【46】懐塵

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【46】懐塵

 かつて廃品回収を商いとする会社が、その場所に存在していた。天井の飛んだ資材置き場は廃屋となって久しく、周囲を不法投棄されたゴミが山となって取り囲んでいる。そのゴミ山の切れ目に、小さな事務所が埋もれるようにして残っていた。形ばかりのその事務所は既に玄関扉も窓も持ち去られ、建物としての外観を残すのみである。しかし闇に乗じてひと目を忍ぶには具合がよく、銀一の指示によって藤代友穂と善明和明、神波春雄の三人はその事務所の中へとその身を隠した。  トランクの壊れた黒塗りの車が、大袈裟な排気音と噛み合わぬ鉄板をガタガタ言わせながら乗り込んで来るのは、友穂たちが移動を終えたまさにその瞬間であった。  迎え撃つのは伊澄銀一と、志摩太一郎の二人である。  銀一にとっては見覚えのない車だった。だが事務所内で危うく声をあげそうになったのは、春雄だ。  停車した黒塗りの車から降り立ったのは、濃紺のスーツに身を包んだ一人の男だった。  男の姿を目にした志摩が、眉間に縦皺を刻んで難しい表情を見せた。想定外だ、とでも言いたげな顔だった。  その男は運転席から降り立った瞬間銜え煙草に火を点け、それから辺りを見回し、最後に銀一と志摩を見やった。 「お前ら二人だけか?」  と、男は言った。細身の体躯から想像する年齢よりもずっと上の印象を、聞く者に与える声だった。  威厳があるとさえ言ってよい、まるで垂れた頭の上から説き伏せにかかるような、有無を言わせぬ声であると銀一は感じた。  誰や、と銀一が志摩に尋ねた。 「七代目や」 「天童、…権七か。こいつが?」  銀一が目を細めて見やる。特に大きいわけでも、鍛え上げた筋肉がスーツを押し上げるでもない、見ようによっては昨今街中で目にするヤクザの企業舎弟のような、スマートさを売りにした雰囲気さえある。だが、 「…雰囲気あるな」  と銀一が思わず零した。志摩は苦笑を浮かべて頷きつつも、首だけで背後を振り返るようにして権七から顔を背け、 「車にまだおるぞ。ようけおる」  と声を潜めて銀一に注意した。銀一は内心ぎょっとしながらも顔には出さず、そうか、とだけ答えた。  だが志摩の言葉に反するように突如現れたその『声』は、権七の乗って来た車の更に後方から聞こえて来た。 「街中がやかましいわ。パトカーだらけや、ほんま面倒臭い。誰のせいや。…ワシやな」  いかにも田舎ヤクザのそれを思わせる、荒っぽくドスの聞いた声だった。  志摩が、右手で顔を抑えた。やはり自分の嗅覚に間違いはなかった、とでも言いたげである。  現れたのは西荻幸助であった。幸助は自分の歩く道に車が止まっているのを見て取ると、迂回せずその車に飛び乗った。ダダン、ダンと派手な音が鳴り響き、権七は嫌なものを見る目付きで振り返り、 「降りろ」  と言った。 「へえ、へ」  幸助はトランクの上から天井を歩き、そのままボンネットを踏んで縦断し、地面に飛び降りた。あくまで権七に言われて降りたとは思わせない行動であった。  事務所に身を隠す和明が、奥歯を軋ませた。『あのじじい、どんだけタフなんじゃ』。  和明から事情を聞いた春雄は、自分の記憶とは随分と食い違う、平凡太郎とさえ呼ばれた幸助本来の姿に唖然とし、音を立てて唾を飲み込んだ。 「あいつは、面倒臭いぞお」  小声で志摩が言った。 「分かってる」  と銀一は答え、幸助を睨んだ。先程和明が口走った言葉が耳から離れないのだ。『一番殺したいのは藤代友穂』…。 「千代乃はどこだ。神波という男も探しているんだが、お前知らないか?」  権七は志摩を見て言い、後半は西荻幸助を振り返って尋ねた。 「神波? 成吾の倅か。さっき翔吉の家で見たぞ。なんや、あいつも殺すんか? 二度手間やったな」  先程『死体置き場』で襲われた時に抱いた印象とは異なり、随分と年齢に似合わぬ軽い調子で話す男だと内心馬鹿にしながらも、その内容は非道極まりない。幸助に対しては一切気を抜くまいと、銀一は改めて腹を括った。 「伊澄翔吉か。家はどこなんだ。行って俺が殺して来る」  銀一達に背を向けて歩き始めた権七に、 「やめとけ。今はどこもおまわりがうろついてる。それよりも目の前に良い餌が阿保みたいに雁首揃えとるやないか。あんたから見て左側が、翔吉のガキや」  権七はゆっくりと振り返り、改めて値踏みするような目で銀一を見た。そして数秒、鼻で嗤い、 「なんとも、貫禄のない」  との感想を口にした。 「相手にするな。アレもあかんで、アレもある意味化け物みたいなもんや」  そう言って、志摩が銀一の肩に手を置いた瞬間だった。  銀一が右アッパーを志摩の腹に叩き込んだ。志摩は両手で体を抱え込むようにして後退し、そして吐いた。 「調子に乗んなよ。お前を許したわけやないんじゃ、気安く触るなチンピラ」  銀一は吐き捨てると、 「お前、あかんて」  と制止の手を伸ばす志摩を振り切って走り出した。  幸助が嬉しそうに笑って両腕を上げた。一見して柔道の構えのようにも見えるが、決定的に違うのはその手に刃物が握られている事だ。  銀一は幸助目掛けて突進する。幸助がスナップを効かせた左手首を振り降ろすと、飛んで来る刃物を予想して銀一は進路を権七へと変えた。続いて、幸助の振り降ろした右手が、軌道を変えた銀一目掛けてナイフを投げる。ナイフは吸い込まれるようにして銀一の左胸に刺さり、権七は向かって来る銀一にタイミングを合わせて回し蹴りを放った。  銀一はほとんど体当たりに近い勢いで権七の右足を掴み、右膝を跳ね上げて膝の皿を割った。いや、割ろうとした。しかし権七の飛び上がる速度が一瞬それを上回り、振り上げた左足が銀一の胸に刺さったナイフの柄を弾くように蹴った。銀一は上体をのけぞらせて蹴りの直撃をかわしたものの、ナイフの柄が折れ刃だけが胸に残った。銀一は素手でその刃を掴んで引き抜くと、着地した権七の腕に突き立てた。身を捩る権七と銀一の間に幸助が飛び蹴りで割って入り、銀一の身体を後方へ押し飛ばした。  しかし銀一は三歩と退かず、今度は権七と自分の間に着地した幸助の身体を掴んで引き寄せ、そのまま顔面に頭突きを叩き込んだ。幸助が怯んだ表情を見せたが、銀一は何食わぬ顔で何発も頭突きを叩き込む。  幸助の背後から権七が襲い掛かり、銀一の右肩に折れたナイフの刃を刺し返した。顔を上げた銀一の隙を逃さず、幸助が銀一の顔面を両側から手で挟み込み、捩じ切るような動きで投げ飛ばした。  銀一は首から上がもぎ取られるような痛みに、思わず自分から飛び、派手に地面に転がった。一瞬、本当に首から上が取れたかと錯覚した程だった。転がりながら距離を取った銀一が身体を起こすと、今度は背後から志摩に尻を蹴り上げられた。これにはほとんど痛みを感じなかった。  顔面を血だらけにした幸助が、唾を吐き捨ててピッチャーの投球フォームさながら二本のナイフを同時に投げた。その内の一本が銀一の右足の甲に突き刺さり、思わず視線を下げた志摩の左胸にもう一本のナイフが飛んで来た。だがナイフは音もなく弾かれて、地面に落下した。  志摩が上着の懐から懐中時計を取り出して、手の平で転がして見せる。ニヤニヤと余裕の笑みを浮かべる志摩の隣で、銀一が足のナイフを引き抜いて右手に握り直した。刺された右肩も、貫かれた右足も、今は全く痛みを感じない。  権七が、無言で右手を幸助に差し出した。幸助は一瞬躊躇った後、権七の手に自分の得物を握らせた。志摩が地面に落下したナイフを拾い上げ、幸助は新たなナイフを背中側から取り出した。  四人の男が刃物を握って対峙する光景は、まさしく異様だった。  少し離れた事務所内で固唾を飲んで見守っていた友穂は、興奮に鼻息を荒くする春雄や和明と違い、今にも鼓動が止まってしまいそうな不安と恐怖に体を震わせていた。  一瞬だった。しかしその一瞬の攻防の中で、銀一が目の前で命を落としていたかもしれないと思うと、いつ終わるとも知れぬ死闘を見つめる友穂の目に大粒の涙が湧き上がって来るのだった。 「全く、これだから言葉を扱えない、知性の欠片もない猿どもは」  そう言うと、天童権七は右手でナイフを弄び、空中で回転させ、指で挟んで回した。そして突如、右手で掴んだナイフを、投げた。だがナイフは銀一でも志摩でもなく、事務所目掛けて一直線に飛び、暗がりに沈み込む建物内へと消えた。壁らしき場所に突き刺さる音が聞こえたきり、特に事務所からはなんの物音も反応も聞こえては来なかった。  事務所内では和明が友穂の口を押え、二人の前に飛び出した春雄が捨てられた木の椅子を眼前に構えて立ちふさがっていた。権七の投げたナイフは、春雄の構えた椅子に突き刺さった。 「そこに誰かがいるのは最初から分かっている。出て来ない理由は二つだ。出て来れる状態にないか、怯えて隠れているかだ。どちらにせよ、見逃す事はないとだけ伝えておこう」  権七はそう言うと、幸助を振り返って右手で何事かを合図して見せた。幸助は不服そうな顔で、 「必要あるけ?」  と聞いた。  権七が黙ったまま見据えると、幸助は観念したように頭を振って、車に近づいた。幸助は後部席のドアを開けると、体を中に入れて何かを掴み、外へと引き摺り出した。 「あ」  と声を上げたのは銀一だ。  車外へと転がり出たのは成瀬老刑事と、三島であった。志摩が乗り込んで来た車を見ながら「まだ中に人がいる」と断言したのは、彼らの気配を感じ取っていた為である。だがまさかその正体が成瀬刑事と三島であるなどは、志摩自身にも分からぬ事であった。  幸助はどちらにしようか考えた末、辛うじて身を捩り抵抗の意志を見せた三島の襟元を掴んで、テンケンの足元まで引き擦って歩いた。そして幸助から三島を引き継いだ権七ンは、つま先でコンコンと三島の身体を蹴り、 「四つん這い」  と言った。意味が分からず上を向く三島の顔には怯えが浮かび、しかし権七は全く意に介さない顔で「四つん這い」と繰り返した。 「ワレこらぁッ」  銀一が怒声を上げたのを聞いて、三島が咄嗟に自らの意志で四つん這いの姿勢を取った。三島は言った。 「構いません!私よりも、成瀬さん、親父さんは、生きてますか!」  銀一達のいる場所からでは、成瀬刑事の顔までは見えず、意識があるのかないのかも判断が付かなかった。 「わからん」  と銀一が答えると、三島は四つん這いのまま声を上げて泣いた。  権七は三島の身体に腰かけ、 「疲れたな。少し、昔話をしようか」  と言った。 「ああ!?」  詰め寄ろうとする銀一の胸を押さえ、志摩は首を横に振った。銀一は苛立ち任せに志摩の腕を払いのけたが、そのまま権七に襲い掛かる事をせず、血走った眼で睨み付けるに留めた。成瀬刑事と三島の命が権七の手の内にある事を思えば、それは懸命な判断と言えた。  よく通る声で、権七は話し始めた。 「西荻平左と今井正憲は時代の移り行く様を見据えながら老いさらばえる事を良しとはしなかった。その中で、実業家としての顔を持っていた西荻は新たな可能性を模索し、片や今井は自を中心の柱に据えた時代の来訪を夢見た。そして不治の病に毒された志摩在平良は、そんな二人を横目に歯止めが効かぬ程に狂い、狂った。幼ない娘をその手にかけたまでは良い。だが嫡男である息子を遠ざけたばかりか、新たな牙を家に招き入れた。…どうだ、どこかで聞いた事のある話なんじゃないか?」  権七の目が、銀一を捉えた。銀一は一瞬志摩の横顔を見やった後、 「胸糞悪い話やのお。それがテンケン、お前か」  と言った。しかし権七は首を縦にも横にも振らず、話の先を続ける。 「志摩は、私にある取引を持ち掛けた。西荻と今井のもつ仕事の権利と遺産を全て譲る代わり、端団としての役割を担い、黒としての志摩家を存続させてほしい、と」  銀一の隣で、志摩が奥歯を噛み締める音がはっきりと聞こえた。  志摩は先程、銀一に向かってこう言ったのだ。 『全員死んだらええと、そう思ってるんや。そしたらよ、全部綺麗になるやんか』  銀一は何となく、志摩の言ったその言葉を思い出していた。  四つん這いの三島に腰かけたまま、権七は続ける。 「私にとってそれはあまりにも、造作もない事だった。志摩在平良という男。…そこの車で今も死にかけているが、どうせこの男は近いうちにあの世へ行く。利用できるものだけを選別して、いらないものは全てを闇に葬ればいい。私ならそれが可能だからだ」  志摩の目が黒塗りの車へ走った。車内にはまだ人がいる。それが、志摩太一郎の父、在平良だという。 「志摩の家を黒の団として存続させて行く事に必要な条件は何か。簡単だ。志摩の家だけがあればよい。在平良もそれは承知の上だっただろう、初めの言葉がそうだった。『西荻、今井のもつ仕事の権利と遺産を全て譲る』。分かるだろう、その二つの家を贄として差し出すと、志摩はそう言ったわけだ」  銀一が目玉だけを動かして志摩を伺う。あれだけ自分を止めようとした志摩が、今にも飛び出さんばかりに拳を震わせている。もちろん、表情には出さない。しかし銀一には分かった。志摩は相当頭に来ている。 「黒の団の心底を見た気がして、私は内心笑いが止まらない思いだった。どいつもこいつもお互いを食い合う事ばかりを考え、とてもじゃないが一枚岩とは言えない連中だ。我が教団とはほど遠い哀れな連中、むしろ、…おい、お前らの話をしてるんだぞ」  不意に権七はそう言って、背後の西荻幸助を振り返った。幸助ははっきりと聞こえる音で舌打ちを鳴らし、顔を背けた。銀一にはその横顔が、幸助の見せた素の表情に見えた。  権七は一拍置いて、不意に銀一を見た。 「まずは忌々しい伊澄の家系を潰す事に決めた」  銀一は面食らったように権七を見つめ、瞬きを繰り返した。 「そして伊澄に関わる忌まわしき三家を潰す」  事務所内で、春雄と和明が息を呑んだ。  全く話の全容が見えない。何故突然自分達の名前が出たのだ。だが見ないその暗闇に、伊澄家、神波家、善明家、そしてこの場に居ない竜雄の池脇家までもが因縁付けられている事は分かる。その事実がたまらなく怖かった。 「何を言いよんじゃ?」  銀一が思わず隣に志摩に尋ねた。しかし志摩は答えない。権七が続ける。 「手始めに、彼らとの縁が深く、家系存続に一役買うであろう藤代の子を壊した」  暗がりの奥で、友穂は悲鳴を呑み込んだ。銀一は絶句して動けない。 「…知らなかったようだな。まあ、無理はないだろう。それにしても馬鹿な男を使うのは実に簡単だった。そもそも、西荻の家には揃いも揃ってこいつみたいな馬鹿しかいないからな。その後、藤代の子が東京へ逃げた事で、私の中ではひとつカタが付いた」  銀一は志摩を見、権七を見、そしてまた志摩を見た。  志摩が叫んだ言葉を思い出したのだ。 『友穂だけやないぞ!お前ら全員の命が標的じゃ!銀一!お前先生と話しよったんじゃないんか!何をいつまでも寝ぼけた事言いよるんじゃ!何のために友穂は襲われた!なんの為にケンジとユウジは赤江に送り込まれた!なんのためにテンチヨは竜雄に近づいた!なんのために榮倉は殺された!答えは一つしかない!…お前ら全員が裏神の的に掛けられとるんじゃ!なんでか教えたろか!その昔芥部衆を抜けた伊澄翔吉とお前らの親父連中が!足抜けの代償として天…』  銀一が志摩の肩を掴んだ。 「おい、志摩。言うてくれ。…うちの父ちゃんは、何をした」 「…」  狼狽える銀一に、権七は笑い声を漏らさぬよう口元を手で押さえた。  志摩は答えない。 「言うてくれ。父ちゃんは、こいつらに何をしたんじゃ? 友穂が襲われた事と、関係あるんか」  志摩は怒りのこもった眼で天童権七を見据え、聞いた事もないような声で、銀一の問い掛けに答えた。 「天童権五とその子である権六、当時の大謁教教主とその親を殺した」  志摩の肩から、震える銀一の手が離れた。 「確証はない。証拠もない。ただ、そういう話になっとるのは確かじゃ」  慌てて補足した志摩の言葉はもはや銀一の耳には届かず、両手を空に向けて「納得だろう?」と言わんばかりの権七の笑顔だけが、銀一の視界で乱舞するように回転し続けた。 「まだ若かったとは言え私は既に権七を継ぐことが決まったいた。しかし、内々で決定していたとは言えまだ当時私の顔も存在も公にはなっていなかった。運命を分けたのは、その辺りが関係しているのだろうな。その事はまあ、今の私の生きる糧となった事を思えば、復讐心とてそう捨てたモノではない。もちろん、感謝などあろう筈はないが。だがここへ来て突然計画に歪が生じた。…ちゃんとしてくれよ、グラついてるぞ」  不意に、権七が四つん這いの三島を踵で蹴り上げた。三島は息の詰まった声をあげるも、なんとか歯を食いしばって堪えた。 「馬鹿な西荻が馬鹿な警官にほだされ馬鹿な親を喰った」  そう言うと権七は首だけを捻って背後の幸助を睨んだ。幸助は既に場の空気を掌握している権七を、見てすらいなかった。 「地盤を丸ごと譲り受ける気でいた私は当然何事かと立ち入る。在平良に聞けば自分の指示ではない、まだ手を下してはいないと言う。そこで私は、予てより現世代で最も邪魔だった松田三郎を、ケンジらを使って殺し、ついでと言って今井を殺した。途端、鼻の利くそこの志摩の嫡男が雲隠れし、この幸助までもが逃げた。まあいい、過程はどうあれ狂った老人さえ満足するなら、あとは私がどうとでもする。だが運の悪い事に、私の存在にやがて気付く者が現れた。まだ若いその男は名を、…あー、なんといったかな」  振り返らずに言った権七の言葉に、やがて幸助が小さく答えた。 「えいくら」 「そうだ、榮倉と言ったな。その榮倉は、昔から長く黒に張り付いていた、そこの老いぼれ。その爺さんの名前は、成瀬であっているか?」  だが幸助は答えない。その代わりに三島が嗚咽を漏らした。 「うるさい」  権七が不機嫌そうに三島の腹を踵で叩いた。 「警察を定年退職した後も嘱託員として現役に助力し、その他一切の犯罪現場に関わらぬ事を条件として黒の捜査を許されていた、筋金入りの老刑事、成瀬オウマを牽制する役目として、側に張り付いているのが榮倉という男だった。だが逆にそこまで限定的な条件付きとなれば、そこに成瀬がいるだけでこのヤマは黒案件だと伺い知れるんだから、足を引っ張っているとしか見えなかった。そして、ここまでくれば意外でもなんでもないかもしれないが、榮倉もまた、黒の団であり、端団なのだよ」  事務所内で、危うく春雄は声を上げそうになり、両手で口を押えた。 「だが私の知る人間の範囲内では、榮倉を使っていた人間が見つからなかった。わざわざ変装までして西荻や成瀬の周りをうろ付いてみるまでは、分からなかったのだ。私は志摩に、黒の存続の為志摩の仕事に助力するよう依頼されてはいたが、私にとってそれは教団であり裏神の為でしかない。そうであれば、私の前を横切る邪魔な虫は発見次第踏み潰すしかない。そして、見つけた。…榮倉が死んだのは、そうだな。それが理由という事になる」  天童権七が、ゆっくりと立ち上がった。  すると慌てたように、志摩が口を開いた。 「ケンジ達を殺す必要はなかった!」  権七は不機嫌そうな顔を少し傾け、志摩を睨みつけた。 「ついさっきも、以前お前がそうやって言ったのと、同じ事を神波に言われた。…そうか、そこにいるのは、神波か?」 「答えろ!」  声を荒げる志摩は、しかし怒っているわけではなかった。先程から身動きひとつしない銀一の精神状態を慮り、時間稼ぎと牽制を試みているのだ。更には背後の事務所跡に身を隠す春雄や和明に、可能であれば真実のひとかけらでも知っておいて欲しかった。あるいはその様な思惑も、この時の志摩にはあったかもしれない。  権七はじっと志摩を見据え、彼の真意を推し量ろうとするかのように黙った。しかしやがては口を開き、 「教育が甘かったのだろうか」  と語り始めた。 「あるいは若くしてこちらへ送り込んだ事が余計な影響を与えたのだろうか。ある時、ケンジが私に向かっておかしな事を言った。千代乃がそうだったように、もういい加減自分達の功績を理由に、裏神天正堂から抜ける事を許されはしないだろうか。…馬鹿を言うな。もちろん私はそう答えた。何が、千代乃がそうだったように、だ。誰一人として裏神天正堂から抜け出た者などいはしない。大謁教ならびに裏神天正堂、我らが教義に背くというならこの私を打ち倒して行くべし。だが、手負いであったとはいえ、二人掛かりで結果があの様よ。お前も見たじゃないか、実に笑えたな」  志摩は答えず、黙って権七のほくそ笑む顔を見つめた。だが不意に笑うのをやめた権七の目が、銀一を見やった。 「…いや、笑えはしないな。あの時お前が邪魔しなければ、そこで固まったまま死んだように動かない伊澄の子もろとも、あの廃倉庫で一網打尽に出来た筈だった」  そして権七の視線は、隣に立つ志摩へと移った。 「次会った時は殺す。確か私はそう言った筈だな。志摩の嫡男である事を考慮して一度目は見逃してやる。だが二度目はない、家そのものを潰してやる。私は確かに、そう言ったな?」  感想を求めるように権七は軽く両手を開き、たっぷりと間を取って志摩を見つめた。  しかし志摩が答えず、銀一までもが何も言えない様子である事を見て取ると、権七は急に冷めた顔つきでいきなり三島の腹を蹴り上げた。三島の身体が浮き上がり、そのまま車のボンネットの上に落下して、地面に転がった。車の側でしゃがみ込んでいた幸助が真顔で立ち上がり、肩に手を当てて首の準備運動を始めた。  天童権七は、銀一達に背を向けたまま言った。 「だがひとつだけ、在平良の発案で最も面白いと感じたのは、黒の血を引く男と千代乃を交配させて新しい血脈を生み出すのはどうか、という話だった。私としてもこの実験は、個人的な怨嗟を抜きにすれば非常に楽しめる部類に入る。こちらには既に八代目がいるわけだし、黒の団は志摩家を残して私が絶滅させる、その時はそう考えていた。やがては大謁教と黒の団の血を宿す男が、この様変わりした時代をどう生き抜くのか、『時代を眺める者』の余興としては面白いと感じたのだ。しかし、事にあたってそこの嫡男はいつまでも姿を眩ませたままだった。私は暇ではない。そうこうする内にどうにも面倒臭さが勝って来た。余興は余興なんだ。楽しいと感じるうちにやらねば、興ざめというやつになる。結局は名前も知らない、トラックの運転手か? どうでもいいが、この街のそこそこ名の通った男にけし掛けるよう手配してみたんだが、皮肉にも労せずして上手く事は運んだようだった。が、余興ももう終わりだ。事情が変わった。情けない権八が死に、私には早急に千代乃を連れて帰る理由が出来たのだよ。さて、もういいだろう。全員が納得してくれた所で、さあ、在平良との契約を遂行しようじゃないか」  権七が振り返り、腰を落として低く構えた。  長話にも黙って耳を傾けていた幸助が、不意に口を開いた。 「お前ら、土下座でもなんでも早よした方がええぞ。現役ならまだしも、老いたワシなんぞより相当手強いぞ」  権七は鼻を鳴らして、もう遅い、と呟いた。 「時間はたっぷりくれてやっただろ。時は来た。在平良がかろうじて息をする間に、絶滅させてやる」  志摩が小声で呟いた。  銀一、イケるか。来るぞ。  しかし銀一は動揺し、混乱し、受け入れがたい現実を直視出来ずにいた。  自分の背中を刺した男が目の前にいる。犯人は、天童権七だった。  だが、銀一にとって問題は、そこではないのだ。  自分の家系についての話を翔吉から聞いた後でさえ、銀一にはどう逆立ちしても受け入れられない悪夢がそこに横たわっていた。心から尊敬し、心から愛する藤代友穂は、自分の父親達が招き起こした復讐劇に巻き込まれたのだ。まだ事故であれば、心の傷にそっと蓋も出来よう。しかしこれは事故ではない。友穂自身には何一つ罪のない、赤の他人が引き起こした怨恨による復讐被害をその身に被ったのだ。しかしもそれとて偶発的に選ばれたのではない。いつか、伊澄銀一もしくはその周辺の幼馴染の誰かと結ばれるかもしれない、その程度の薄い未来予測を理由に、若くして暴虐の限りを尽くされたというのである。こんな事が許される筈はない。到底、銀一に受け入れられる現実ではなかった。 「銀一」  志摩が言った。 「…逃げろ」  そう言い残して志摩が走り出した。  一歩目を踏み出した、まさにその時だった。 「絶滅するのはどちらかな。道化は道化のまま大人しくしていればこの先も安泰だったろうに、分をわきまえず欲なんかかいたりするからこの有様だよ。大体僕がこの数年…おや、何か臭うと思ったら、西荻さん家の幸助さんじゃないですか。やっぱりまだ、生きてたんだねえ。しぶといなあ。でもここだけの話相当、奥さんが怒ってたよ。はっきり言って、あれは鬼女と呼んで差し支えないと思うね。…なあ、お前もそう思わないか、竜雄?」  場違いな声の主が誰だか分かった時、一瞬我に返った銀一は、正直に言えば少しだけ安堵したのだ。  救世主とまでは言わない。しかしこの真っ黒い糸が複雑に絡まり合ったかのような、目には見えない混沌とした現実世界を解きほぐせる、あっと驚く打開策を持つ男が現れたと、そんな風に期待を寄せた。  だがそれも束の間だった。  赤江に生きる男として知らず身に付けていた、危機管理能力とも言える直感のバロメーターが、今にも壊れそうな程にレッドゾーンへと振り切れた。  銀一は予感した。  何もかもが消えてなくなってしまいそうな、それは終わりの予感だった。
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