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【2】投握
生まれ育った街に幼馴染と呼べる人間が幾人かいる中で、伊澄銀一にとって藤代友穂という存在は特別だった。時に腹が立つ程がさつで暴力的な男連中とは違い、友穂には人として当たり前に備わっているはずの柔らかさと優しさが感じられた。幼い頃から周囲より体の小さかった彼女を、同じ年ながら妹のように感じる事もあったし、力任せでしか前に進めぬ馬鹿な自分達には無い、思慮深さと思いやりで道を切り開く柔軟な強さを併せ持つ友穂を、銀一は尊敬の眼差しを持って見つめても来た。
時代が高度経済成長を迎えていた、銀一が十三歳の時に祖父が他界した。彼らの住む赤江という街、あるいはその周辺において、好景気の恩恵は一部を除いてほとんど皆無だったに等しい。しかし貧しさは取り立てて不幸と呼べる程の事ではなかった。自分達だけではない。全員がそうだったからだ。しかし例えそうであったとしても、育ち盛りの子を抱えた銀一の両親は、己の限界を顧みず身を粉にして働き、持てる体力と休息を全て差し出し僅かな日々の糧を得ていた。
親の心子知らず、自然と、銀一はおじいちゃん子になった。厳しい人ではあったが、言葉少なだった祖父の教えと実直な生き様を側で見ていれば、若い銀一ですら人間の信頼とはこうして積み重ねてゆくのが正解であろうと自ずから感じ取るようになり、銀一はそんな祖父が自慢であり、大好きだった。そんな祖父がこの世を去った時、通夜に訪れた友穂は銀一よりも大声を上げて泣いた。傍から見ればきっと友穂こそが孫なのだと、そう見られたに違いなかった。
しかし翌日の葬式では、昨夜の涙はなんだったのかと見紛う程の毅然とした態度で祖父を見送る友穂の姿があった。銀一は面食らったものの、その日の夕刻、物陰でひっそりと泣く友穂を見つけ、頭の下がる思いがした。祖父の性格を思えば、きっと涙で送り出されるよりも、成長した孫の強い眼差しこそを欲したであろう事は、容易に想像出来たからだ。
小学生の頃、よくからかわれていじめられていた友穂を目撃したものだが、十三歳になった彼女にそんな面影はなかった。思えばその頃から、銀一は友穂が好きだったのかもしれない。
やがて友穂が二十歳になりこの街を出ると知った時、悲しい気持ちと、嬉しい気持ち両方が銀一の胸にあった。
彼女を待っているこの先の幸福を思えば、こんなドブ臭い街からとっととおさらばするのが良いと前々から思っていた。しかしそうは思えど寂しいものは寂しい。そんな銀一の気持ちを察してか、幼馴染である幾人かの友人が計画して、友穂と二人並んだ写真を撮影してくれた。
それはこれから別々の人生を歩んでいく二人にしてみれば、どんな顔をしてよいのか分からない時間だったが、それでも銀一にとって忘れられない幸福な時間であった。現像されてきたその写真を銀一は半分に折り、友穂が映っている部分だけ見えるように額に入れて飾った。
銀一が交通事故に合い、友穂の勤務する病院へと運ばれ運命的な再会を果たした年より、時は二年前へと遡る。
昭和四十四年。某県、某市、赤江地区。
この街には古くから流れている、ある噂があった。
それは子供の寝かし付けや躾の為、大人達が考え出した戦後の怪談話だという説もあれば、まだ幼い学童らがひそひそと囁き合っては震えて盛り上がるのに丁度良い、大昔からの言い伝えだとする説もあった。
『投げる者』、あるいは『握る者』という呼称で呼ばれる事が多かった。
その噂話自体に物語としての題名はなく、登場するのは決まって一人で、共通しているのは怪物の如き男の存在だった。親の言う事を聞かない悪い子の元へ現れては『高い場所から放り投げる』、あるいは『物凄い力で掴まれる』といった内容だった。
作り話の域を出ず、他に具体性のあるエピソードが伝わっているわけでもない。もちろん年代によっては尾ヒレがついて脚色される事もあったが、日常のいかなる場面でも起こり得る平凡な設定であるがゆえに、誰もが想像力を駆り立てられては恐怖し、必ず一度は震えあがったものだった。
友穂が故郷を出た昭和四十四年、銀一達の住まうこの街で、ある殺人事件が起こった。
殺されたのは、街の外れの大きな日本家屋に先祖代々暮らして来た西荻という苗字の男だった。名を平左という。この街に古くからある大地主で、数年前から地上げの憂き目に合いながらも、一族総出で抵抗し続けているという話だった。西荻が家を失えば彼から土地を借りている者達も職や住む場所を失いかねない為、外からの圧力に対して身内同士団結し、ほとんど高圧的とも言える態度で抵抗を続けているらしかった。
昭和四十四年の話である。戦後まもなくGHQ指導の下行われた農地改革により、わずか数年で日本の地主制度は崩壊した。そこから二十年が過ぎようとする今も、この赤江では現実問題、西荻の土地を当てにせねば生きていかれぬ家が多く存在する。タダ同然で土地を手に入れた小作農民達はまだ良かったが、西荻が所有していた土地は農地だけとは限らなかったからだ。言わば、形骸化しつつも望まれた、資本主義としての地主制度が生き残っていたのである。
所がだ。この時聞こえて来たのは、地上げとは言え暴力団介入のない都市計画事業の一環であり、相手は法的な手段を用いて正面から買収の話を持ちかけているだけなのに対し、先祖代々の土地を失うわけにはいかない西荻の過剰とも言える抵抗姿勢に、もはや相手方を憐れ不憫に思いやる声であったという。
もちろん、わが身可愛さから西荻の味方をした人間もいるにはいたが、古くから『肥溜め』と言われ続けた閉鎖的な街の事である。インフラ整備が進み、生活基盤が向上するのであれば、それに越した事はないと考える者も当然出て来る。
だが街の幸せと引き換えに住む土地を失い、幾何の金銭を手にして他所へ移れという話では、当人達にとって釣り合う話ではなかろう。それは少なくとも、この街に古くから住まう諦めの付いた住人達にはある程度理解されていたようで、どちらに加担する事も出来ず傍観しているほかないのが部外者側の現状であった。
しかし聞く所によれば、西荻の家は都市化が進む隣街との境に農地解放の対象外であった小さな山を三つ所有しており、そこも含めて買収が進めばかなり多くの土地をひとまとめの区画として整備出来、そうなればおそらくは国鉄が走り、新しい駅が作られる事になるだろうと噂されていた。当時の街の人間にすれば夢のような話である。肥溜めの側を電車が走る。街は美しく整備され、外からも人がやって来る。そうなれば街は活気づき 景気は向上し、差別や貧困も少しはましになるだろう。
そんな夢見る改革推進派対、現実主義の保守派との間でキナ臭い空気が漂い始めた折、西荻平左が死んだ。
警察は他殺だと断定した。
死体を発見したのは西荻の所有する土地でネジ工場を営む、磯原という男だった。ほとんど現役を引退している老齢の磯原は、毎朝工場を開ける準備の為だけに早起きするのが日課となっていた。その日も一人でまだ薄暗い工場に鍵を開けて入り、事務所として使っている玄関の灯りを付けた途端、背後からドサリと聞こえたその音に腰を抜かす程驚いたと言う。音はたった今自分が入って来た、玄関のすぐ外から聞こえた。何かが倒れたとか、ぶつかったという音ではなかった。明らかに重たい何かが上から降って来た音だと分かったそうだ。恐る恐る引き違いの戸を開けて外を確認すると、まだ仄暗い地面の上に人の体が転がっているのが見えた。心臓が口から飛び出そうになるのを手で抑え目を凝らすと、それが見慣れた西荻当主の体であり、明らかに首の折れ曲がった死体である事が分かったという。
もちろん第一発見者である磯原は警察に連行され取り調べを受けたが、齢七十を超えた老人には到底真似のできない殺害方法であった。死因は、頸部の骨折。しかしそれは高所からの落下による衝撃で折れたものではなかった。当時そこまで検死解剖の技術が進んでいなかった時代でも、それは一目瞭然だった。何故なら遺体となった西荻の首にはくっきりとした人間の手形が残されており、尋常ならざる力でもって縊り殺された事は明白だった。もちろん、痕がつく程の力で首を絞められた後、高所から投げ落とされた線も無いではない。だがどちらにせよ死因は他殺で間違いなく、磯原にはそのどちらも全く不可能な犯行であった。
戦前から続く『嫌悪の坩堝』、と誹られ続けたこの地においても、西荻の怪死は不穏な空気を充満させた。それは一般的な疑心暗鬼や殺人事件に対する恐怖から来るものではなかったし、この地が古くから被差別部落とされてきた事とも関係がない。
誰もが、幼少より聞かされ続けたあの噂を思い出した事がその理由だった。実際子供たちは口々に『投げる者』『握る者』と騒ぎ始め、目に見えない恐怖は瞬く間に伝染して行った。
しかし時が一年と経つ頃にはやがてそれも薄まり、流行り言葉のようであった例の呼称も人々の口に上る事はなくなった。ただ、その後も犯人は特定されず未解決のままである。その為、ほんのりとした陰惨な余韻が住民の心の隅に、いまだ僅かな影を落としている。それを拭い去る為の口実として、口さがない街の住人達は噂話に余念がない。
「あれから話の途絶えた開発事業はどうなっただろううか」
「当主が急逝した西荻の家は、ボンクラと言われた長男が家督を継ぐ以上、先細りだろうな」
「死に方が死に方だ。存続したとしても、ロクなもんじゃない」
「やはり肥溜めは肥溜めだったか」
「あの家、呪われてるんじゃないのか」
そんな陰湿極まりない言葉もあれば、
「好景気、高度経済成長、夢のまた夢」
「愛しき悪臭! 我らがボロ屋!」
といった、乾いた自嘲までもが風に乗って聞こえて来ていた。
西荻が殺され、そして藤代友穂が街を出てから一年が過ぎた、秋風の吹くある日の事。
夕暮れの路地を行く、仕事終わりの銀一を呼び止める声があった。
振り返るとそこには、今まさに人を殺して来たんじゃなかろうかと見紛う程眉間に皺を刻んだ幼馴染、池脇竜雄の姿があった。彼のそんな顔は、ほとんど生まれつきと言っていい。百八十センチ近い大柄な体躯は二十歳を越えた今も成長し続けており、どこと言わずすべての部位が大きく骨太な印象で、この街を闊歩するヤクザ連中が思わず二、三歩後ずさる程の威圧感に満ちている。
「帰りか」
と竜雄。
「おお。臭いぞ。風呂入らせろ」
一瞬振り返ってそう言うと、銀一は向き直って家路を歩いた。銀一もまた、威圧感という意味では竜雄といい勝負であった。身長は彼程高くはないが、首筋から肩にかけて、胸板から両腕の筋肉が大きく発達しており、いかにも典型的な肉体労働者のそれであった。ただ竜雄と違うのは、普段の銀一はどこか涼しさを湛えた優しい目をしている。昔から女性人気が高いのも、彼の方だった。
竜雄は二、三歩弾むように歩いて銀一に近寄ると、彼の背後で話を始めた。
「歩きながらで構わん、聞いてくれ」
「何」
「昨日よ。平助に泣きつかれてほとほと困ったわ」
銀一は一瞬立ち止まり、そしてすぐまた歩き出した。
「…相当来とるんか」
「みたいやなぁ。完全になんつうか、塞ぎ込んでるんじゃと」
「仕方ない。じいちゃんがあんな死に方して一年経つのに、まだ犯人が捕まっとらんし」
「あ? いや、塞ぎ込んどるんは平助やない、親父の方」
「…ああ」
竜雄の言う「平助」とは苗字を西荻という。つまりは殺害された西荻家当主、西荻平左の孫にあたる。彼の父親の名は、幸助。平左亡き後、西荻家の後継ぎとなった。
「まあ、どっちにしても同じ事やろ。世間じゃもう既に色々言われてるみたいやけどな」
溜息混じりにそう言う銀一の後に続き、竜雄は周囲を伺いながら頷く
「昔からの顔馴染みがああなっても、言う奴は言うよな。呑気なんか、バカなんか」
「阿呆なんじゃろうな。俺にはよく分からんよ」
「…平助が言うにはよ」
「ああ」
「親父がずっと塞ぎ込みながら、次は俺の番だって、ぶつぶつ言いながら震えとんだって。あいつ、見てらんねえわって泣きながら俺んトコ来てよ、どうにかしてくれんかって。そう言いやがんるよな」
銀一は再び立ち止まり、振り返る。俯いていた竜雄とぶつかりそうになり、銀一は右手で彼の腹を押した。トラックのタイヤみたいな腹筋だなと思った。
「おおっと」
「お前、…変な事考えとらんじゃろうな?」
「変な事って、何よ」
真剣な顔の竜雄をしばらく見つめ、銀一はまた歩き始める。
「俺やお前に出来る事なんて何もない。別に警察だって一年やそこらで捜索をやめたわけやないやろうし、幸助さんの気持ち考えりゃあ…」
「分かってる」
「俺もお前も、この街の人間は皆『そう』思い込んでも仕方ないわ。俺だってたまに思い出してはうなされるよ」
「あんな死に方はないよな…」
「…出来る事があるとすりゃあ、平助の話黙って聞いてやるぐらいじゃろうな」
「ああ」
「変な事考えんなよ」
「だから変な事ってなんじゃい?」
そこへ背後から自転車のベルが鳴り響く。振り返った銀一と竜雄は夕焼けの強さに思わず視線を外した。こちらへ向かって自転車をこいで来るのが誰だか分かる前に、声が聞こえた。
「珍しいじゃねえのよー、竜雄くん。まだおったのー?」
「和明か?」
「おお、そこにおわすは銀の字でありますな? お勤めご苦労さんです」
自転車はそのまま風に乗ってフラフラと銀一と竜雄の側まで来て、止まった。ほっそりとした体は不安定な自転車の上でしなやかにバランスを取り、その上には銀幕スターのように爽やかで整った顔立ちがちょこんと乗っかっている。優しく澄んだ微笑み。彼らの幼馴染、善明和明である。
「魚クセー!」
竜雄が笑って言うと、銀一が怒って彼の肩を突き飛ばす。和明は全く意に介さない笑顔で自分と銀一を交互に指さし、
「ここの魚臭と獣臭半端ねえわなー」
と言って笑った。和明の仕事は漁師、銀一の仕事は食肉加工業、いわゆる屠畜業である。
筋肉の発達した竜雄と銀一の間に立つと分かり辛いが、細いとは言え和明の体つきもかなりの物だ。竜雄の筋肉がパンパンであれば、和明のそれはミッシリであろう。銀一ならばギチギチ、といった所であろうか。
全く動じない和明を見て、からかわれた銀一は馬鹿らしくなって笑い飛ばし、また歩き始めた。
「今晩出るって? トラック」
和明が自転車にまたがったまま、大きなハンドルを握る真似をする。竜雄の仕事は長距離トラックのドライバーだ。
「いや、明日んなったわ」
「そ。春雄も明日帰って来るって」
「いつ?」
「時間までは聞いとらんなあ」
「すれ違いかもしれんな、俺は午前中には出るから」
「そっかあ。あ、銀ちゃんどうよ、一杯行こうや、この後、三人で」
一人先を行く銀一は立ち止まりも振り返りもせず、
「風呂!」
と声を上げた。
彼の背中を見つめていた和明の顔から、不意に微笑みが抜け落ちた。
「竜雄、聞いてっか?」
「ああ? 何」
「俺もよく分からんのやけどな。聞いた話、例の、西荻のじいちゃん殺った奴、また、この街来とるらしいよ」
「…はあ?」
「どうやら街の何人かは犯人に目星がついてて、敢えて警察には言うとらんらしいわ」
「え?」
「噂やで。ほんまかどうかは知らんよ、フカシとるだけな気もする」
「なんじゃあ」
「ただ例のよ、西荻が持ってる土地の件が絡んでるらしいな。俺にはよう分からんけど、何か聞いてない?」
「…あー、いや、関係あるかどうか分からんけど。実はよ、平助がな…」
周囲を見渡しても、自分達の周囲に人の姿はない。それでも自然、竜雄は声のトーンを落としていた。
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