淡海落日

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 小谷城(おだにじょう)の天守閣からは雄大な淡海(あわうみ)(琵琶湖)が一望できる。  城主 浅井長政(あざいながまさ)は眼下に広がる紺碧の平野を食い入るように見つめていた。  ふと背後から気配を感じる。長政は何も言わずにその主を待った。彼の横に、いや正確には半歩下がるような位置に来たのは妻・お市の方だった。 「いつ見ても美事(みごと)にございますね」  長政は誇らしげに頷く。現世(うつしよ)で最も愛しいのは妻だ。しかし、淡海との付き合いはその妻とよりずっと長い。最早彼の一部と言っても過言ではなかった。 「この淡海の傍で散れるならそれもまた悪くない」  それを聞いた市は身を強張らせる。その視線は淡海からもっと近いところ、小谷城を取り囲む軍勢へと移っていた。  (つわもの)どもを率いるは天下布武を掲げる最強の武将、すなわちー 「兄上」  ―市の兄、織田信長であった。 「義兄上殿(あにうえどの)ならきっと茶々たちを害することはすまい」  茶々、初、江、長政と市の間に生まれた三姉妹は信長の下へ引き渡す手筈になっていた。 「鬼のように恐ろしいが、家族との縁は大切にするお方だとそなたもよく申しておったではないか」  長政は市を安心させようと優しい声音で言い聞かせる。だが、実のところ長政自身不安に押し潰されそうになっていた。  家族を大切にする、とは言うが現に今まさにその家族である市が嫁いだ先を滅ぼそうとしているのが信長なのだから。  これもまた戦国の世の習いかと長政は内心でぼやいた。 「・・・何故(なにゆえ)かようなことになってしまったのだろうな」  長政が市の前で愚痴を漏らすのは初めてのことだった。内心しまったと思いつつも一度口にしてしまったことはもう戻せない。長政には震える市の肩に手を添えることしかできなかった。  もう十分だろう、と長政は覚悟を決めた。続いて市の方を向く、だが長政より早く市が口を開いた。 「金ヶ崎での戦を覚えておいででしょうか」 「・・・忘れるはずがなかろう」   後世『金ヶ崎の戦い』と呼ばれるその戦こそ長政の運命を変えたものに他ならないのだから。  当時まだ浅井氏は織田と同盟関係にあった。しかし、かねてより懇意にあった朝倉氏を織田軍が攻撃したことで長政は信長との断交を決意した。  そこで朝倉氏の金ヶ崎城を攻める織田軍を背後から叩くことで挟み撃ちにしようと画策したのだった。この策が上手くいっていれば浅井・朝倉両軍は織田軍を下すことに成功したはずだった。 「如何にして義兄上殿は我らの挙兵を知ったのだろうな」  だが、密かに挙兵した浅井軍の動きを信長は嗅ぎ付け、急遽金ヶ崎を撤退し彼らをを迎え撃った。勢いのついた織田軍を浅井・朝倉両軍は止められず、朝倉氏は滅びた。そして今まさに浅井氏もその後を追おうとしているのだ。 「わたくしのせいでございます」  一瞬、市が何を言っているのか理解できなかった。長政は凍り付いた顔を一に向ける。 「わたくしが兄上に書状をお送りしたのです。袋に詰めた小豆を添えて」  袋に詰めた小豆とは『あなたは袋の鼠です』という言外の報せだった。それを市が信長に送ったということはすなわち- 「私を、裏切ったと申すか」  浅井・朝倉両軍による挟撃を妨げ、両氏の滅亡を招いたのは市だということだ。 「申し訳ございませぬ!でも、わたくしはただ!」  戦を、止めたかった。愛する夫が同じく愛する兄を滅ぼすという悲劇を防ぎたかった。なのに- 「言い訳無用!」  結果的に、市がしたのは兄と夫という二つの選択肢を与えられて前者を選んだということに過ぎない。 「・・・出ていけ」  市は耳を疑う。 「お待ちください!わたくしは長政様と共に自害いたします!」  それが、彼女なりの償いであり、妻としての願いだった。 「裏切り者と共に死ねと申すか!出ていけぇっ!」  しかし、それは許されなかった。
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