28―小倉杏

1/1
前へ
/16ページ
次へ

28―小倉杏

 夢を見た。いや、夢じゃない。また中学のときの記憶だ。時計は6時を指していた。今日は、遅出出勤でかつ新宿のオフィスの会議に直行だった。いつもは、7時まで寝ているのだが、起きることにした。慎一の出発に合わせ、早く家を出てきてしまった。せっかくだからと思い、各駅停車に乗ることにした。普段快速に乗っていると、この各駅停車は、快速のスピードなら往復できてしまうのではないかと思わせるぐらいの速度に感じる。遅いけれども、各駅停車というのと、中途半端な時間ということもあってか、車内はかなり空いていた。シートに座って、会議のことを考えていた。今日、起案するプロジェクトは、元の案があったのだが、私の急な思い付きで、変更することにした。その説明に行くために今日は準備してきたのだ。しかし、あの予算書、総合計金額しかつけなかったな。快速に乗り換えて早めに直すかな。まあ乗り換えなくても着いたら、直す時間ぐらいはあるか。そんなことを考えながら、車窓を眺めていた。新百合ヶ丘では、数人の学生らしき若者が降り、乗車してきた。この駅は降りたことがないな。そう思っていると、乗車してきた一人の同い年ぐらいのコンサバスタイルの女性と目が合った。何か、見覚えがあるような気がして、凝視してしまった。あちらも私の目線に気づいたようで、お互いその存在に目を丸くした。 「もしかして、芽衣?」 「うそ。杏?超久しぶりじゃん。卒業以来かも」 記憶に出てきた杏が、大人になっていた。杏とは、高校に入ってから連絡することもなかったし、朝の記憶で存在を思い出した。先日の渡辺もそうだが、久しぶりの再会で何を話したらいいかわからなかったが、杏の薬指には、光っているものがあることに気づいた。 「それ、結婚指輪?」 「うん、半年前に結婚したの」 「へえ!おめでとう。でも小倉あんじゃなくなっちゃったのか。残念」 杏の苗字は小倉だった。そのことで、いつもネタにされていた。このセリフも言われ続けてきただろうと気づいて後悔した。 「聞き飽きたわ、それ。残念ながら、石橋になりました」 「うそ……」 普通になったねと言う場面だったのに、即座に反応してしまった。今のセリフにどう弁解しよう。石橋?信じたくなかった。うそ。待って。うそ。 「あ、中学のときの石くんじゃないよ」 「え?あ、そ、そうだよね」  脈が速くなった分、寿命が縮んだ気がする。今、冷静に考えれば石橋なんて世にあふれている名前じゃないか。 「一瞬、そう思ったんでしょ?私、そんなに石くんのこと好きだったって知られてたのかあ。」 半ば、あきらめたように吐露していた。私は、私で動揺を悟られないよう、杏の話のスピードにぎりぎりついていき、朝の記憶をなぞった。 「え、やっぱり、石くんのこと好きだったの?」 「あれ今、墓穴掘った?まあ、昔のことだからいいんだけどね」 「体育祭のとき?」 私の記憶は新しい。なんたって、数時間前のことなんだから。 「なに、芽衣はどこまで知ってるの?しかもやたら覚えてるし」 「いや、そんな覚えがあるなあって」 「そ。体育祭のとき、フラれたの」 あのとき、やっぱり告白したのは、杏だったのだ。過去のフラれ話を久しぶりに会う私にできるなんて、結婚の余裕だろうか。私にとっては収穫だ。それにしても当時の石くんの言動が気になる。詮索するなって言われたし、体育祭のことは聞くのはよそう。 「へえ…。あれ、石くんて誰かと付き合ってたっけ」 中学時代、石くんを意識したことはないから気になった。これぐらいなら許されるだろうか。私は、平常心で聞けているだろうか。 「どうだろう。でも誰か好きな人いたんじゃないかな?まあ、芽衣は、矢島のこと好きだったもんね」 「なんでそうなってるの。一番、勘違いしちゃいけないやつ」 真面目に答えてしまった。でも仕方がない。今の私にとって、過去ではない。しかもこの調子だと、クラスの何人かには、私が矢島のことが好きだと思われていたに違いない。矢島のことを好きだと思われていたことによって、私は損してなかったか不安になった。いまさら、どうしようもないのだが。  杏は、登戸で降りて行った。私は、さきほどの杏の話で頭がいっぱいだった。新宿についてからも、このことばかり考えて、結局、予算書は直さず案の定、指摘され、予算案は通らなかった。課長から言われた。 「これ、元の案だったら、違ったかもな」
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加