28―石橋幸太郎

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28―石橋幸太郎

 平日のこの時間はまだ、下りのホームは混み合っている。久しぶりのヒールにつま先が悲鳴を上げている。実家に置いていた卒業アルバムを回収しに、半年ぶりに家に帰るのだ。いや、見るだけで満足するかもしれない。  今日は、グリーン車に乗ってしまおう。ホームにある券売機でグリーン乗車券を購入することができる。券売機にも2.3人並んでおり、新幹線の自由席と同じで座れるか微妙なところではあった。グリーン車の列も前に人が並んでいたが、並ぶことにして、スイカでグリーン券を購入した。混雑をかき分け、グリーン車両の列に並ぶ。ようやく電車が到着し、気持ちだけ急いでグリーン車両に乗り込む。2階と1階があるが、前の二人が2階へ進んだため、1階に降りることにした。後ろから前に向かったが、後部座席のシートは埋まっていた。6列目に差し掛かったところで、ようやく廊下側の席が一つ空いていた。窓側のスーツを着た男性は、荷物が多いようで、上の棚も座席の前もいっぱいに使っているようだった。しかし、廊下側の席に大きくはみ出していないし、私は一刻も早くこのヒールの痛みから解放されたかった。紙袋をいったん席に置き、ICカードを座席の上の読み取り機器にタッチした。これで一安心だ。紙袋を前のスペースに置こうとして、隣の人の荷物に当たってしまった。「すいません」声をかけたが、荷物が当たったことにも、こちらの声にも気づいてないようだったが、異変に気付いたようで、イヤホンを外した。会釈した顔に驚いた。 立ったまま、ヒールの痛みも忘れて、一瞬で深い海の底に落ちた。トンネルに入った瞬間、車内の空気が薄くなった。。 「…五十嵐」 彼の声を聴いたのは、何年ぶりだろう。夢の中で聞いた声が、今、振動して伝わってくる。決して低いわけではない、落ち着いたトーンの声だった。 「あ、荷物、すいません。」 どうしたらいいかわからず、荷物のことを謝ってしまった。周りは、寝ている人もいたので、声を控えて謝るが、他人行儀になった。 「あ、ぶつかったの?こっちこそ、すごい荷物でごめん。」 彼は、自然と言葉を返し、荷物をより自分の方へ移動した。全然こっちに来て大丈夫と言いたかったが、口にできなかった。私は一瞬で、石くんの全身を確認してから、椅子に座った。髪型は昔と大きく変わらないが、さっぱり短くなっている。出張でもしてきたのか、顔には疲労が感じられた。あごのラインには、うっすらひげが生えていた。スーツは、紺色でさわやかなカジュアルなものだったが少しくたびれていた。私が見たはじめてのスーツ姿なのに、着こなしていた。制服のときとは違う。窓枠の小スペースには、空けた缶ビールが置いてあった。私の知らない石くんだった。それでも、私がずっと想っていた、石くんだった。  今まで、ずっと考えていたのに、いざ会うと何を話していいのかわからない。でも話したくて、知りたくて、意識してほしくて仕方ない。頭の中をフル回転して、間違いのない言葉を真っ暗な海の底から探す。前がまったく見えない。最初の一言を考えた。 「どうしたの、その荷物」 「あ、うん。ちょっと」 絞りだしたセリフだったが、このちょっととは、これ以上聞いてはいけない方のちょっとだと察した。私が話さなければ、ここで終わってしまう。この話題じゃない、別のなにか。なにかないか。 「この前、山崎たちと会ったんだって」 聞いてきたのは石くんだった。なんて穏やかに話すんだろう。変わらず、冷静でクールだ。こっちは、いっぱいいっぱいなのに。 「あ、うん、ちょっとね」 早く応えなければと石くんと同じように答えてしまった。全然ちょっとじゃない。矢島と二人で会ったことは知っているのだろうか。 「楽しかった?」 誰からどれくらい話を聞いたのだろう。 「うん」 冷静になろう。一呼吸終え、手に持っていたことをすっかり忘れていたICカードをバッグにしまうと、石くんもイヤホンをバッグにしまった。 「なんか変わったね、五十嵐」 この変わったというのは、いい意味ととらえていいのだろうか。この前、かなちゃんにも言われたな。いや、矢島には「おばさんになった」と言われたじゃないか。でも、これを石くんに言われたら、かなりへこんでしまう。矢島には、「自分だってそうじゃん」と言えたのに。追求しないことにしよう。石くんは変わっただろうか。変わってないところもあるし変わったところもある気がする。 「石くんは、ちょっと疲れてる?」 疲労感のある姿には、触れないではいられなかった。 「そうかも」  もし実家に帰るのなら、今日はたっぷり40分もある。何をどう話そう。石くんに会わなかったこの12年間、私はずっと石くんのことが頭から離れなかった、今は特に…と直接言ったら、通報されそうだ。でも、その思いをやんわりふんわり伝えたい。いや、ダメダメ。今日で何かが始まるかもしれないし、終わるかもしれない。でも一番は石くんが幸せに過ごしていればそれでいいということだ。その思いがあればきっと大丈夫と言い聞かせた。そして私は傷つかない。安全パイを取りすぎて、結局何も話せない。そんなことを考えていたら、思いもよらないセリフが聞こえた。 「実はさ、一昨日、4年付き合ってる彼女にプロポーズしたんだ」 なんの話だろう。そんなドラマやっていたっけ。いや違う。石くんの話だ。ちゃんと現実に向き合おう。お互いもう28歳だ。石くんが幸せならそれでいいはずと今さっき思ったはずじゃないか。絵里じゃない。絵里じゃない大丈夫。 「へえ。おめでとうって言っていいの」 「いや、ダメなんだなこれが。なんなんだろうな、女って」 それは、私のことも含むのだろうか。 「フられちゃった?」 「待ち…かな」 だから疲れているのか。そりゃあ4年もつきあった彼女ならオーケーの返事だと自信をもって、プロポーズしてしまうだろう。だが、それよりもこの状況に覚えがあった。 「え、ちゃんとしっかりめにプロポーズした?なんとなく、じゃあ……みたいな感じで言ってない?」 勇み足で聞いてしまった。普段の私になった気がした。 「なんだその、しっかりめって」 石くんが、くすっと笑った。その笑顔に体が熱くなった。 「いや、こっちの話」 そりゃ石くんにかかっては、慎一みたいなことはないはずだ。準備万端で臨んだのだろう。 「もちろん婚約指輪だって準備したし、二人の付き合った日に夜景の見えるレストランでしっかりめに」 さすが、うちのとは違う。私だったら、婚約指輪が見えた瞬間にフライングでオッケーしてしまいそうだ。それより何が問題なのだろう。石くんの何が不満だというのだろう。 「まだ早いとか、仕事ばりばりしたいとか。まあ理由は、探そうと思えばなんでもあるけど。彼女が言わないのなら、実際のところはわからないよね」 「ひとつ下なんだ。なんか急に実家に帰ったんだよ。名古屋なんだけど。今朝追いかけていったはいいけど、お土産と実家の荷物だけ持たされて、俺だけ強制帰還」 ひとつ下の子なんだ。絵里じゃなかった。安堵した。石くんは、中学の時も後輩にモテてた気がする。あこがれの先輩枠だった。それよりも、だからその荷物なのか。それにしても多いような気がするが、追いかけていくなんて、やっぱかっこいいと思ってしまった。内容が内容だからか、お酒も入っているからか、饒舌だ。 「だから、その荷物ね。親とか友達に相談するとかかも」 「…彼女自身は、結婚願望が強くてさ。だから、そろそろかなって勝手に思ってた。でもさ、ちゃんと誠実に応えたい。だからちょっと待っててって言われたんだよ」 「なにそれ」  まったく知らない彼女に怒りが込み上げてきた。 「俺に悪いからって。このままじゃ結婚できないってそのまま帰ったんだ。社内の子だから、あんま人に言えなくてさ、一人で何が原因だろうって考えてた」 私は、これ以上踏み出しちゃいけない。そう思った。こういうのは結局、二人の問題だし、石くんの彼女のことなんて何にも知らないし、なにもしてあげられない。 「今はだめかもしれないけど、少し落ち着いたら、ゆっくり話してみれば」 「そうだな。ごめん、こんな話、急にされても困るよな」 「全然大丈夫。せっかく話してくれたのに、あんまり役に立たなくて」  全然大丈夫なんかじゃない。全身に力が入らない。普段、手ってどこに置いていたっけ。普段、どこ見ていたんだっけ。まばたきってどうしてるんだっけ。すっかり私の思いどころではなくなってしまった。でも石くんのためになったなら、それでいいと思うことにした。 「聞いてくれてありがとな」 このあと、少し沈黙があって、ほんの少しだけ近況を報告した。石くんは、ゼネコン系の会社で営業をしているらしい。つい先日まで静岡勤務で清水に住んでいたらしいが、地元の支社に転勤になり、アパートを探す間、実家に戻っているようだ。石くんは、降りる一つ手前の駅で下車の準備を始めた。私の最寄駅の一つ前。ここでお別れだ。荷物がたくさんあったから、私も少し手伝う。「また」とは、言ってくれない。会う意味なんてない。彼は、そんな気はさらさらないのだ。私に対して、動揺がまったく見られない。昔からそうだったけど。私はもう12年前という深海から地上に上がってくることはできなさそうだが、石くんは、一人前に地上の階段を上っているのだ。余計な女が出てきてややこしくしてはいけない。それに彼女にとって石くんが大事ならそのままゴールインするだろう。  じゃ、話せてよかったと言って石くんは通路に出て、ドアへと向かった。思うところはあったが、これでよかったんだ。そう決めたとき、駅に着いた。駅につくとホームの下側にあたるグリーン車の1階からは、ホームを歩く人の足元しか見えない。 ―ちゃんと誠実に応えたい。しなきゃいけないことがあるって。このままじゃ結婚できない― か。急に自分の心臓の音が大きく聞こえるようになり、すぐに立ち上がった。 「だめ、待って」 私は急いで通路を出て、ドアへと向かった。後列の人は、石くんが忘れ物でもしたのを追いかけていったのかと思っただろう。彼女は、私なのかも知れない。それは、確かに、忘れ物だが、私の忘れ物だ。  ドアが閉まる寸前で降りることができた。つま先の痛みなんて忘れていた。改札の階段へと足を運んでいた石くんは、私に気づいて、歩み寄った。   「え、どうしたの。」 「彼女、呪縛を解きに行ったんだよ」
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