございます。」 常連客になっていたものの、まともに会話したことなかった為、大将は声をかけられたことに非常に動揺しているようだ。 「実は、異動が出たんですよ。今までみたいには、通えなくなってしまいそうです。」 「そうですか!どちらで仕事なさるのですか?」 「海外の支店ですよ。」 「海外ですか!?それは大変そうですねぇ。それでしたら、日本に戻られる時は、ぜひご来店ください。」 大将がとても明るい声で励ましてくれる。僕の栄転を自分のことのように喜んでくれる。本当に有難い。 「でもね、本当は海外で働きたくはないのですよ。半ば、強制でして。」 「・・・そうなんですか。」 大将は何とも言えない表情でそう答えると盛付けの終わったラーメンを他の客に持っていくよう店員に指示を出す。 「大将?この店を知るまでは、仕事が全く上手くいかなくて生き甲斐を失くしていました。けれど、この店に出会ってから毎日が楽しくなりました。心持ちが変わったから仕事も上手くいくようになりました。僕に生き甲斐を与えてくれたこの店のラーメンです。もしも良ければ、僕を雇ってもらえませんか?」 「・・・!?」 僕は照れくさくなり、目を伏せる。しかし、最後まで伝えなくてはいけない。 「ここのラーメンを食べられなくなると、困るんですよ。生き甲斐を失くしたら、仕事もまた上手くいかなくなるように思います。生き甲斐を持って働けるなら、どんな仕事でもやっていけると思います。僕をここで働かせてください。」 僕の心からの叫び声は大将の心に響いただろうか?束の間の沈黙が苦しい。周囲の客の視線が痛い。けれど、どうしてもこの思いを伝えたかったのだ。後悔は一切ない。僕の心は清らかであった。 大将の答えは・・・ 「ふざけるなぁぁぁああ!!!」 大地震が起きたような衝撃が走る。店が震えた。僕の洗練された思いに対して・・・ではなく、大将の声に対して物理的に。
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