第三話

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第三話

カワシマは小さくため息を吐いた。 よりにもよって、タカハラか。 しかし、付き人の自分の仕事は、ユサの身の回りの世話と事務的な手続きの全て、そして彼が「雄」の仕事を円滑に快適にこなせるよう手助けすることだ。 仕事に私情を挟んでいる場合ではない。 彼はユサの部屋を後にする。 彼と同様、タカハラは、この楼のツートップの片割れであるウガジンの付き人だ。 つまり、常にタカハラのいるところにはウガジンもいる。 カワシマは、タカハラ本人に会いに行くのが嫌というより、仕事でウガジンに会うのが苦手なのだ。 だって、そのひとは――。 とはいえ、ユサに言われたとおり、今夜のお相手の連れに伝言をするためには、まずタカハラを探すしかない。 でも、とカワシマは思う。 どうせ今日も、ウガジンは自室でのんびりしているのだろう。 彼は滅多にホールには下りない。 どうしても彼でないとダメなとき、或いは、楼を盛り立てないといけないとき、そして何かイベントごとのあるときぐらいしか、姿を見せないのだ。 つまり、タカハラもウガジンの自室にある控え室兼付き人部屋にいるはずだ。 そう思ったのだが。 ユサの部屋が東側の一番奥なら、ウガジンの部屋は西の奥にある。 長い廊下を反対側に向かって歩いている途中、ちょうど中間地点、つまりホールへ続く螺旋階段のあたりまで来たところで、カワシマはギクリと足を止めた。 この時間は、もうそろそろ今夜の種付け相手を決めた「雄」たちがホールから次々と引き上げてくる時分だ。 しかし、階段付近が恐ろしく静まり返っている。 何事だろう、とカワシマは息を詰めて、その場に立ち尽くした。 ゆったりと誰かが階段を上がってくる。 他の誰にも、自分が階段を上るときに、同時に階段を上るなんて許さない男。 その長身の頭が見えて、カワシマは思わず自分の胸元を掴んだ。 ウガジンだ。 嘘……まさか、今日は、ホールに下りていたのか。 呼吸をすることも忘れて、そのひとを見つめていたカワシマは、ウガジンの横に小柄な人影を見つけて更に血の気が引いた。 まさか、まさか。 今日は、種付けをする、のか。 相手を、選んだ、のか。 それがそのひとの務めであることは、十分わかりすぎるほどわかっている。 しかも、ウガジンは、ただの「雄」ではない。 彼の父親は、このカブキタウンそのものを国から委託されて経営している、いわばこの街の首領(ドン)だ。 そして彼は、「雄」の義務をこなし終えたら、その跡を継ぐのだろうなんて、この街では周知の事実だ。 ウガジンは、だから、他のどの「雄」とも違う。 彼個人の魅力ももちろん他を圧倒する勢いだが、それに加えて、種付けの際に気に入って貰えたら、後々のカブキタウンのトップの配偶者に収まれるのではないか、という打算で近寄ってくる輩も多くいるのだ。 実際彼は、跡継ぎを作るために、種付けの相手とは別に「自分の子ども」を作るための配偶者を、いずれは選ぶ必要が出てくるだろう。 そんなこと、カワシマは知りすぎるほど知っている、はずだ。 息もできないまま、その場に凍りついていたカワシマを、ウガジンの瞳が捕らえた。 彼は、その近寄りがたい迫力を放つ面を僅かに緩めて、そして。 「アキ」 和らいだ声で、カワシマのファーストネームを呼ぶ。 この世の中で、他の誰も、カワシマをそう呼ぶひとはいない。 ただ一人、彼だけだ。 「珍しいな、こんなところでどうした?」 そして、カワシマが蒼白なことに気づいて、眉根を寄せる。 「具合が悪いのか?ユサは何をしてる、お前がこんな状態なのに仕事をさせるなんて……」 彼はその長身と鍛え上げられた身体に相応しい重みと存在感を感じさせる足取りで、しかし軽やかさとは縁遠いはずなのに恐ろしく素早く、カワシマの傍らに膝をついて、その身体を抱き上げた。 「ち、違う……別に、具合悪くなんて、ない」 カワシマは、ジタバタと暴れた。 付き人としてのカワシマは、一切感情を乱さずに淡々と仕事をこなす完璧な男として楼の中でも一目置かれている。 しかも、その美貌だ。 秘かに憧れているのは同じ付き人やスタッフだけではない。 どんな相手でも選び放題の「雄」たちでさえ、あわよくばカワシマと「仲良く(・・・)なりたい」と思っている人は少なくない。 或いは、客として来たのに、並み居る「雄」を差し置いて付き人であるカワシマに惚れてしまうひともいるとか、とにかく楼の華である「雄」たちに負けじ劣らずの人気ぶりなのだ。 しかし、何しろ、絶大な人気を誇るツートップの一人であるユサが、付き人として大事に囲い込んでいるわけで。 誰も手を出すことのできない、高嶺の花。 そんな手を出し難い状況に加えて、感情をほとんど面に出さないカワシマを、難攻不落の氷の女王様などと言う輩もいる。 その、氷の女王様であるはずのカワシマは、しかし今は、駄々っ子のようにウガジンの腕から逃れようともがいている。 「アキ、落ち着け。こんなところで取り乱すな」 お前のそういうところは俺だけに見せる約束だろうが。 低い声で囁かれ、カワシマはハッと我に返った。 ウガジンはいつもと変わらない揺るぎない瞳で彼を見ている。 「どこに行くつもりだった?まだ仕事中だって言うんなら、そこまで送ってやるから」 「いえ、その、送っていただかなくても大丈夫です」 カワシマは、取り乱してしまったことを恥じて、必要以上に固い声で断る。 そして、付け加えた。 「貴方のところに伺うところでしたから」 ウガジンは、カワシマの固い声なんてまるで気にしていないようだった。 彼にはきっと、わかっている。 何もかも。 表情に乏しいカワシマの感情を、そのひとだけはいつも正確に読み取るのだ。 暴れたせいか、少し血の気の戻ったカワシマの頬を、彼はそっと手のひらで撫でて。 どこか名残惜しそうに、床にカワシマを下ろした。 ここは自分の私室ではない。 人の目がある。 カワシマの立場を守る必要があるのだ。 そんなもの、俺に言わせればくそ食らえだけどな。 ウガジンは、そんな呟きを喉の奥で噛み殺して、カワシマに訊ねる。 「俺のところ?ユサに何かしでかした覚えはないが……まあ、いい。話は部屋で聞く」 そして、立ち上がった。 「来い」 短い命令に似た言葉は、カワシマにだけ放ったわけではなかった。 キョトンとしているもう一人、ホールから伴ってきていた小柄な青年――少年と言ってもいいようなまだ若い「客」に向かってもいた。 なんでこんなときに居合わせてしまったのだろう。 仕事をしているときは、だから極力顔を合わせたくなかったのに。 カワシマは、また息苦しさを感じる。 しかし、それはウガジンに気づかれるわけにはいかない。 彼が珍しく自分から務めを果たそうという気になったのだ。 それなのに、こんな醜い嫉妬で、彼の仕事の邪魔をしてはいけない。
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