28―中条絵里

1/1
前へ
/16ページ
次へ

28―中条絵里

久しぶりに野球を見に行くことにした。よくないと思ったのだが、南武の試合を見に行くことにしてしまった。球場までの南武線でうとうとしてしまった。すでに別のチームの優勝が決定し、あとは消化試合だった。そんなときの月曜のナイターということもあり、球場は、空いていた。今の私には、これぐらいがちょうどいい。南武と中越の試合だった。先発は松本で、7回まで無失点だった。6回で、中村のホームランを見ることができた。南武が勝ち、私は、満足して帰路についた。乗りなれない、南武線ということもあり、スマホの乗り換えアプリを確認しながら、電車に乗った。ユニフォームを来た南武ファンがほとんどで、まったくの私服で一人でいた私は、この列車では、少し目立っていたかもしれない。ドアの横にもたれかかった。でもこの車両にはもうひとり、目立つ私服の女性がいた。この車両には不似合いな、水色のワンピースを着たきれいな人が座っていた。なぜだか、その女性がこちらにやってきた。 「芽衣ちゃんだよね」 その女性は、私の前に立ち、顔を覗き込んで言った。誰だか、わからなかった。 「覚えてる?私のこと?」 そう言って、ほほ笑んだ。長いまつげでぱっちりした目、形のいい唇には品のよい色の口紅がさしてあった。まさかと思った。 「絵里…」 中条絵里だ。 「そう!思い出してくれてよかった。会えてうれしい。いつか会いたいって思ってたの。」 この車両は、弱冷房車だったはずなのに、肩のあたりから急に冷えてきた。 「ごめんね、すぐに思い出せなくて。前からかわいかったけど、さらに美人さんになってて気が付かなかった」 私は、上手に話せているだろうか。 「芽衣ちゃんは私のこと、あんまり覚えてないかもしれないけど、私は、芽衣ちゃんのこと、すごい覚えてるの」  絵里の声は、まるで信者に説法を説くような、やさしく力強いものだった。タイプの違った私と絵里は、ほとんどしゃべったことがない。中学時代の絵里のことなんか、ほとんど思い出せない。ただ、色白で、まっすぐ伸びた髪を二つに結わえていた。目がおおきくて、かわいくて、おとなしくて、男子にモテる。そんなイメージだ。当時、私は、何か絵里に言ったのだろうか?無意識に傷つけていたのだろうか。思い出せない。怖い。絵里が怖い。 「芽衣ちゃんも試合見に来たんだよね。私もそう。今日は、一緒に来る予定だった相手が、急に来られなくなって一人で来たの。一人で見ることなかったから、悩んだんだけど。いい試合でよかった。」 やめて。それ以上、何も言わないでほしい。会いたかったって何?誰と来る予定だったの?聞きたいけど、聞きたくない。頭の中でいろんな記憶が交錯する。 「芽衣ちゃんは、阪海好きだったよね。今日は、南武の試合見に来たんだね。」 「あ、うん……たまたま」 「芽衣ちゃんて、綾野高校だったよね。実は、秀明と近かったよね。」 なんで、私は絵里のこと全然覚えてないのに、絵里は、私のことを覚えているの。なんで、なんで絵里は、こんなに私に話しかけてくるの。 「なんで芽衣ちゃんのこと、こんなに知っているのか教えてあげよっか。」 私の心を透かしているように言った。嫌。知りたくない。この場から逃げ出したい。 「私、石くんと付き合ってたの」 「うそ…」 踏切を渡ったのだろう。窓の外で赤い光が走った。 「私ね、小学校のときから石くんのことが好きだったの。でもね、中3のとき、告白したら、フラれちゃった。でもね、高校のときに同じ学校ってのもあって、結局付き合うことになったの。石くんと芽衣ちゃんの仲も聞いてたよ。電車で会ったりしてたのも」   嘘だ。よくわからない。何を言ってるんだ、この子は。なにもかもが信じられない。信じたくない。それとも、私が夢を見ていたの。これが、夢なの。誰も、絵里も何も知らないし、言うつもりもないけど、私は、今……。とにかく、なんでそんなこと言うの。   「クリスマスの約束、石くん来なかったでしょ。私と一緒にいたの。ごめんね」 耳が遠くなった。呼吸ってどうするのだっけ。足ってどう踏み出すのだっけ。 「そうだったんだ。教えてくれてありがとう。すっきりした。じゃあ私ここで、降りるから。」 早く、この場から立ち去りたい。 「うん。芽衣ちゃん、気になってたかなと思ったから、言えてよかった。じゃあね。気をつけて帰ってね」 絵里の顔はもう見なかった。でも絵里は、私と別れたあと、あのきれいな顔は、表情をなくした。この駅で、私のほかにも数人降りた。はじめて降りるな、この駅。こんなところで、降りてもしょうがなかったが、降りるしかなかった。ホームのベンチに腰掛け、こぼれてくるものをぬぐった。  
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加