特別番外編(前編)

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 数日前に梅雨入りを迎えた、六月上旬のある夜の事。  誉にその連絡が入ったのは、今日の業務を終え、帰宅準備に取り掛かった頃だ。内線電話が研究室に鳴り響いたのだ。相手は同期であり事務局課長の神原であった。内容は薬物使用許可について、今朝、誉が申請した新薬の件だった。 「ありがとうございます。早々に許可をいただいて……無理をさせてしまいましたか?」  受話口の向こういる神原に尋ねた。彼は「全然」と軽快に笑ったあと、明日には誉の手に渡るよう、医務局のほうに伝えておくと言って通話を切った。 (よかった……予定より早く実験に取り掛かれそうだ)  受話器を静かに置いた誉は安堵の息を漏らした。  今回申請した新薬は次の段階に進むにあたって、どうしても必要だったが、全国的に在庫が不足しており、入手が困難だと聞いていた。理生研医務局の在庫数も僅かだったに違いない。おそらく神原が推し込んでくれたのだろう。彼には世話になってばかりだ。お礼も兼ねて、近々食事でも奢ろうと誉はひとり頷く。それなら瑞貴も誘ってみるのも有りだと腕を組んだ。 (……明日、手に入るという事は、あれが絶対にいるな)  研究工程を頭に描いた。  あれ(・・)とは種……アルファの精子だ。  念のため保管数を確かめようと、マスクをかけて奥に位置する保管室へと向かった。  この部屋は温度や湿度の差が生じない特別な造りとなっている。液体窒素タンクに保管された三種の性の精子が、此処には数多く保管されているのだ。  新薬を使用した今回の実験。使うのであれば、当然、(つがい)である彼の優等な種以外に考えられないと、藪中専用のタンクを開けたのだが……。 「あれ……?」  液体窒素の白く冷たい煙が舞う中、小さな声を発した。思っていた以上に数が少なかったのだ。  これでは足りないと、タンクの蓋を閉めたあと、誉は部屋を出た。
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