【47】堕魔

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【47】堕魔

 昭和三十六年、かつて赤江を揺るがす大事件が起こった。  隣県に本部事務所を構える暴力団で、時和会系二次団体、須和組組長・時任須美生刺傷事件ならびに、須和組事務所放火事件である。須和組は当時赤江地区に事務所を構えており、その組長である時任須美生を刺したのは若干十二歳という若さの神波春雄であった。  基本的に赤江の住人は昔も今も警察組織を嫌っており、揉め事や事件に際して自ら通報を入れる事はまずない。しかし当時はまだ、現在『死体置き場』と称される空き家街にも数世帯ながら住民が残っており、放火された事務所が目と鼻の先だった事もあり、この時ばかりは消防車が大挙して押し寄せる結果となった。当然暴力団同士の抗争も疑われ、普段ほとんど立ち入る事のない閉ざされた街に、十数台のパトカーが群れを成して侵入して来たというその様は、まるで街全体を犯罪者と見立てているかのように、敵意と悪意に満ちていたという。  昭和四十四年、この晩赤江の街は、当時の事件を彷彿とさせる混乱を見せていた。夜ともなればほとんどの通りが暗闇に沈む街のいたる所を、回転灯を振り回した警察車両が駆け抜ける騒ぎはまるで、昭和三十六年の再来かそれ以上の狂乱であると言っても過言ではなかっただろう。  空き家街である筈の通りでパトカーが大炎上し、車内からは刺し傷のある警察官二名の他殺焼死体が発見された。辺り一面には当該不明の血飛沫と血だまりの跡が散見され、数本のナイフと、そして恐らくは警察支給品と思しき拳銃の発砲の痕跡と、空の薬莢が複数個見つかった。  次々に、途切れることなくけたたましいサイレンを轟かせ、捜査員を乗せたパトカーが赤江の街を駆け巡った。 「見物だよ、あっちは」  他人事のように、成瀬秀人はそう言った。  どういう道筋を通って来たかまでは分からない。車を走らせてこの場所まで辿り着いた天童権七や、それを追うように徒歩で来た西荻幸助とは違った方向から、秀人は現れた。暗がりの中を悠々と歩き、銀一達のいる廃品回収会社の跡地へと現れた秀人の姿を目にした男達の反応は、実に様々であった。  一瞬安堵の表情を浮かべる者、困惑する者、無表情を崩さぬ者、そして怯えを滲ませる者…。  そして秀人が池脇竜雄の名を口にした時、銀一だけに限らず、少し離れた事務所跡の廃屋に身を隠す春雄や和明までもが思わず息を呑み、無意識に目を凝らした。長い一日の始まり、東京で彼らが別々の道を通って再会するまでにまさかこれ程の時間を要するとは、誰にも予想しえない事だった。体中が軋むように痛む春雄や和明と比較すれば、竜雄は一見、朝別れた時と変わらない様子に見える。しかし長年共に生きて来た銀一達の目には、竜雄の異変は明らかであった。ゆっくりとした足取りの、その歩調や体躯に変化があるのではない。竜雄に纏わりつく、感じ慣れた彼の雰囲気が、恐ろしいまでに殺気立っているのだが分かった。 「竜雄。久しぶりやな」  口を開いたのは志摩で、そんな志摩の変わらぬ声色に、ギラついた目をした竜雄が怒鳴り返そうとした瞬間、 「なんでお前が、その男と一緒におる」  と、志摩が強めの語気で竜雄の先を取った。こういう志摩の会話運びの巧さに腹が立つのも、相変わらずだ。竜雄は口を噤んで溜息をつくと、銀一達から十メートル程離れた位置で立ち止まった秀人の横を、そのまま通り過ぎた。 「止まれ」  秀人が言い、竜雄は丁度銀一と秀人の中間地点で立ち止まった。  竜雄の目には志摩と並んで立つ銀一の姿、その向こう側には黒塗りの車の傍らに立つ見慣れない男、そして背後には見違えるような容貌となった西荻幸助が映っている。その足元に転がっているのは、確か三島という名の『イギリス』のボーイと、…まさか、あの小さいのは、爺か? 成瀬刑事か? 春雄と和明は、どこだ?  竜雄は大きく溜息を付いた。そして右手を上げてボリボリと頭を掻くと、親指を立てて背後の秀人を指し示した。 「なあ、銀一よ。こいつは一体誰なんや?」  ほう、と意外そうな顔で秀人が竜雄を見やり、志摩が僅かに顎を引いて視線を落とした。  銀一は少しだけ生気を取り戻したような目で秀人を見、首を傾げた。  誰とは、何だ。成瀬秀人じゃないか。今朝お前が会いに出向いた、成瀬秀人本人じゃないのか? 「へえ、気付いてたのかい。…いつから?」  そう、秀人が言った。竜雄は振り返らずに、 「和歌山の施設で、なんとのうドス黒いもんを感じた」  と答えた。  突然現れた男達がわけのわからない会話を始めても、権七はおろか西荻幸助までもが割って入る事なく、その場に黙して留まっている。銀一にとっては理解不能な事態でも、恐らく権七達にとってはそうではないのだろう。  竜雄は把握出来ないこの場の現状を注意深く観察し、同時に背後に立つ秀人の挙動にも気を配りながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。それは銀一にも分かるように話して聞かせる意味でもあった。 「おかしいとは、前々から思う事もあったんじゃ。出会って間もない頃、ようけ俺らの知らん情報を話してくれたよな。けど、東京で情報をチンコロしたいうヤクザの話やら、親父である成瀬の爺や、後輩の榮倉から情報やらを仕入れてたにも関わらず、赤江に警察が踏み込んで来る気配が全くない。西荻平左やバリマツや今井が殺された直後はそれなりに、捜査らしい事もしとったんやろう。ただお前、そいつらを『黒の団』と特定できる程の証言を聞いておきながら、なんでいつまでも見逃しとるんじゃ?」 「…」  秀人は答えず、竜雄の後頭部を見つめている。 「一年間もの間、赤江では時和と四ツ谷の抗争が続いとる。火種を作ったのがそこで阿保面下げとる志摩太一郎や。見てみいや、ここにおるやないか。なんで警察はまともに捜査をせん?こいつを捕まえようとせん?銀一が刺された時も、こいつが現場におった事は話したよな。それとも何か。警察関係者にも黒が紛れとるのを知ってるから、よう捕まえなんだか? …俺は違うと思た。全部お前の、一人芝居。そう思ったんじゃ」  竜雄の放った最後の言葉に、銀一の瞳が混乱の極致に揺れた。  一人芝居? 一人芝居とは、どういう意味だ? 何が、芝居だったというのだ。 「鋭いじゃないか。単なる田舎者の喧嘩番長じゃなかったわけだ」 「お前は最初っから、まともに捜査なんぞしとらんのじゃろうが」 「どうだろうね」 「なんであないまだるっこしい真似をした」  秀人は首を傾げる。 「平助の母ちゃんを前にして、心から楽しそうに、まるで初めて聞いた話みたいに興奮しとったな。驚いた振りも、怯える素振りも迫真の演技やとするなら、ただの答え合わせにしては、はしゃぎ過ぎと違うか?」  竜雄の言い草に秀人は思わず鼻で嗤い、 「まさかあの状態のお前がそこまで僕の事を観察してただなんてね、驚いたよ。だけどその程度の事で、僕の人間性を疑いこそすれ、こいつは誰だ、何者だ、というのはいささか突飛な発想すぎやしないかい?」  そう、疑問を呈した。 「辻褄が合い過ぎるんじゃ」  と竜雄は答えた。 「…なんの」  秀人の声が、少し低く尋ねた。 「もともと知った仲やという榮倉が殺されて、藤堂が務所にブチ込まれ、成瀬の爺が姿を眩ませた瞬間、突然息子を名乗るお前がたった一人で現れた。例えば、銀一が倒れたあのタイミングでお前が来なんだら、俺らはきっとこの事件の真実なんか何ひとつ掴めんまま、ただ闇雲に暴れ倒してただけやったやろうな。一時はそら、感謝もした。ただ、もしこれが、前に藤堂が俺らを使って、事件に関わってるかもしれん志摩の首根っこ掴んで、大人しゅうさせようとしたのと同じ、お前なりの理由があって俺らを動かしに来たのやないかと考えると、…どうしても俺はお前を信じきる事が出来んかった。今日、春雄でも和明でも銀一でもなく、俺が一人でお前に会いに行ったのは、それが理由や」 「ふうん。…だけど結局は、ただの勘というやつなんだね。見なよ、銀一は目を丸くしてるぞ」 「普通に、これからの事を相談出来てたんならそれが一番良かったんや。まさか和歌山くんだりまで電車旅させられるとは思わなんだけどよ、それ以前に俺は人をよう信じんからな。そもそもこいつらには何も言うてないんじゃ。それより、認めるんやな?」 「何を」 「理由はなんや」 「何が」 「俺に、父ちゃんの過去を教える為だけに、わざわざ和歌山まで平助の母ちゃんに会いに行ったんか」 「そうだよ」 「何でや!」  竜雄が声を荒げて振り返った。すると秀人は何喰わぬ顔で右手を上げ、人さし指を、志摩に向けた。 「あいつと同じ理由だよ」  竜雄と銀一がゆっくりと、志摩を見やった。 「あいつの書いた、やたら達筆な書状を君達も見たんだろ。あの書状は君らに迫る危険に対し、もっと早く、とっとと動くようにと、そう促す意味が込められている。だが分かりにくいあいつの恋文とは違って、僕のやり方もっと直接的だ。西荻静子から真実を引き出し、竜雄の顔面に叩きつけて目を醒まさせる。即効性あっただろ? 自分達の親が何者で、一体何をやらかして来たのか。誰を相手に、やらかしてしまったのか」 「何の為にや!」  竜雄が吼えるも、秀人は飄々としてひらりと怒気をかわし、 「鋭いんだか鈍いんだが、分からない男だな」  と小馬鹿にして言った。 「まあ、例え今日僕のもとへ来たのが竜雄じゃなくたって、和歌山には連れて行ったけどね。一番馬鹿そうな竜雄が来たからどこまで理解してもらえるのか、不安はあったけど…」 「志摩の書いたなんやらはこの際どうでもええ、お前は何の目的で俺をコケにしよるんじゃ」 「おい、志摩。お前は何のためにあの書状を送り付けたんだい?」  竜雄の怒りとまともに向き合おうとしない秀人の態度に、竜雄の感情は逆撫でされ続けている。  銀一も、春雄も和明も、無意識に握った拳が震える程に力を込めていた。いつ竜雄が爆発しても遅れを取る気はない、そういう気構えだけがあった。それでも辛抱強く、竜雄は質問を続ける。 「お前の名前は何や。そこに転がってる成瀬の爺は、お前の親父と違うのか」 「ああ。残念ながら、違うね」  秀人の答えに、竜雄は夜空を仰ぎ、目を閉じた。 「聞いたか銀一!」  しかし銀一は答えられない。そして、竜雄は言う。 「俺は、お前だけを信じる」  突然、竜雄が叫ぶように言った。  それを受けた銀一の目が、汚泥に沈んだダイヤモンドのように、一瞬鋭く光を放った。 「俺は誰をどいつたらええんや? お前が言うてくれるなら、俺がそいつをブチ殺したる。もう何が何でも構うもんか。俺ららしゅうないよな、もう、死ぬまでとことんやったろうや」  やけくそにしか聞こえない竜雄の言葉に、おいおい、と秀人が呆れた様子で呟いた。  廃屋から、春雄と和明が姿を現した。友穂は出て行く彼らを止めようとした。しかし二人はそんな友穂を代わる代わる抱きしめ、こう言い残して側を離れた。銀だけは、絶対連れて戻るから。友ちゃん、ありがとうな。友穂は大粒の涙を零して首を横に振った。  春雄と和明の姿を目にした瞬間、抑えていた竜雄の感情が爆発した。 「やったろうやんけぇッ!」  秀人は左手で顔を覆った。  天童権七は暗い目をして頭を振った。  西荻幸助は面白くて仕方がない顔で立ち上がる。  志摩太一郎は覚悟を決めて短く息を吐いた。  池脇竜雄は成瀬秀人を指さした。  神波春雄は天童権七を指さした。  善明和明は西荻幸助を指さした。  そして伊澄銀一は、幼馴染達の背中を見つめて微笑んだ。  この場に、本当の意味での善人はいない。  誰もが悪党であり、誰もが自分勝手で我儘だった。  それを若さだと一言で片づけるには、銀一達の身の回りで色々な事が起こり過ぎたのだ。  二十二歳という若者たちの中では恐らく、銀一達は思慮深い方である。少なくとも、赤江の住人という生まれ持っての環境を思えば、尚更である。  だが銀一はかねてより自分を欠陥人間だと認識し、そう口に出しても来た。  やはりそうだ、やはりこうなる。もはや抑えなど効く筈もない。自分はそういう男なのだ。  藤代友穂に仇なす存在など消えてなくなれば良い。響子を汚し、千代乃に害する愚かな男達など死んで閻魔に詫びれば良い。もちろん自分自身も含めて、そう思う。  何故こうなったのか。何故、自分の目に映る者達は皆傷つき、不幸になってしまうのか。  だが銀一はこの時、それら全てを忘れてしまう事にしたのだ。  例えそれが喧嘩でも抗争でもなく、人殺しやそれらに準ずる犯罪行為として罰せられる結果を招こうとも、友穂や、竜雄達を守れるならば恐れる事など何もない。本気で銀一はそう信じたし、幼馴染の命を思えば自分の将来など二の次だった。  西荻平左の死を皮切りに、何人もの男達がこの世を去った。今日、この二年の間に起こった全ての出来事に対し決着を付け、ピリオドを打つのだ。  そうや。そうやそうや。もう、あとの事なんか、知るかいや…。  だが一発の銃声が、全てを投げうつ覚悟の男達を止めた。  誰がその拳銃の引き金を引いたのか、しばらくは誰にも分からなかった。  お互いの手を見ても誰も拳銃など握ってはいない。  真っ先に疑われた成瀬秀人ですら、目を見開いて辺りの様子を伺っている。  ドサリと音がして、倒れ伏せたのは西荻幸助であった。 「必至…滅度の…願、成就…せり」  声が聞こえた。  小さく、消え入りそうな声だった。  だが、そのしわがれた声を聞いた時、銀一達の目に無自覚な涙が浮かんだ。 「成瀬さん!」  叫んだのは三島だった。  三島はボロボロの身体を引き摺り、這って行き成瀬刑事の身体に取り付いた。  成瀬刑事の手に握られた拳銃から、細い煙が白く立ち昇っていた。 「銀一、おるかぁ…。犯人は、黒じゃあ、幸助じゃあ」  成瀬刑事は息も絶え絶えにそう発するも、視線は空中のどこかあらぬ場所を見ていた。 「約束したじゃろう。例えこの老いぼれ、生首一つになったとしても、必ずや喰らいついて、犯人を…」  成瀬刑事の手から拳銃が落ち、最後の執念を燃やし尽くしたその目が、ゆっくりと瞼を閉じた。  三島は何度も名を呼び、老いた小さな体を揺すり、泣き叫んだ。そして最後にこう言ったのだ。 「お父さん」  銀一は目を見開いたまま秀人を見、嘆き悲しむ三島を見やった。  成瀬老刑事の息子は秀人ではなく三島であったのだと、この時居合わせた人間誰しもが初めて知った。 「おい、ウソやろ」  和明が成瀬老刑事の側にしゃがみ込んだ。 「あかんて!さっき会うたばっかりやんけ!何を、何をやっとんじゃお爺!黙って死んだフリしとりゃあ良かったんじゃ!それをお前、何を…!」  嘆く和明のすぐ背後に、殴り飛ばされた春雄の身体が倒れ込んだ。しかし権七は追撃の手を止め、スーツの襟元を正した。チラリと西荻幸助の動かない体を見やり、 「…情けない」  と呟いた。言葉だけを耳にし、誰に発せられたものかを考えずに和明は激高し、 「誰がじゃこらァ!」  と叫びながら立ち上がった。そこへ権七の回し蹴りが炸裂し、和明の身体は一回転しながら吹き飛んだ。春雄が起き上がり様に権七の胴体へタックルで突進するも、振り下ろされた右肘を背中に受け、声も出せずにうつ伏せに倒れた。  銀一はそれらの攻防を見るともなしに見つめ、だが頭では別の事を思っていた。  また、人が死んだぞ…。  銀一の目に、全てを振り切ろうとした諦めよりも色濃く、強い悲しみが浮かび上がった。  その時ふと、銀一は父である翔吉の言葉を思い出したという。 『堪えろ』  翔吉は確かにそう言ったのだ。 『アホか。堪えろ」 『お前は獣やないんじゃ。考えろ』 『自分に抑えのきかん男なんぞ、クソじゃ』 『考えろ考えろ、お前は、楽しようとすな』  銀一は側に立っていた志摩の胸倉を掴み、引き寄せた。  志摩は突然の事に驚き、抵抗さえ忘れて銀一を見つめた。 「竜雄は俺を信じると言うた。その俺が、お前を信じてもええか」  銀一の言葉に、志摩は何も言えなかった。だが言葉の代わりに志摩の目に涙が浮かび、そして流れた。 「成瀬秀人が、お前の言う化け物か?」  志摩が何度も首を縦に振った。 「敵か?」 「…分からん」  振り絞る志摩の声に偽りは感じられず、銀一は掴んでいた胸倉を離して成瀬秀人を振り返った。  その瞬間、池脇竜雄の強烈な背負い投げが、秀人の身体を天高く持ち上げる光景が目に入った。  だが秀人はそのまま体を反転させて両足から着地し、右手で竜雄の顎を突き上げた。竜雄は仰け反りながらも秀人の右手を掴み、勢いを利用して一本背負いを放つ。更に増した竜雄の回転速度と体を引き付ける力に秀人は、腰を落として踏ん張った。二人の力が拮抗し、動きが停止したと見えた刹那、竜雄が身体を前のめりに倒した。そこから秀人の背中が地面に叩きつけられるまでは、目にも止まらぬ早業であった。  竜雄は投げ終わった後も秀人の腕を掴んで離さず、そのまま秀人の顔を踏み抜こうとした。  しかし秀人は首を捩ってかわし、竜雄の脇に蹴りを差し込んだ。痺れて手を離した竜雄の隙をついて立ち上がると、秀人は迷惑そうな顔をして服の汚れを気にした。 「気が済んだかい?」  秀人は言い、油断せずに距離を保つ竜雄を一瞥した後、銀一と志摩に目をやった。  そして秀人は左手を上げると指を三本立て、右手を上げて指を四本立てた。 「なんのつもりや」  銀一が聞いた。  不意に、スクワットをするように秀人がしゃがみ込んだ。その頭上を、権七の投げたナイフがギリギリで通過する。 「いつまで遊んでるんだ」  権七の言葉に、秀人は邪魔された事を不服とする表情を浮かべて睨み返し、 「ちょっとだけ大人しくしてろ」  と言った。それは冷たい声だった。刑事と犯罪者、というある種背中合わせのようなお互い本来の立場とは違う、遠く深い隔たりを相手に感じさせる声だった。  秀人は両手の指を三と四にしたまま体を起こし、銀一達を見やった。 「君らに全てを理解してもらおうとは思わない。いいかい。この手には今三と四の数字がある。これを足せば、七になる。三足す四は七だ。だが物事はそう簡単じゃない。同じ三と四の数字が見えていても、そこに付随する事象を『かける』に変えるだけで現実という答えはいとも簡単に変化する。分かるだろ?」  銀一は苛立ちを抑えきれぬ様子で顔を赤らめ、 「何が言いたいんじゃ、それくらいの読み書き計算は出来る」  と噛み付くように答える。秀人は少しだけ悲しそうな目をして、先を続けた。 「今銀一達の目には、三も四も、見えている。だから答えは七だろうと、君らは答えを出そうとする。だけど現実は違うんだよ。十二かもしれないし、マイナスイチかもしれない。見えていなかった現実に対して、何故かけるんだ、何故割るんだと叫んでも仕方がないんだよ。そういう風に、事は流れてここまで来たんだ」 「うるさい!ガタガタ言うな!どれだけの人間が死んだと思うとるんじゃ!何がそういう風に流れたじゃ!そういう風に仕向けたんはお前やろ!」  おお、と気を吐いて、竜雄が叫んだ。  事の真相を追い求める銀一と竜雄、それに相対する成瀬秀人という状況には目もくれず、暗闇から和明が権七目掛けて飛び掛かった。我を失っている目をしていた。背後から権七を羽交い絞めにした和明に呼応するがごとく、春雄が立ち上がり様にその場で一回転して右腕を振り回した。  銀一達、というより成瀬秀人の動向に意識を取られていた権七は和明の挙動に気付くのが遅れ、春雄が放った大振りの拳をまともに顔面で受けた。と同時に、和明が権七の後頭部へ頭突きを入れた。  そのまま、和明が背後へ放り投げるように権七の身体を持ち上げると、間髪入れずに春雄がラリアットで権七の首を叩き折るようにして振り抜いた。権七の身体は和明もろとも後ろへ倒れ込んだ。しかし和明は掴んだまま離さず、 「来い!」  と声を上げた。春雄は答える暇すら惜しむように、権七の身体と顔をひたすら踏みつけた。何度か和明の顔も蹴ったように思う。それでも春雄は止めず、和明も決して権七の身体を抱えたまま離さなかった。 「っはは」  その様子を見ながら、成瀬秀人が呑気な笑い声を上げた。すごいな、と呟いたのが分かった。 「ええ加減にせえ。お前は一体何なんや。何者なんや。テンケンとお前は仲間と違うんけ」  竜雄の言葉に、 「仲間?」  と答えた秀人は、苛立ちの浮かんだ眉間に力を込めた。その時、 「ちょっとええですか」  口を挟んだのは、志摩だ。 「俺の仕事は、ここまでという事でよろしいか」  秀人は竜雄を睨んでいた目をそのまま志摩にスライドさせ、 「その話はまた今度だ」  と言った。 「いや、今がええですわ。もう、こいつらをひらひらとかわし続けるのも疲れました。損な役回りばっかりやった。俺を拾ってくれたアンタには感謝してるけど、俺もアンタも、そないお互いを信じあってるわけやないでしょ。アンタはほんまに、風のような御人やったわ。でも、もうええかな、終わりにしましょうや」  志摩の言葉に秀人は答えず、じっと見つめ返した。志摩の本心を測りかねているようだった。  銀一にせよ竜雄にせよ、この場で感じる志摩太一郎の雰囲気からは、不思議と、これまでのような嫌悪感が抜け落ちているように思えてならなかった。所詮は、なんとなく、という域を出ない。だが学の無さを自覚する彼らにとっては、事態に直面した時に発揮する勘こそが全てだった。その勘が、志摩を許していた。いや、ずっと許したかった。あるいは、一連の事件における彼の犯行を、本心では認めたくなかったのだと言って良い。  しかし本来、志摩太一郎という男は喰えないヤクザ者だ。この期に及んで何かを企てている、その可能性は誰にも否定できなかったし、それは成瀬秀人も承知の上なのだ。 「条件がある」  と秀人は答えた。そして、 「その代わり、僕は何も言わずにこの場を去る。それでいいね?」  と言葉を繋いだ。 「ええわけあるかあ!」  竜雄が詰め寄ろうとするが、志摩がそれを制した。 「分かりました。それでええですよ」  志摩はそう言い、 「その代わり。俺が知ってる事は、全部こいつらに言います。それでええですよね」  と秀人を見つめ返した。  秀人は微笑んで頷き、名残を惜しむように銀一の顔を見つめた後、何も言わずに踵を返した。  おい。暗闇に溶け込まんとする秀人に、竜雄が手を伸ばした。しかし志摩がその手を腕を掴み、声を低くして囁いた。 「お前らが知りたい事は俺が説明したる。それよりも、あの人の後ろ姿よう覚えとけ。多分もう二度と会う事はないやろう。そやけど忘れんなよ。あれが、あの男がウルの末裔や」 「…ウル?」  間を置いて反応したのは、銀一だった。  次いで竜雄も、何かを思い出したような目で、秀人の背中を見つめた。 「一番最初の、端団か?」  銀一が震えた声で呟き、志摩が頷いた。  成瀬秀人の正体に行き当たった時、彼の姿はすでに夜の赤江と同化し、誰の視界からも消え去っていた。そして志摩の言った通り、その後秀人の姿を見る機会は二度と訪れなかったという。
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