【49】風哀

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【49】風哀

 あの夜からふた月が経過した、昭和四十六年、十一月の終わり。  季節としてはまだ紅葉の美しい秋の筈が、早くも冬が到来したかのように寒い午後だった。  場所は、沢北要と天童権七の死体が発見された小さな公園である。  そこへどこから調達して来たものか、ボロボロのドラム缶を肩に担いだ神波春雄が、皆よりも遅れて姿を現した。志摩響子が春雄の姿を見つけて指さし、呆れたように微かな苦笑いを浮かべた。病み上がりの状態で、よくもまあ…。  その場にいた全員の視線が集まる。  伊澄銀一は春雄に向かって片手を上げ、まるで懐かしむように声を掛けた。  あの事件以来、全員が揃って顔を合わせるのは、この時が初めてだった。  池脇竜雄と善明和明が歩みより、春雄からドラム缶を受け取った。  竜雄は片足を引き摺っており、それを和明が気遣って、ほどんど自らの力だけで地面に立てて置いた。  傍らに古びた木製のベンチがある事を考慮し、銀一がゴロゴロと回して移動し、距離を取る。  藤代友穂、志摩響子、天童千代乃、能登円加の四人が、春雄を待つ間にかき集めた枯れ葉や木の枝をドラム缶に投げ入れた。  和明が、乗って来た軽トラの荷台から廃棄予定の木材を下ろし、春雄と共に投入していく。  次いで友穂は持参したゴミ袋の中に手を入れ、男物の衣服を取り出した。銀一達の着ていた服である。  血に塗れ、刃物による刺し傷で穴が空いた、事件当夜に各々が身に付けていた衣類だ。いくら貧乏暮しに慣れているとは言え、修繕して使い続けるにはあまりにも染みついた思い出は重く、処分する事に決めて友穂がこの日まで預かっていたのだ。  響子がスカートのポケットから一枚の紙を取り出して、広げる。  誰に見せるでもなく眼前に広げたその紙には、『翔竜成明鏖殺』とあった。  気が付いた友穂が響子の腕を取り、首を横に振った。焼き捨てるというのか。  書かれた文字は不吉でも、響子にとってその紙は、兄・太一郎の形見である。  友穂が目をやると、少しだけ険しい表情を浮かべた春雄が、角材でドラム缶の中をつついていた。枯れ葉や木々を、友穂の入れた衣服が燃えやすいようかき混ぜているかに見えて、その目はドラム缶など見ていないようにも思えた。  響子は薄く微笑んで友穂に頷き返すと、形見をそっとドラム缶に入れ、友穂を手伝い男達の衣類をドラム缶に投げ入れて行くのだった。  少し離れた場所からそれを見ていた銀一が、ジャンパーのポケットに手を入れて、白い封筒を取り出した。  不意に竜雄が一同を見渡して声を掛け、煙草に火をつけた。擦ったマッチの火で、途中拾っておいた紙屑を燃やし、火種をドラム缶に落とす。  やがてパチパチと小枝の燃える音が聞こえ、枯れ葉を餌にして火が大きくなっていく。  円加が和明の背後から忍び寄り、そっと彼の前に手を回した。驚いて和明が見やると、円加の手にはサツマイモが握られている。和明は声を上げて笑い、嬉しそうに振り返ると、円加の頭に手を置いて頷いた。  天童千代乃は一団から少し離れた場所で微笑み、眩しそうにそんな二人のやりとりを眺めた。  竜雄は彼女の心情と距離感を理解しており、この時も気が付いてはいた。しかし煙草を銜えて微笑むばかりで、声を掛ける事も側に寄る事もしなかった。  千代乃はこの後しばらくして、竜雄達の前から姿を消した。理由は誰にも告げぬままだったが、残された竜雄は恨みも嘆きもせず、銀一達も彼に理由を問いただしたりはしなかった。そして二年が経ち、千代乃は変わらぬ姿で竜雄のもとへと戻って来た。二人が入籍したのはそれからすぐの事で、おそらくは、千代乃が立ち去る前には既に二人の間で何かしらの約定が交わされていたのではないか、というのが和明の推察である。  ドラム缶から爆ぜて飛び出す炎と煙に目を細めつつ、銀一がドラム缶に歩み寄った。手に持っていた封筒を火に近づけると、引っ手繰られるようにして火が乗り移って来た。  封筒に空いた穴がじわじわと広がって行く様子を、銀一は静かに見つめている。そんな彼を、友穂は悲し気な目で見上げ、やがて揺らめく視線を炎へと移した…。  事件以降、その後何年経過しようとも、銀一達が成瀬秀人を名乗った人物と再会する事はなかった。  ただ、あの夜からひと月程経って、銀一の元に一通の手紙が届いたのだ。  封筒の表面には消印も、差出人の名前も住所もなかったが、背面左下に判で押したような『U』というアルファベットが記されていた。銀一はそれを汚れか何かと勘違いし、正体不明のその手紙を衝動的に破り捨てようとした。だが寸前で思いとどまり、夜一人になるのを待ってこっそりと開封した。  便箋にも名前の記述はなかったが、読み始めてすぐにそれが成瀬秀人の書いた物だと分かった。 『拝啓  親愛なる子、伊澄銀一殿。   限られた時間の中で語りつくせぬ来し方を書き残すがゆえに、 時候の挨拶などを省く事許されたし。  まずは話をするにあたって、始まりの家の末裔を、ここでは『A』としたい。  君も知っているその『A』には子がなかった、だからだと思う。  理由があったとはいえ、袂を分かつようになった『U』の血をくむ僕の事を、 『A』はとても可愛がってくれた。  もちろんその可愛がり方が、世間一般と同じかどうかは別にしても、そこに『A』の名を持つ男がおり、その傍らには君の父親という別格の男がいた。  君の父親の片腕が奪われた時、僕はいつか力になると誓いを立てた。  僕が今この手紙を書く気になったのは、遡ればそこにも理由を見出すことが出来る。    僕はもう何年も日本を離れて仕事をしていたから、赤江に何が起こっているのか、その事を把握するまでに無駄な時間を費やした。  太一郎とは、たまに様子を見に帰国したどこかの段階で出会った、とだけ答えよう。太一郎自身が仄めかしていたように、僕は自分が日本にいない間の代役として、赤江における問題の処理を太一郎と、もう一人の男に任せていた。  もう一人の男はすでにこの世にいない事もあり、あえてその名を明かす事はやめておく。  僕はもともと、君たちが用いる名称で言う所の端団の立場だから、本来であれば人を使う事をしない。  ただ、その時既に太一郎が志摩の家と距離を置いていた事と、彼が僕に助けを求めた事、その二つを理由に僕は彼に指導し、役目を与えた。  ただ、そのやり方が正解だったのかと言われれば、それは分からない。  志摩在平良の企てた謀反と、正憲の企てた下剋上。  そのどちらが当人の思惑として先だったのか、僕は知らない。  ただ、頭の良い太一郎はそのどちらに対しても、事が起きる以前から気がついていたようだった。  あるいは太一郎であれば、事前にそれらの所業を食い止める事は可能だったかもしれない。それをしなかったのは彼なりの理由があっての事で、それは誰にも責められはしない。  表向き、時和会の看板を背負っていた事もあり、藤堂らの顔を立てつつ動く事に限界もあっただろう。だがそれを理由に君たちを手足の如く利用する程の強かさは、彼にはなかった。  すでに自らの意志で申し開きの出来ない哀れな太一郎に代わり、僕が断言しよう。彼は本来、君たちをこの闘争に巻き込みたくはなかったし、その筈でもなかった。  ただ、この一連の流れを起こした相手方当人はとっくの以前より君たちに歯牙を向けており、太一郎がどう考えた所で、否応なしに君たちが巻き込まれたであろうことは、想像に難くない。  この僕自身を所謂使役している人間を、教える事は出来ない。  僕の本名を教える事も出来ない。  それは本来、太一郎との最後の約束を果たすためだけに認めた手紙であるがゆえに、太一郎の知り得た事実以上の事を、君に話す義務はないからだ。  それに、これは太一郎の希望でもあるんだよ。  僕は一度、彼に問うている。  何故、伊澄銀一たちと手を結ばないのか、と。  利用するしないの話ではなく、すべてを打ち明け、共に尽力する事が可能じゃないのかと。  僕は普段日本にいないとはいえ、君たちの存在は当然知っていたし、堅気にしてヤクザ以上の暴の者と、近隣界隈にその名を馳せている事も聞いていた。  当然だ。親が親だもの。君たちが今時の若者として平々凡々に育つ筈がないんだ。君たちだって知っての通り、そういう血筋の男なんだから。  だが未完成とは言え、太一郎の仕事振りも、あの世代では頭ひとつ抜けていた。そんな君たちが最初から手を組んでいれば、あるいは。だから当然のように僕は太一郎に尋ねたけれど、彼はこう、即答した。  『友達でおりたいんです。血生臭い手の繋ぎ方やのうて、普通にどこにでもおる、言うて、赤江には普通の奴なんかおりませんけど、自分が全く普通やない分、あいつらとは、なんていうか、阿保な友達関係でおりたいんです』  君は、一度でも考えた事があるかい。  生まれた時から自分の手が、肌色が見えなくなるまで血に赤く染まる事。  そしてそれを家族に強いられるばかりか、抗えない運命によって、自らの死に際までもが決定付けられている、そんな赤ん坊の存在を。  それは何も太一郎の事ばかりを言いたいわけじゃない。  僕があの晩君たちに伝えようとした通り、目には見えない部分にも人の命は存在し、時は流れ、血は流れて、背中を丸め、密かに息を殺して生きている、矮小な存在がある。  君たちだって、そういった世間とは隔絶した存在の有り様を、差別という名で体験して来たはずだ。  太一郎の語った「普通の友達関係」がなんなのか僕には分からないけれど、 確かにそこに存在した男の強い思いがあった事だけは、今ここで伝えておくよ。  太一郎の書いた書状のおかげで、君が父親からある程度の昔話を聞いたであろうことは察しが付く。  竜雄には僕自らの手で真実を突き付けたから、彼から聞いているのかもしれないね。だが西荻静子は松田や西荻の血縁ではあれど、当事者ではない。  君の父親は当事者ではあったが、すでに僕たちから離れて久しい。  死んだ太一郎の名誉のために、彼自身すら知り得なかった事をひとつだけ、 君に教えておこうと思う。これからする話は竜雄にも言っていないし、本当は誰にも明かしてはいけない真実だ。  この話を知って、もしかしたら君は平常ではいられなくなるかもしれないし、今後の人生に長く暗い影を落とす事になるかもしれない。それでも真実という名の暗闇を覗きたいと括目するなら、この先を読むと言い。  いずれ新聞やテレビなどで見聞きし、違和感を持つ事になるだろうから、あらかじめ伝えておこう。  大謁教の当主は、君たちが戦った、あの天童権七とは別人だ。  本物の、という表現が正しいかは分からないけれど、教団を支配し、表立った顔役として運営に携わっている実際の教祖は、別にいる。  というより、君たちが戦った男は、裏神天正堂というカルト団体の首領だ。 実際に確認したわけではないけれど、君たちと戦ったあの権七が東京の根城を離れ、幾度か赤江に出没するようになった時点で、太一郎もその事実に気が付いていたように思う。  西荻の家で面と向かって言葉を交わした時、人の持つ邪悪だけを煮しめたようなその存在感は、およそ宗教団体の教祖だとは到底思えなかった、と僕に伝えて来たからね。そしてここからが…』   銀一!  名を呼ばれ、はたと我に返る。  ドラム缶の中で燃え続ける炎に向けて小さな溜息を放ち、顔を上げた先には心配そうな目をした幼馴染達が立っていた。  男たちはいつの間にかドラム缶を囲むようにして立ち、少し離れた位置で、友穂ら女たちが身を寄せ合うようにして彼らを見守っている。 「どないした」  と竜雄。 「いや? 何が」  答える銀一に対し、竜雄はしかし上手く言葉が続かなかった。  炎を見つめ、上の空で周囲の呼びかけに反応しない。  それは本来ならば異変かもしれない。しかし似たような異変は、この日公園に集まった全員に起きていた。  竜雄自身、どうしたと尋ねはするものの、理由や原因などいくらでも想像がつく。だから、上手く銀一に尋ねる事が出来なかったのだ。 「なんかよ」  と、和明が呟くように言う。皆の視線を受け、照れた様子でこめかみを指で掻きながら、和明は続ける。 「最近思う。…爺、格好良かったなあって」  その言葉を受けて男たちは笑い、女たちは苦笑いで顔を合わせた。   一命を取り留めた三島要次が、亡くなった成瀬刑事の葬儀に銀一達を呼んでくれた。  獄中の藤堂義右に成瀬刑事の死と一連の事件の顛末を伝えに訪れた時、藤堂は銀一達を前に大声を上げて泣いた。その話を、何故だかとても三島に聞かせたくなって、まだ入院中だった三島を見舞った際、葬儀への参列に招待されたのだ。  一番軽傷だった銀一ですら、肩と足の甲に刃物による深い刺傷を受けており、春雄は全身打撲、和明は無数の刺傷・裂傷による出血多量と打撲、竜雄に至っては腰部の神経が傷つき、軽度とはいえ歩行に障害が残った。そんな状況を押しての葬儀への参列となったが、遺影の中からこちらを睨み付けて来る成瀬オウマの顔を見た瞬間、誰もが涙を堪え切れなかった。言葉にして出さなかったものの、誰もが、出席出来て良かったと、そんな風に感じたそうだ。 「聞いたけ、三島のこと」  しんみりとした顔で微笑む和明に対し、竜雄がそう尋ねた。 「何」 「名前」 「…あああ」  三島要次は、成瀬オウマと後妻の間に出来た子であった。  その三島よりも早くに出会った成瀬秀人を名乗る人物が、自らを「成瀬の子」と称した為に、成瀬刑事と三島が隠し通した真実には誰も気が付かなかった。正確に言えば、三島は成瀬オウマの子ではあるが、後妻の子とは呼べないのかもしれない。というのも、かつて残虐非道な手口で妻子を失った過去を持つ成瀬オウマは、後に知り会った女性とは最後まで入籍しなかったそうだ。それは三島曰く、先立たれた先妻と子に対する思いだけではなく、成瀬という名を名乗らせる事で再びあの悍ましい悲劇が繰り返されるのではないかという、いわば恐怖に近い不安を成瀬刑事が抱いていたからだった。(あるいはそこにまで、成瀬秀人を名乗った人物の思惑が及んでいたのだとすれば、決して自分を偽って登場した事が悪巧みだと断言出来ない点も、重要だと言えよう)  成人し、自らの力で警察官となった後も三島は成瀬刑事との関係を周囲に明かす事はなく、成瀬刑事も「自分の息子は東京にいる」、という曖昧で漠然とした情報を流す事で真実を隠し通そうとした。  更に言えば、三島要次の「三島」という苗字も偽名であると、成瀬刑事の葬儀に参列した際、銀一達四人に対してだけこっそりと明かされた。 「伊藤、いうらしいな。俺らと年の変わらん息子までおるらしいがな」  和明の言葉に黙って頷き返すも、銀一らは皆強烈な喪失感が胸の真ん中にぶら下がっているのを感じざるをえなかった。  真実とは一体なんなのか。  改めてそう自分に問いかける時、一連の事件に対しても、成瀬刑事に対しても、成瀬秀人に対しても、何一つ確かな事など知らなかったではないか、そう痛感してしまうのだ。それでも尚、死んでいった者、行方を眩ませた者たちを思う時、言いようのない寂しさが胸の真ん中に陣取っている事実を突きつけられる。  真実を知らない事が、その人間を知らない事だとは、言えないのかもしれない。たとえ偽りの姿だとしても、自分はこうなんだ、こう見て欲しいと装い願ったその者の笑顔を思い出す度、そこには真実以上の温もりを伴うシルエットが、はっきりと浮かび上がって来るのだから。 「風邪ひかんときや」  友穂の声が聞こえた。  振り返ると、女たちが微笑みながら、半ば背を向けるようにしてこちらを見ていた。 「帰るんけ」  と、銀一が不満そうに言うと、 「付き合いきれんわ」  友穂はお道化た調子でそう答えた。  銀一は一瞬面食らったように目を丸くし、そして竜雄らと顔を見合わせて笑った。  響子が友穂の腕に自分の腕を絡ませて引っ張り、二人の両脇に立つ千代乃と円加が、男たちに向かって軽く頭を下げた。竜雄らは小さく手を挙げてそれに応え、銀一だけが、 「お疲れさん、ありがとう」  と返事をした。  彼らに背を向けて歩き始めた途端、友穂の目に涙が溢れた。  失ったものがあまりにも多すぎて、残された人達や、何食わぬ顔で過ぎ行く日常が、ただひたすら愛おしく、ひたすらに悲しかったのだ。  そして友穂と同じ色の涙を流す響子が、自分の目尻を手で拭いながら言った。 「私、絶対丈夫な子を産むわ」  突拍子の無さは、響子の武器だ。そしてそんな彼女の言動が、とてつもなく優しく友穂たちの胸に広がった。 「私も」  と円加が答えた。 「うん。こんなん言うてええのかわからんけど、皆同じ年の子を産めたらええのにね」  響子のそんな提案に、友穂は涙を拭いながら、 「それは言うたらあかん。そんなものは重圧にしかならんし、子供が出来る出来んは、神様しだいよ」  と真面目に答えた。 「神様なんておらんやん」  響子が拗ねたように言うも、 「それでもや」  と友穂は答える。 「でも、もしそうなったら、嬉しいでしょ?」  食い下がる響子に円加と千代乃は声を殺して笑い、友穂は顔を上げて考える振りをして見せた。 「まー…、そうかもしれんねえ」 「私ね」  友穂が望み通りの答えをくれてやった筈なのに、響子は浮かない口調でそう切り出した。 「ずーっと、思いよったのよ。私、なんで友穂姉さんより後に生まれたんやろうって」 「…え?」  思わず立ち止まる友穂の腕を引いて、響子は前を向いたままずんずんと歩き続けた。 「春雄さんらみたいに同い年で生まれてくれば、もっともっと、仲良うなれたんと違うやろか。ううん、そうやない。私、悔しかったんよ。私、ずっと友穂姉さんに憧れて、頼りっ放しで甘えて来たから。私にとって友穂姉さんは、春雄さんを除いてこの世でただ一人、全てを委ねられる人やった。それは今も変わらん。せやけど、本当言えば私も、友穂姉さんにとってそういう存在になりたかったの。何でも喋れる、何でも愚痴を言える、何でも弱音を吐いて、甘えられる。友穂姉さんの、そういう存在に私はなりたかった。それがずっと辛かった。別に側におらいでもええの。だけどずっと心の中に、ああ、この人がおるから大丈夫やわって。私がずっとそうであったように、…私も。なんで私は、年下に生まれて来てしもたんやろなぁ。なんで私は、…なんで私はッ!」  友穂は叫び出しそうになる嗚咽をぐっと堪え、自分の腕を取って力強く前を行く響子を見つめた。 「だから、私は何がなんでも、子供らを同い年にしたいんやッ!」  響子自身、それこそ子供じみた発想である事は分かっていたが、偽りのない本心だったという。  自分と友穂の関係を顧み、そうでなければならないのだと、闇雲に信じ込んでいる幼い部分が当時の響子にあった事も否定は出来ない。しかしそれは楽しいからでも、面白いからでもない。仲良しこよしの証明などでは決してない。心から、相手にとって対等に支えある存在でありたいと願う、それは響子の純粋な優しさであった。  だからこそ、例え年齢という隔たりがあろうとも、響子や千代乃や円加が掛け替えのない友である事を、友穂はちゃんと分かっていた。彼女たちの優しさを、ただ有難いと感じるだけではない。心の支えとして頼る事の出来る強い人間である事を、誰よりも理解していたからだ。 「ありがとう」  友穂の言葉に、響子は声を上げて泣き出した。つられて千代乃と円加までもが泣き始めた。  その光景に友穂は笑ってしまい、結果、泣きじゃくる三人の背中を友穂が押して歩くはめになったそうだ。 「なんか…泣いてへん?」  和明が言い、春雄が吹き出して笑った。  泣きながら公園を出て行く女たちの背中を見送り、銀一たちは再びドラム缶の火に目を向けた。  心の水瓶の底に沈んだまま掬い出せていない、何かそんな大事な話があるようで、しかし不思議とそれを表現する言葉が出て来ない。全員がそんな歯痒い気持ちを抱えたまま、お互いの顔を見ないで済むように、ドラム缶の火を見つめた。  始まりから数えて二年間に渡って起きた事件は、一応の終わりを迎えた。  謎は相変わらず謎のまま残り、受けた傷は生々しい痕跡を残し、未だ癒える気配すら見せない。  それでも否応なしに日常へ戻る時が来た事を、各々が感じ取っていた。  これ以上、何が出来るわけでも、したいわけでもない。  むろん、わだかまりは心の中でしこりとなって、居心地の悪さが消える事はないだろう。  だが死んだ人間は帰ってこないし、過ぎ去った過去をほじくり返して誰かを責める事もしたくはないのだ。 「…煙草」  と誰かが言った。  ぽんぽんと全員が胸やズボンのポケットを叩き、竜雄と和明がくしゃくしゃになった煙草のパックを取り出した。全員でそれを銜えて、器用にドラム缶の炎で先端に火を点した。 「…酒」  と誰かが言い、悟ったように彼らは背筋を伸ばし、ある者は思案顔で空を見上げ、ある者は俯いてつま先を睨んだ。 「…肉」  と言った銀一の言葉に、笑い声。だが、 「俺だけ?」  銀一は小馬鹿にするような目で竜雄らを見渡し、 「続かんのー」  と嘆いた。  竜雄も、春雄も、和明も、やはり言葉が出て来なかった。  東京の、友穂の部屋の前の駐車場で、下らないバカ騒ぎに興じた時ならいくらでも沸いて出た言葉遊びが、何故か今はどう頑張っても出来なかった。  煙草を銜える唇が、指先が、瞳が震え、男たちはお互いを見る事すら出来なかった。  女たちの涙に触発されたわけではない。それよりずっと以前から、込み上げるもの、精神力で抑え込んでいたものが、今このタイミングで溢れてしまっただけなのだ。言葉で上手く吐き出す事の出来ないそれが、彼らにとっての本音であった。  人の持つ悪意と欲望で溢れかえる街に暮らし、喧騒や流血それ自体には無感動な程慣れてしまった。それでも尚、若い銀一たちが人の死に感情を失う事はなかったし、行きて帰らぬ悪友や子供の頃から知った顔のなれの果ては、飛ぶように過ぎ去る時間とともに過酷な変化を彼らに強いるのだ。  降りかかる不幸や苦労だけが成長の糧だとは思わない。だが、それらを呑み込み成長せざるを得ない。死んだ者や堕落した者たちを見つめ涙しながらも、それでも生きていく他ないのだから。  そこへ、ドラム缶を囲む男たちの丁度真ん中に、白い何かがひらひらと舞い降りて来た。  十一月とは言え、まだ日のある内から「風邪ひかんときや」と友穂が言った意味が分かった。 「雪かいや…」  和明の声に、銀一は空を見上げた。  ああ、いつの間に、こんな。  …せや、明日、志摩が大切にしとったいうあの女の様子を、もっぺん見に行ってみようか…。  雪子、いうてたなぁ。…泣いとったなぁ。  いきなり金渡すんもあれやから、結局まだ手渡せてないもんなぁ、ずっしり重たいボストンバッグ。  やっぱり足抜け言うもんは、金だけやのうて男が側におらんと通らん話なんやろうか。  いやいや、俺みたいなもんが顔出して、お前は赤江のエッタやないけーいうてバレてもうたら、それこそ上手くいく話も上手くいかんのと違うやろかなぁ。  あいつ、なんで俺みたいな阿保に、そない大事な事託すんかねえ。  他にええツレ、おらんかったんかぁー?  …しゃーないかぁ。  せや、明日、友穂も連れて行こうかな。  …いやいや、ややこしい、ややこしい。  あかんあかん、それは、あかんな。 「銀ちゃん?」 「おい、銀」 「おい!」  竜雄が、銀一の尻を蹴った。 「お前、何笑うとるんじゃ」                       風の街エレジー、了         
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