第二話

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ごめんね、と囁く声がしている。 誰の声だったっけ? 誰の声でもいいか、そんなに謝らなくてもいいのに。 謝るのは、こっちだ。 血の繋がった兄を好きでごめんなさい。 欲望にまみれた視線で汚してごめんなさい。 兄ちゃんで妄想してヌいたりしてごめんなさい。 この想いは、愛するひとを苦しめるだけなのをわかっているのに。 それでも、好きでいるのを止められなくてごめんなさい。 「ごめん、な……」 気を失っているその青年の唇が微かに動いて、小さな呟きが漏れた。 その頬を、ツウッと透明な雫が伝い落ちる。 綺麗だな、と彼はその涙に一瞬見惚れてしまった。 真っ直ぐなサラサラの黒髪をそっと撫でてみる。 どこか苦しそうな眉間の皺が、少しでも緩めばいいのに、と思って。 侵入者だと思って、つい本気を出して絞め技をキメてしまったが、どうやらタカハラの口利きで楼に見学に来たらしい学生の一人だ、と気づいたのは、気を失わせてしまってからだ。 ただの学生だと言うには、思わず本気を出してしまうぐらい隙のない身のこなしだったから、その可能性を失念していたのだ。 悪いことをしてしまった、と彼は小さく嘆息した。 もう一度、その黒髪を優しく指で梳く。 眉間に深く刻まれた皺が、ほんの僅か緩んだ気がした。 「ん……兄ちゃ、ん…?」 ふ、と瞼が開いた。 何か夢でも見ていたのだろうか、一瞬迷子みたいな頼りない視線を彷徨わせる。 そして。 ハッと我に返ったのだろう、ほんの数秒の緩んだ空気が、一気にピリリと張りつめた。 寝かされていたソファから跳ね起きる。 その全身から、清冽で硬質な独特のオーラを立ち上らせて。 「……あんた、誰だ?」 訊きたいことはたぶん、そんなことではないと思うのだけれども、他に何と言って訊いたらいいのかわからなかったのだろう。 彼は、ぽややんとした微笑みを浮かべた。 それが相手を拍子抜けさせるであろうことは、もちろんわかった上で。 「僕はナガセと言います。あの、アヤシイ者じゃなくて……あっ、ええと、いきなり人を気絶させといて、あやしくないわけないんだけど」 おっとりと、ナガセは言葉を紡ぐ。 「ごめんね、君を傷つけるつもりはなかったんだけど……通常のお客様はこんなところまで入ってこないから」 それで、君は?と彼は柔らかい笑顔のまま問い返した。 コウヘイは、目の前のナガセという男の実像を掴み損ねていた。 さっき、背後から絞め技をキメてきた相当にデキるはずの男と同一人物とはとても思えない。 ぽやぽやした雰囲気は、頭の周囲に花でも飛んでいそうだ。 やたらに(フチ)の太いゴッツい眼鏡をかけて、モサッとした前髪に顔の半分は隠れていそうな、そんな雰囲気は明らかにモヤシ系ひきこもり男子だ。 ヨレヨレとした背広――スーツというよりは「背広」というのが相応しいヨレ具合のそれを着て、ダッサいネクタイを締めているところを見ると、一応この楼のスタッフか何かなのだろうか? こんな奥まったところに事務所だか私室だかわからない部屋があるところを見ると、まさか「雄」の可能性もないことはないのだろうけれど、でも、とてもそうは思えなかった。 その部屋の中は、「種付け」やそれに類する行為をするための場所というよりは、それこそ事務所とか或いは書斎、もっと言うならば大学の研究室にも似た、書類の山があちこちに積み上がっていて、なんとも色気とはかけ離れた雰囲気だ。 そして、そのひと自身も、いわゆる「雄」のイメージとはまるで違う。 容姿端麗、眉目秀麗、色気とフェロモンの溢れる、しかし組み伏して抱きたいと思わせるのではなく、どんなゴツい男であっても身を委ねて抱かれたいと思わせてしまうという絶対的な「身籠らせる者」の強さ、みたいなものを全く感じない。 「コウヘイ=ホリコシ君で間違いないかな?」 いきなりフルネームで名前を呼ばれ、コウヘイはキッと相手を睨む。 「やだなあ、そんな怖い顔しないで……君のお兄さんのキッペイ君も、お友達のタカフミ君も、どうやら二階に上がったらしいと報告が来てるから、そうすると今日ここに来てる学生さんで残ってるのはコウヘイ君、君だけだから、そうなのかなあって思って」 ナガセの言葉に、コウヘイは思わずそのひとの胸ぐらを掴んだ。 「は?!兄ちゃん(キッペイ)が二階に上がったって、どういうことだよ?」 遊郭が初めてのコウヘイにだって、それがどういうことを指すのかわかる。 二階に上がる、というのはすなわち、「雄」に種付け部屋に連れて行かれたということだ。 つうか、「雄」は学生なんて相手にしないんじゃなかったのか。 そもそも、彼らは種付けされるつもりなんて全くなかったから、お金だってそんなに持っていない。 一体何がどうなったら、そんな事態になるのか。 胸ぐらを掴まれて揺さぶられても、そのひとは柔らかい微笑みを崩さない。 それは、僕に言われても……あのひとが相手だし、何か事情があるんだろうけど、とのんびり呟いている。 コウヘイは唇を噛んだ。 そうだ、こんなところでこんなボケボケした奴を問い詰めてる場合じゃない。 キッペイを守らなくては。 初心な兄が、手練手管に長けた「雄」の毒牙にかかる前に助け出さないと。 お金も持っていないお子様な学生を種付け部屋に連れ込むなんて、ロクでもない「雄」に違いない。 彼は、ナガセの胸ぐらを離し、くるりと背を向けた。 が、その手首をがっしり掴まれる。 「ダメだよ~、コウヘイ君、何処行くつもり?」 「離せっ!兄ちゃんを助けないと……!」 「落ち着いて。キッペイ君が何処にいるかもわからないのに、どうやって?」 まさか、二階の種付け部屋を一つずつ確認して歩くの? 今はどの部屋も種付けの真っ最中だと思うけど。 君、そういう部屋を全部覗いて歩くつもり? 諭すように言われても、焦りと不安、そして胸の奥に滾る黒い嫉妬で、コウヘイは自分を阻む相手を殺気すら感じるほどの視線で睨み付ける。 「その必要があるなら、そうするまでだ。兄ちゃんはまだ子どもを持つ気はない。合意でない種付けなんて、犯罪だろ」 キッペイにもしものことがあったら。 この楼を、どんなことをしても潰してやる。 「それは困るなあ、この楼は僕の楼だし」 そんなふうに睨み付けられても全く動じる様子でもなく、のんびりとナガセは言う。 あまりにもおっとり言われたものだから、スルーしてしまうところだったが。 「あんたの、楼、だって?!」 このぽややんとした得体の知れないダッサダサの、コウヘイと対して歳も変わらなそうな男が、カブキタウンでも有数の「星景楼(このみせ)」の楼主だなんて、到底信じられない。 思わずコウヘイは、一瞬、兄を助けなければという自身の最優先すべき使命すら忘れて、呆けた顔でそのひとを見つめてしまった。 彼は、ニコニコと微笑みながら首を少し傾げる。 「うん、星景楼(ここ)は僕の楼だよ?」 だから、君に楼を潰されるのも困るし、種付け部屋を次々覗いて回られるなんて営業妨害されるのも困るんだよね。
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