【48】有屡

1/1
前へ
/52ページ
次へ

【48】有屡

「銀!」  そう叫んだのは春雄だった。  気を抜いていた。  池脇竜雄が戻って来た事。  成瀬秀人が去り、かつて罵声を浴びせ合いながら小突きあった、いつかの志摩太一郎が帰って来た事。  その安堵感が束の間、銀一の緊張を解いた。  迫り来る、殺意の乗った二つの目が見えた。  反射的に上半身をのけぞらせた銀一の視界一杯に、暗闇が広がる。  前方から圧し掛かるようにしてぶつかってきた重さに耐えかね、銀一は真後ろへひっくり返った。  声が聞こえた。  何を叫んでいるかは分からず、銀一はただ自分が生きている事を確かめようとした。  だが、体が動かない。  …何や? 「竜雄ォッ!」  絶叫とも呼べるその声に、銀一は体を跳ね起こした。  自分の身体の上に、竜雄がうつ伏せに重なり合っていた。  竜雄の左腰に、突き立てられた二本のナイフが見えた。  竜雄は意識を失ったように動かず、その重さが銀一の行動を鈍らせた。  衝突の際、竜雄が反撃のようなものを食らわせたのだろうか。倒れ込む銀一たちの目と鼻の先で、首に手を当て、揉みほぐすように頭を回しながら体を起こした権七の目が、見失った銀一を探すように辺りを睨ねめつけた。その時。  走るよりは遅い。だが足を引き摺りながら慌てて近づいて来た春雄が、勢いよく権七の後頭部を蹴った。  銀一は驚き、慌てて竜雄の下から抜け出した。竜雄の腰には激しい流血が見られたが、当の本人は苦悶の表情を浮かべるでもなく、意識を完全に失っていた。そんな竜雄のすぐ隣では、鳩尾あたりに横一線の刃傷を受けた志摩が、顔を蒼白にして蹲っていた。  権七は尚も立ち上がって振り返り、春雄に向かって手を伸ばした。しかしその体はグラグラとよろめき、両手を差し伸ばした瞬間盛大に吐瀉を撒き散らした。  和明の頭突きを喰らい、春雄からは顔面に拳骨を喰らい、強かに足蹴を受け、今また後頭部を強烈な勢いで蹴り飛ばされたのだ。揺さぶられた脳が悲鳴を上げた結果が、その嘔吐なのであろう。とは言え、死なぬ方が不思議なのだ。  それでも尚もろ手を突き出して春雄に掴み掛かろうとする権七の首の裏を、銀一は殺す気で殴った。  権七の頭が危険な角度で後ろに折れた。  しかし権七は怒りの篭ったうめき声を上げただけで、両腕を振り回しながらその場を離れようとした。倒れる事すらしなかった。不死身か? 銀一はほとんど恐怖に近い感情に支配され、再度権七の頭を殴りつけた。しかし銀一の拳は空を切る。  権七は前のめりに体を倒しながらも足を止めず、そのまま黒塗りの自動車まで行ってボンネットに飛び乗った。その足元では、成瀬老刑事の死に精神的なダメージを受けて動けない三島が微動だにせず座っていた。その三島の肩に権七の足が引っ掛かり、つんのめって派手に転んだ。  追いすがろうとする銀一。  和明と春雄が態勢を立て直して腕を伸ばす。  権七が右足で、三島の後頭部を斜め横から蹴り抜いた。  三島の頭が消えたようになって、彼の身体が危険な角度で地面に倒れ込んだ。  慌ててそちらへと手を伸ばした和明と春雄の隙をついて、権七は車の天井まで駆け上がり、そのまま乗り越えた。 「逃がすな!」  銀一は叫んだ。  しかし和明は立ち上がれず、春雄が振り返った時には、権七の姿は見える場所からはいなくなっていた。 「天童ォッ!」  銀一が叫び、急いで車の向こうへ回るも既に権七の気配は消え去った後だった。  逃げられた…。  その事実に茫然とする銀一の背中に、春雄が呼びかける。 「アカン、竜雄やばいぞ!」 「志摩、おい、イケるか?」  和明がそう声を掛けながら志摩に歩みよる。  目を逸らせば今また、暗闇から狂ったような権七の目が飛び掛かって来るのではないか。銀一はなんとか恐怖を振り切って、竜雄達のもとへ戻った。  竜雄は意識を取り戻していた。志摩が竜雄の傷口に手を添え、守るように上半身を抱き起こしていた。だが志摩本人の顔色も悪く、切りつけられた傷も決して浅くはないようだった。  友穂…。と銀一が呟き、彼女を呼びに行こうとした。 「待て」  と、隣で立ち上がり駆けた銀一の腕を取ったのは、志摩だ。 「まだ、そこいらにおるかもしれん。ここに友穂がおる事を、教えるような真似したらいかん」 「せやけど、あいつ看護婦なんや」 「大丈夫や」  と竜雄が口を開く。 「この程度の傷でどうにかなるような、やわな鍛え方しとらん」  竜雄はそう言って、腰のナイフを握りしめた。 「抜いたらあかんぞ、血が吹き出るからな」  志摩が言い、 「銀ちゃん、救急車頼めるか」  と和明が願い出た。  和明も春雄も、到底走れるような状態ではない。近くに公衆電話があるわけでもない。川向こうの住宅地まで、走って電話を借りに行かねばならないのだ。成瀬老刑事はもちろん、頭を蹴られて昏倒している三島も危険な状態である。 「友ちゃんの事は、命に代えても守るから」  和明が言い、春雄が頷いた。 「分かった」  と銀一は立ち上がった。  一団はとりあえず、友穂の隠れている事務所跡へ移動して待機する事にした。集団で固まっていれば、友穂一人の気配を読まれる事もなければ、何かあった時にも守り易い。  この夜、一体何が、男達の明暗を分けたと言うのだろうか。  誰もが傷つき、誰もが疲弊し、身も心も衰弱して弱り切っていた。  銀一だけが、一団を離れて街へと向かうべく、足のつま先を皆とは別の方向へと向けていた。  先頭を和明が歩き、腰を庇うように手を当てて歩く竜雄、その竜雄に肩を貸す春雄が歩き、そして最後に、鳩尾の傷を手で押さえながら、志摩太一郎が歩いた。  そこに理由などなかった。ただ、そういう事実があっただけだ。  声を殺して銀一達を見つめていた友穂が、少しだけ顔を覗かせた。  和明が眉間に皺を寄せて、無言で首を振りながら手で『戻れ』という仕草をして見せる。  友穂は竜雄や志摩の容態を重く見て、唇を結んで前へ出た。何かしら、自分にも出来る事があるはずだ。そんな意志が彼女の顔には浮かんでいた。  その時、友穂は見た。  煌々と闇夜に浮かび上がる、車のヘッドライト。  和明が振り返り、前方に倒れ込んで来る竜雄と春雄の体を支えきれずに、三人まとめてひっくり返った。  竜雄と春雄の背中を押し飛ばし、通せんぼをするように両手を広げた、志摩太一郎の背中が見えた。 「太一郎さん!」  友穂の声に銀一が振り向いた瞬間、天童権七の乗って来た黒塗りの自動車が、かつて事務所であった建物の外壁に激突した。  車と外壁の間に志摩太一郎の身体が挟み込まれ、運転席から西荻幸助が飛び出して来るのが見えた。  幸助は顔面から外壁に突っ込み、車の右側へと雪崩れ落ちるようにして見えなくなった。意識的に逃げ延びたようには到底思えぬ、恐ろしく危険な速度だった。  銀一が慌てて駆け戻る。  立ち上がった竜雄、和明、春雄の三人は、自分達を庇って車と外壁に挟まれた志摩太一郎を見て言葉を失った。 恐らくは、生きている。その顔には微笑みすら、ある。しかし、志摩の下半身は車のボンネットの下に潜り込んでいた。  友穂の悲鳴すら、男達の耳には届かなかったかもしれない。  誰もが口を噤み、よろよろと志摩の側に歩み寄る事しか出来なかった。  銀一がボンネットに取り付いて、志摩の顔を覗き込んだ。  流れる志摩の血が、銀一の手にも伝っていく。 「志摩!」  志摩の目が銀一を捉え、ゆっくりと頷いた。 「えげつないなぁ…」  と、志摩が言った。 「しゃ、喋ら、ん、方がええ…」  自分の見ている物が信じられないという風に、和明が言葉を不自然に切りながら言った。  上半身と下半身が分断され、ボンネットに腹から上が乗っかかった状態で、志摩太一郎は生きて話したのだ。 「不思議やのう。痛いも苦しいも、なんもないわ」  志摩の言葉に銀一は青ざめた笑顔を見せ、 「おお、おお、そうか、今、救急車呼んで来よるから、もうちょっと辛抱せえ、な」  と声を掛けた。 「ええわ」  志摩は即答する。 「もうあかん。それぐらい分かる。もう、無理やわ」  銀一達の間に、一気に悲しみが広がる。 「待てよ、お前、それはないで」  銀一は言い、救急車を呼びにその場を離れようとした。 「行くな」  と志摩は言った。 「さっき、頼みがあるいうて、俺、言うたやろ」  志摩の声はとても小さく、銀一は涙を堪えながら何度も頷いた。 「覚えてるか、銀一。昔、五光神社で見た、あいぞめ祭…」 「…ああ」  子供の頃の話だ。  赤江に一つだけある神社で、二年に一度盛大に行われる祭があった。被差別部落であるという街の悪い印象を少しでも払拭出来るようにと、外部から興行社やテキヤ衆を招いて露店が並び、サーカスが掛けられる事もあった。 「お前と、最後の祭で会うた時、俺、お前に言うたんや。あの時…」 「最後、祭、なんや!?」  次第に話すのが苦痛になって来たと見えて、志摩の言葉が細切れになる。銀一は思いつくままに志摩の話の先を予想するが、何の事だか見当もつかなかった。 「忘れてしもたかなあ、あのォ、見世物小屋のォ…」 「…蛇女か?」  志摩がニッコリと笑った。  今は興行社が廃業した事もあって、五光神社の縁日に見世物小屋が興行される事はない。しかし銀一や志摩が十代前半の頃までは、まだ珍奇な見目や特技を売りにした生の舞台を見る事が出来た。その中で常に会場を満杯にし、立ち見の見物客で溢れかえらせたのは、珍しい動物でも小人達の踊りでもなかった。 「赤い着物着て、生きた蛇喰い千切って笑うとった女やろ? お前何度も見に行った言うて自慢しとったやんけ。あの女がなんや?」 「白や…」 「…え?」 「白い着物に、ウソもんの血を、滲ませてたんや」 「…おお」 「あいつ、名前」 「おお、あれやろ、『血達磨セツコ』やろ。覚えとるぞ。それがどないした」 「ホンマの名前は、雪子(ユキコ)や。あいつ、…俺の女なんじゃ」  銀一は思わず息を呑んだ。てっきり志摩は、昔懐かしい思い出話をしているだけだと、銀一はそう解釈していたのだ。その為この期に及んで、『仕事で生き物の血を見慣れた自分には全く興味のない見世物やった』と、にべもなく笑い飛ばす寸前であった。 「お前の、…女?」 「今は別のサーカス、小屋におって、俺、足抜けさしたる言うて、約束しよったんじゃ」 「…なにを」 「雪子を頼むわな」 「お、おい志摩!ふざけんなお前!頼むてなんや!」  銀一の目から、凝り固まっていた血が溶けて混じりあった、薄紅色の涙が溢れた。 「もう、金は用意してあるんや。お前の家の、お前の部屋の床下に、金入れた鞄、隠してある」 「…俺の、部屋?」 「友穂の写真も、そこに、隠してある」 「…お、お前やったんか!写真取ったんは!」  志摩は微かに震えながら笑った。しかし、既に志摩の目は何を見てもいなかった。銀一を見る事なく、空中のどこかあらぬ一点を彷徨うその瞳から、光が失われつつあった。 「たの、むわ。…銀一。…銀一」 「なんや!志摩!なんや!」 「俺、ほんまは…ああー」 「なんや!」 「…あかんわ」  志摩の身体がブルブルと震え始めた。  志摩の口から、大量の血が音もなく溢れる。  黙って銀一とのやり取りを見守っていた友穂や竜雄らの目から、涙が滝のように流れた。 「あかんとか言うな!お前が俺らに全部説明してくれんのと違うのか!そんなもんお前、俺、響子になんて言うたらええんじゃ!」  悲痛な銀一の叫びに、志摩は笑うのをやめ、唇を真一文字に結んだ。その志摩の目から、静かに涙が流れた。 「響子」  と、志摩が呟いた。 「キョウコ…」  志摩の声に、春雄は堪え切れずにその場で蹲った。  和明は立ったまま志摩に背を向け、事務所内の暗がりを睨んだ。  竜雄は目を逸らすまいと志摩を見据え、友穂は口鼻を手で覆いながらも志摩の最後を見届けようとした。  銀一は泣き、震える真っ赤な拳を握り締めた。 「すまんかった」  と、志摩は言った。 「許してくれ、響子!守ってやれんで、すまんかった!」  夜空に、志摩太一郎の最後の絶叫が立ち昇った。  何度も許しを乞うていた。  志摩響子がどれほどの苦しみを味わい、兄である志摩太一郎が何を思い、地獄のような現実を見つめて来たのか。それは今となっては誰にも分からない。しかし志摩太一郎という男の人生は、妹響子への懺悔の声と共に、その幕を閉じた。  それは公園と呼ぶには小さく、うす汚れ、見捨てられたような場所だった。  切れかかった街灯と、二つ並んだ木のベンチ。  空地を利用したその名ばかりの公園を、足を引き摺って歩く男の姿があった。  右手で後頭部を押さえ、左足を引き摺って歩いている。  どうやら足首を酷く捻挫したらしく、足の裏を地面に付けて歩行する事が困難な様子だった。  荒々しく呼吸する音の間隔も短く、息も絶え絶えという表現が似つかわしい。  しかし男には、悲壮感がない。  どこか、楽し気ですらあった。  勝った、と男は思っているのだ。  強烈に頭が痛い。  ここへ来るまでに何度も吐いた。  首も、腰も、足も、全てが痛む。  だが、それでいいのだ。  例え今は足を引き摺ろうとも、この命さえあれば何度でも再起できる。  必ずや次こそ、あいつらの息の根を止めてやる。  そう考えるだけで、自然と笑い声が漏れた。 「やっと、見つけた」  だから、その声を聞くまで、男はベンチに座る人影がある事に気が付けなかった。  男は驚いて立ち止まり、周囲を見渡す。  黒く小さな影が、ベンチに腰かけていた。  誰…。  思う間もなく、こめかみに冷たい金属をあてがわれた。  それが銃口である事は、見ずとも分かった。 「天童、権七さんやな」  声は銃口の側から聞こえて来た。ベンチに座る人影からではない。 「下がっとれ」  とその声は言い、呼応した人影がそそくさと立ち上がってその場を離れた。 「さて、とっとと終わらせようやないか」  銃を握る男の声は、明らかに老人のものだった。  だが権七に聞き覚えはない。 「誰だ」  率直に問うも、老人は答えない。 「なんのつもりだ」 「時間稼ぎなら無駄やぞ。警察の動きは攪乱して、こちら側には来んよう仕向けたからな」 「…ヤクザか?」 「まあ、そうやな」 「金ならあるぞ」  権七の言葉に老人は笑い、 「哀しいな」  と独り言ちるように呟いた。 「数えきれん程人の命を殺めて来たお前さんが、よもや己の命を惜しむかね」 「俺の名を知っているな。なら分かるはずだ。お前のやろうとしている事の愚かさを」 「もちろん。百も承知や」 「何が目的だ。…大謁教はッ…」 「やかましなぁ。お前さんが大謁教と裏神天正堂の当主やという事も知ってるし、なんなら、本物の天童七代目は今もちゃあんと東京におって、お前さんが哀れな影武者やと言う事まで知っとるがな」 「なら何故だ!俺を殺した所で教団は何も変わらないぞ!」 「宗教団体の行く末なんぞワシにはどうでもええ。神も仏もおらん事は、先の大戦で嫌と言うほど味わった。それに、お前さんが例え本物であれ偽物であれ、松田の三郎を殺した犯人である事に、違いはないのや」 「松田、三郎。…お前、四ツ谷組か?」 「子の仇は親が取るんじゃ」 「待て」 「長かったなあ。…あの時、翔吉さんの目にどこまで見えていたのやらワシには皆目見当がつかんけど、ようやくここへ来て約束を果たす事ができる。ようやく、翔二郎さんとあの娘の元へ行ける」 「貴さ」  木々の上で眠っていた烏達が一斉に飛びたった。  ベンチの背後に回って身を竦めていた小柄な人影は、老人の放った一発の銃声よりも、何十羽という烏の羽音に腰を抜かした。  静寂が訪れても、人影は震えて動けなかった。 「人が死ぬのを見たんは、初めてか? 山岩」  老人がそう静かに声をかけると、ベンチの背後で人影が立ち上がった。柔らかな月明かりに照らされたその顔は、つい先日東京の公民館へと銀一達を訪ねた四ツ谷組の若い構成員である。名を、山岩規三といった。 「…はい」  山岩は小さく答え、頭から血を流して動かない天童権七の亡骸を茫然と見下ろした。 「しばらくぶりに、若くして活きのええのんが出て来たと聞いてたが、そうか、まあ、これも経験や」  老人は言い、 「ええか」  と不意に語気を強めた。 「人を殺すという事は、自分を殺す事と同じや。倫理や正義の話やない。命は命でしかあがなえん。殺されても文句を言わん腹積もりがあってこそ、極道を行けるのや。三郎もきっと、地獄で文句は垂れとらんはずや。ワシがこの男を殺したんは、それがワシにおける極めの道筋やったと知っておればええ。今日、お前は人の死を二回見る。理解なんぞせんでもええが、…学べよ」  頭を垂れて老人の言葉に耳を傾けていた山岩は、はっとなって顔を上げた。 「おやっさん、それは」 「まだお前は若い。そやから、しばらくは一色を盛り立ててやってくれ。その後は、お前の時代を作ればええ。別に、四ツ谷の名前は消えてもかまわん。お前の道を極めたらええ。せや、山規組なんてどや?」 「おやっさん、あきません!」  老人は乾いた声でくつくつと笑い、愉快そうに肩を揺すった。 「適当な事言うてすまんな。正直、もうどうでもええんや。後のことなんぞ、ほんまはもうどうでもええ。会いたい人間は皆死んでもうた。お前かて、戻りたかったら堅気に戻ったらええ。せやけど、…はは」 「おやっさん!」  老人の右手が音もなく浮き上がったように見えた。その右手の先には拳銃が握られ、銃口は老人自らのこめかみに添えられている。 「あいつらには、また会いたいなあ。…いや、これもまた、ワシらしい人生か」 「おやっさん堪忍してください!俺はまだ何も」 「山岩」  老人は言い、押し黙る若者に向かって、ただ首を横に振った。  す、と老人の視線が山岩から逸れた。  山岩は老人の視線を追ったが、そこには何もなかった。  老人の目に温かい光が灯り、それを見た山岩の背筋に冷たい何かが駆け上った。  老人の口から、山岩には理解しえない、不思議な響きの言葉が飛び出した。 「チャオ!イル・ブリガーンテ!」  爆音が轟き、戦前戦後を駆け抜けた四ツ谷組の大侠客、沢北要は、その生き様に自らの手で終止符を打った。  西荻平左殺害事件に端を発した、赤江地区を中心とした一連の殺人事件は被疑者死亡という形で処理された。その他の関連捜査は暗礁に乗り上げ、多くの謎を残したまま結末を迎える事となった。  嘱託職員とは言え、殺された成瀬オウマは警察関係者の間では知らぬ者がいない程有名な老刑事であった。それはキャリア的な意味ではなく、『彼の現れる所黒盛会あり』と言わしめた、捜査の特異性にある。今回の事件において、現場周辺にて彼の姿が幾度となく目撃されていた事で、黒盛会および黒の巣、ならびに黒の団と称されるこの国の暗部・禁忌として位置付けされる組織の暗躍が捜査関係者と上層部の間で囁かれ、事件解決の進捗に悪影響をもたらしていた事は、その後の三島の述懐によって明らかになっている。成瀬オウマが一年間消息を絶ち、孤独な捜査を続けた理由は、この辺りに関係していたのだという。  例に挙げるなら、榮倉刑事である。  物的な証拠はない為あくまでも刑事と記すが、この榮倉刑事の存在をもってして『本当の警察官ではない』とする証言がある。常に彼の側で指導員のような立場を取っていた成瀬オウマは、実はその事を知っていたのではないか、という見方まである。  その榮倉刑事が無惨な殺され方でこの世を去り、仇討を誓っていた成瀬オウマも事件の中で命を落とした。  となれば、暗澹たる一連の渦中にいるのはやはり『黒の団』ではあるまいか、と危ぶまれるのは無理のない話であった。問題は、かつて榮倉刑事自身が神波春雄に話して聞かせたように、警察組織が黒の団というものを公に認める事は絶対にない、という点にある。  黒の団という存在が、この国の権力者や指導者達と深い繋がりを持っている事は、国家権力である警察機構内部におおよそ知れ渡っていたと見て間違いない。それが細部にわたり記された文書のような形であるのか、あるいは単なる口伝でしかないのか、具体的な実情を知る事は出来ないにしてもだ。  だがどのような形にしろ、その存在を一般市民に対して公言する事は、やがて自分達の首を絞める結果になるであろうことは容易に想像出来た筈で、例え「市民の敵」「警察の敵である」と断罪した所で、やがては表面化する綻びが、いつかは大きな傷となって警察組織や政界にまで甚大なる被害(それを被害と呼ぶかは別にして)をもたらす事は明白だった。  そう考えれば、答えは自ずと出る。  黒の団など、やはりその存在を認めるわけにはいかないのだ。  どの時代においても、警察だけでなく、日本の社会全体に「隠蔽体質」は見え隠れする。  今回の場合で言えば、死亡が確認された西荻幸助は、父である西荻平左殺害の被疑者として処理された。主に妻である西荻静子の証言により動機が明らかになった事と、逃亡に使用してた船舶の発見が犯行の計画性を裏付けた事がその根拠である。そして、平左の孫である西荻平助から相談を受けた事を理由に事件現場周辺で目撃されていた、伊澄銀一ら数名に対する殺人未遂、ならびに時和会構成員・志摩太一郎殺害の容疑についても、被疑者であると断定された。更に死亡した成瀬オウマの外傷にも、西荻幸助が使用したと見られるナイフ状の刃物と型が一致した事で、こちらに対しても罪状が上乗せされている。しかし、事件解決の日の目を見たのは、西荻幸助が関連する犯行のみであった。  同じ現場で負傷していた警察官、三島要次に危害を加えた犯人は果たして西荻幸助であったのか、否か。  成瀬オウマ死傷、志摩太一郎殺害の事件現場から二キロ程離れた人気のない公園で死んでいた、正体不明の男性は一体何者なのか。  説によれば、大謁教という宗教団体の代表に酷似しているという噂が捜査線上に流れたが、すぐに打ち消された。似ているとされた大謁教教主の存命が、その日の内に確認されたからである。だが実際は、根拠なく疑いの眼差しを向けるには相手が悪い、というのが捜査関係者の本音であったと思われる。  かねてより成瀬オウマは、この二年の間に起こった数々の殺人事件を、一連の連続殺人と捉えるべきであるという意見を上層部に進言していた。所が、バリマツこと松田三郎、赤江地区の交番勤務・今井正憲に加え、時和会の準構成員であった黛ケンジと花原ユウジ両名に対する殺害事件の犯人は特定されないまま、その後も一向に解決する気配を見せなかった。  死んだ西荻幸助という殺人犯を矢面にし、その他の未解決事件に対してはやんわりと捜査継続中を理由に名言を避け、詳細不明のまま事件その物の風化を待っている。  銀一達事件の当事者にしてみれば、警察関係者の対応からはそんな印象を受けた。  もちろん、事件後に受けた取り調べの中で、自分達が見聞きした話は全て、偽りなく担当職員に話して聞かせた。その時点では謎の多かった此度の事件に対する不明な点は、ほとんど解消されたかに見えた。  だが、警察は黒の団の存在自体を認めない。ましてや、裏神天正堂などというキチガイじみた妄言の流布など言語道断と、その名を口にするだけで警察の機嫌を損ねるという有様だった。  更には、成瀬秀人や天童権七を名乗った男の存在をも警察は認めなかった。神波春雄などは、警察署へ電話を掛けた際「成瀬秀人をテンケンと呼んだ受付がいた」という証言を繰り返したが、全く相手にされなかったという。  当該人物はすべからく謎の男と呼称され、銀一達の証言は「混乱状態、錯乱状態における事実誤認」として片付けられた。  その代わり、西荻家お抱えの用心棒であった難波という男が殺害された事件に関してだけは、銀一たちは皆知らぬ存ぜぬを通し、強引な事情聴取に対して誰一人口を割らなかった。    
/52ページ

最初のコメントを投稿しよう!

307人が本棚に入れています
本棚に追加