村上に宛てられた手紙

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 約束の時――――  俺は誰と何の約束をした?  会社と家の往復のみの生活で、誰かと約束を交わすことができるだろうか、あの事件を知るものはもう俺の回りにはいない。妻、娘でさえそのことは話していない。それにもう二十年以上昔のことだ。今さら掘り起こして考えたくなかった。  近々の記憶を辿れば、以前部長に連れていかれたときのキャバクラの女の子か? 酔った勢いで何か買ってやるとか約束してしまったのだろうか、それとも後輩社員? いや、業務をプライベートに持ち込むことは一番嫌いだ、会社を一歩出ればもう仕事のことは考えたくない。会社でした約束は会社で済ますはず。妻? こんなに冷えきった仲に何の約束を交わそうことがあろうか。娘? ありえない、先月は数回、今月は口も聞いていない。 「――さん、村上さんってば」  上林の声で我に返る、寝ていたように。 「報告っすよ、報告」  隣で声を殺しながら上林が言った。立ち上がり目の前にある資料を手に取るが、頭の中が真っ白だった。全員の視線を一気に集める、緊迫した空気が更に俺を焦らせる、一番上にあるはずの報告書が無かった、いつの間にかどこかに紛れたのか、慌てて探すが、どこを探しても無い、 「おい村上、何やってるんだ!」 「す、すみません部長、今すぐ」 「ああ、もういいよ、後日報告書出して、あと新規プロジェクトは他の班に任せるから、次、太田班」  同僚の太田がスラスラと報告を始める、肩を落としそのまま座った。 「先輩、なにしてるんですか」  その後は何をしたのか、話したのかは覚えていない、次に気がついた時には報告書を手に持った上林がデスクに肘をつき笑っていた。 「まあ、こんな日もありますよ」 「お前、それどこにあったんだ」 「あ、俺のデスクに置いたまま忘れてました、ハハッ」  もう死のう――――  メンタルが強い方ではない、俺が終電間際まで頑張った新規プロジェクトは後輩のミスにより一瞬で立ち切られた、とうの本人は反省する素振りもない。  自分の中の何かが壊れた。立ち上がりドアへ向かう、屋上へ向かう階段、これが天国への階段か......そう思うと自虐的な笑いが込み上げた。  澄んだ青空が気持ち良かった、天国への階段を上りきった俺は天国に行けるのだろうか。転落防止のフェンスを乗り越え、屋上の端に立つ。あと一歩踏み出せば俺は死ねる所まできた。顔に涼しい風があたる。と、同時に思い出した。あの事件の中心となった飯島直康(いいじまなおやす)のことを、小学生の頃、毎日一緒に遊んだ親友だったことを――――
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