序文

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序文

   今は東京にある伊澄の家に足繁く通うようになって、今日で何度目になるだろうかとふと気になった。  コインパーキングに止めた車内で、使い古した手帳を開いて確認すると、今年平成二十九年七月の段階で三十回を超えている事に気がついて、そこから先は数えるのをやめた。  個人的な話で恐縮だが、私はこの年の四月に一年という歳月を掛けて臨んだあるバンドへのインタビュー企画をやり終えた後、十年間お世話になった出版社を退社した。今年一杯で日本を離れる事が決まっていた私は、予てよりどうしても書きたいと諦めきれずにいた物語の執筆の為、今年の春から取材で伊澄家を訪れるようになっていた。  そこから半年が過ぎ、十一月七日。今日の訪問が、最後のご挨拶となる。  手帳を鞄にしまい、目を閉じ深呼吸で気合を入れ直した時、助手席側の窓ガラスをノックされて危うく悲鳴を上げそうになった。  見れば伊澄友穂さんが、笑顔で車内を覗き込んでいた。  コインパーキングから伊澄家への道のりを並んで歩いた。今年六十七歳だという友穂さんは相変わらずお綺麗で、初めてお会いした時は冗談辞抜きで四十代だと思った。四十と言えば友穂さんの息子さんと同じ世代という事になり、お世辞としても破綻してしまう為口に出せないのがもどかしい程であった。  壮絶な日々を戦い抜いて、生きて来られた。彼女のこれまでの半生を思えば、今こうして若さと生命力に満ち溢れた笑顔で私の隣を歩いている事だけで、込み上げて来る涙を抑える術がない。  伊澄銀一さんと、友穂さんお二人の半生を、物語として書きたい。  私が初めて、この構想もへったくれもない手前勝手な願望を御夫婦の前で説明した時、特に友穂さんの旦那様である銀一さんは、全くピンと来ていないご様子だった。  前提として、彼ら自身はいわゆる芸能人でも、その他の有名人でもない。彼らの一人息子である翔太郎さんは、言わずと知れた世界的ビッグバンドのギタリストであるが、その事と私がお二人に魅かれた理由は直接的な関係がない。(とは言え、そもそも私がご夫妻と出会えたのは翔太郎さんの存在があってこそだ。彼が在籍するバンドへのインタビュー取材を試みた事が、全ての発端と言えるだけに、無関係とは言い切れないのだが)  銀一さんには、何故出版社でライターをしていた人間が自分達の人生に興味を持っているのか、当初全く理解していただけなかった。当然そこから順を追って説明せねばならず、冷や汗と格闘しながら苦労した記憶が蘇ってくる。  最も気がかりだったのは、銀一さん、友穂さんの出自がいわゆる被差別部落と呼ばれる土地である事に対し、とにかく話をお伺いする側に特別な配慮の必要性を感じていた事もあり、歩み寄れない距離が私達の間に横たわっているのではと危惧していた。彼らの気分を害する事も、ましてや傷つける事など絶対にあってはならないからだ。  しかしそれはこちらの先入観に近い一方的な意見でしかなく、彼らは何一つ気負ってなどいなかったし、私の知識不足や勘違いに対しても、注意を受けた事は一度もなかった。お二人は常に、微笑んでいた。  私は、伊澄銀一、友穂夫妻を通して、差別と偏見の実態を世間に向けて詳らかにしたいわけでは毛頭ない。興味や好奇心という言葉は、この場合マイナスのイメージしか想起させない事を分かった上で敢えて言うが、動機は単純だ。  伊澄銀一、友穂というお二人の人間に興味があった。彼らの事をもっともっと知りたかったのだ。十年間、他人の話を聞いて記事を書いてきた私は当然、興味を持って事に当たればいずれはそれを形にしたくなる。本にして出版したくなる。どうだ、こんな凄い人達がいるんだぞ、知らなかっただろ。そう言いたくなる。私はそういう人間なのだ。  動機としては最低の部類に入るだろう。しかし私はそこを胡麻化してまで、彼らから話を聞きたいとは思わなかった。必ず下卑た自分の本性が顔をもたげ、いつか彼らに不快な思いをさせるであろう事は分かり切っていたからだ。  そんな私の告白に、銀一さんは眉一つ動かさずに、こう仰った。 「ウソさえ書かないんなら、何書いたって構いません。俺らの人生なんて俺らにしか価値はないんだから。そんなもん、漫画でも、小説でも、歌でも、なんでもいいです。ウソさえ書かないんなら、ええ、それで構いませんよ。言うてまあ、…俺は読まんけどな」  発端は、現在銀一さんの右耳が聞こえないという事を、偶然彼の息子である翔太郎さんから聞いた事だ。生まれつきでも事故でもなく、どうして銀一さんが聴力を失ったのか、その壮絶極まりないエピソードを聞いていなければ、私はこの物語を書かなかったかもしれない。それ程までに強烈だったのだが、後日その話を御本人の口からお伺いする機会に恵まれた時、『右耳』の衝撃を遥かに上回る思い出話をいくつも聞く事が出来た。そして取材を続けながら、やはりお二人の半生を物語として書いてみたいと私が打ち明けた時、友穂さんはたった一つだけ条件を出した。それは次のような事だった。 「私らの過去の話を書くのは、別に構わないよ。好きに書いてくれたらいい。うちの人もそう言ってたし、私もそれでいい。だけど、今だよね。今、私らは心から幸せだと思って生きてるから、そこまでちゃんと書いて欲しい。うん、そこまできっちり書いてくれるんなら、あとはあんたに任せるよ。ちゃんとハッピーエンドにしてね」  そして何故この作品をルポではなく物語として上梓する事にしたのかは、銀一さんのお言葉に起因する。 「四十年以上前の話だから。改めて俺ら以外の人間探してあれこれ取材しようとしたって、ほとんど死んどるよ。だからもう、好き勝手に書いて、こいつ(友穂さん)を笑かしたってくれたら、それが一番ええんじゃない?」    私と友穂さんが伊澄家に到着すると、銀一さんが庭先で水やりをしていらっしゃる姿が目に入った。白のVネックTシャツの上に黒のシングルライダースジャケットという格好で、しゃんと伸びた背筋でホースを振り回す銀一さんもまた、友穂さんと同じくとてもじゃないが六十七歳には見えない。  今日の訪問が最後である事を告げると、相変わらず事の変化に動じないいつもの微笑みを浮かべて、銀一さんはこう言った。 「なんだよ、もっと面白い話用意してたのに」
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