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どすん、という衝撃に、バランスを崩して尻餅をついてしまったのは、彼がヒョロリと背が高くて重心が定まっていなかったからだろう。
ぶつかった相手は、小柄な女性だった。
「す、すみません、大丈夫でしたか?」
キッペイは尻餅をついたまま、しかし、何はともあれ女性を気遣う。
彼女は、ぶつかったキッペイを値踏みするように、ジロリと頭から足元まで視線を這わせた。
そして、蔑むような嫌悪の表情をその面に浮かべて、次の瞬間、おもむろに腕を擦りながら声を上げる。
「いったぁい」
その鼻にかかった高い声は、ホールによく響いた。
それに呼応して、周囲から、ざあっと視線が集まる。
「いかがされました、ナエギ様」
さっと近づいてきたのは、どうやら彼女の推しの「雄」のようだった。
キッペイは、間近に初めて「雄」を見て、思わずポカンと口を開けて見惚れてしまう。
弟のコウヘイも、一般的にはイケメンと呼ばれる部類に入っているし、友達のタカフミもカワイイ系のイケメンだと思う。
しかし、「雄」はやはり一般人とは何かが違う。
それをフェロモンというのか、魅力というのか、それとも何か他に適切な言い方があるのかはわからなかったけれども。
もちろん、だからと言って「種付け」をして欲しいという衝動――つまり「抱いて」欲しいと思ったわけではない。
ナエギと呼ばれた女性は、ここぞとばかりにその「雄」の腕にしなだれかかった。
「あちらの方、ここでの振る舞いがよくわかっていらっしゃらないみたいで……いきなりこちらに突進してこられたの」
そして、彼女はホロリと涙を零す。
「すごい勢いで……私、びっくりして、怖くて」
慌てたのは、これまでの人生で、女性を泣かせるなんてこととは無縁の生活を送ってきていたキッペイだ。
彼は、弾かれたように尻餅の状態から跳ね起きて、深々と頭を下げた。
「ゴメンナサイ!俺、遊郭は初めてで……緊張して、周りがよく見えていなかったから、あの、痛かったですよね」
本当にごめんなさい。
何度も何度もペコペコと頭を下げて謝るキッペイに、その女は少し鼻白んだように眉根を寄せる。
そして、唇を尖らせて彼女の「雄」に訴えた。
「こんな、作法もわかっていない子どもを、誰がここに入れたのかしら。もう、出禁にして下さらない?」
「えっ」
キッペイは、更に困惑する。
このままでは、助けてくれた上にここに紹介してくれたタカハラにまで迷惑をかけてしまう。
その上出禁にされたりしたら、タカフミやコウヘイにまでとばっちりがかかってしまうのでは。
「あの、本当にごめんなさい……貴女に痛い思いをさせるつもりはなかったんですけれど、結果的にそうなってしまって」
償いに、俺にできることならなんでもするので、どうか許していただけませんか。
彼は、真摯に頭を下げ続ける。
ほんの軽くぶつかっただけの相手だ。
それも、突き飛ばされた格好になったのはキッペイのほうで、それは言わば、彼女のほうもそれなりの勢いでぶつかってきたことを示しているのだが。
それでも、彼よりもずっと小さく柔らかな女性に痛い思いをさせてしまったということは、彼にとっては全面的に自分の非だと思ったから。
その誠意は、彼女のほうには全く伝わっていない。
歯牙にもかけないような相手にぶつかったことへの苛立ちと、この状況を自分に都合のいいものに利用できないかという打算。
彼女の狡さが、その面にほんのり滲んでいる。
「なんでもして下さる、ねぇ……」
「もう、そのぐらいでいいだろう」
艶のある低い美声が、不意に離れたところからかかった。
たった一声で、その場の空気を一瞬で全部そのひとのほうに惹き寄せてしまう、圧倒的な魅力を持つ声。
コツ、コツ、と踵で床を鳴らしながら、ゆっくりとそのひとは近寄ってきた。
「ゆ、ユサ、様……!」
キッペイを糾弾していた女性は、両手で口元を覆う。
自分の推している「雄」に肩を抱かれていることなんてすっかり忘れてしまったかのように、うっとりとそのひとを見つめて。
ユサ、と呼ばれたそのひとは、背だけはヒョロリと高いキッペイよりも、明らかに背が高い。
上から見下ろされることに慣れていないキッペイは、目線が上のそのひとに柔らかく微笑まれて頬に一気に血が上るのを感じた。
ユサは、脳髄を直撃するような美声の持ち主というだけでなく、顔も恐ろしいほどに整っている。
いや、整っている、というだけではない。
内面から滲み出る、持ち得るものだけが持つ余裕のようなものが、その人間離れした端正な面をより一層魅力的に引き立てている、というのか。
初めて間近に見たナエギの推しの「雄」のフェロモンとは、比べ物にならない――と言ったらそのひとに失礼なのだが――ぐらいの人を魅了する何かが、重力よりも強い力で周囲の空気すら引き寄せているような、息苦しいほどの存在感でもって、完全にその場の空気を掌握していた。
「君、尻餅をついていただろう、大丈夫か?」
彼はそう言って、自然にキッペイの腰に手を回した。
至近距離に顔を覗き込まれ、キッペイはよくわからない動悸と息切れで心臓がおかしくなりそう、とパニクりながらワタワタと答える。
「あっ、えっ、はい、俺は全然大丈夫なんですけど、彼女が」
キッペイがそう言いながらナエギのほうを見ると、彼女はしおらしげに俯きつつ、これみよがしに腕を擦りながら、鼻にかかった媚びた声を出した。
「ズキズキ痛むんですぅ……痣になっちゃったらどうしよう」
「見せて」
ユサはニッコリとナエギに微笑む。
破壊的に魅力ある笑顔だ。
取り繕うことも媚びることも打算すら忘れて、ナエギはぼんやりと言われるがままに袖を捲った。
彼は、その華奢な腕を指先でするりと撫でて、そしてまた優しげに微笑んだが。
「何の痕もなさそうだ、大丈夫」
そのまま、彼女の肩を支えている「雄」に頷きかける。
「念のため、彼女を医務室へ連れて行って差し上げろ」
え?と彼女はユサが離れた途端、その何か強力な魔力でもありそうな瞳の呪縛から解き放たれて、パチパチと瞬きした。
しかし、ユサはもう彼女を一瞥もしない。
くるりと背を向け、それはつまり、キッペイのほうに向き直って。
ナエギのほうを向いていた間も離さずにいた、キッペイの腰に回した腕に軽く力を込めて、引き寄せるような仕草をした。
「君のお尻も何ともないか確かめよう」
あまりにもさらりと言われたから、キッペイは思わずハイ、と素直に頷きかける。
が、すぐにうん?と疑問が浮かんだ。
どうやって確かめるわけ?
まさか、さっきの彼女の腕みたいに、この場でお尻を剥かれる…とか?
「い、いえ、あの、俺はホントに何ともないんで……」
慌てふためいて首を横にブンブンと振るキッペイを、ユサはどこか面白そうに眺めている。
「欲のないコだな……私の誘いを断るなんて」
小さくそう呟くと、彼はニッコリ笑った。
「お客様に怪我をさせたまま帰したなんてことになったら、この星景楼の名折れだ。やっぱり確認だけはさせて貰うよ……私の部屋においで?」
その瞬間、ホールが大きくどよめいた。
――ユサ様が部屋にお招きになった。
――ユサ様の今夜のお相手はあの学生だ。
――あの方が誰かをお選びになるなんて数ヶ月ぶりじゃないか?
密やかに囁いているつもりなのだろうけれど、皆、興奮のせいか知らず声が大きくなってしまうようで。
小波のように、囁き合う声がホールを伝播していく。
「その方、何ともないっておっしゃってます!」
少しヒステリックな声が、ホールのざわめきをピシャリと断ち切った。
ナエギだ。
彼女は、ギュッとキッペイを睨むと、同じ顔とは思えないほど甘ったるい顔に一瞬で切り替えて、ユサを見上げる。
「私の腕を見て下さい……ユサ様のお部屋で」
ユサは彼女を一瞥もしなかった。
その声も全く聞こえなかったかのように、完全に存在を無視している。
腕の中に捕らえた、戸惑ったようにその女とユサの間で視線を彷徨わせる、キッペイの困り顔だけを見つめて。
「こんなところで君のお尻を剥いてしまうわけにはいかないからね。さあ、行こうか」
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