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【1】友銀
九月も半ばを過ぎたこの日は、まだ夕方五時を回っても日が暮れ切っていなかった。
藤代友穂は仕事を終えて病院を出た時、素肌をなぞる風の温度に冷めたさを感じ、慌てて上着の前を閉じた。夏が既に終っていた事に、今更ながら気が付いた。
季節の移り変わりに味わう、寂しいという感情が、友穂は好きだった。
更には一日の終りにふと我に返り、周りを見渡し自分は一人だと再確認すると、安心すら覚えた。
友穂が看護婦として勤務する病院は町医者をグレードアップした中規模の総合病院で、取り立てて有名でも名医がいるわけでもない平凡さが、却って地域密着型の病院として有難がられている。地元の高齢者やスポーツで怪我をした学生達、風邪や流行病に罹患した幼子などがひっきりなしに集まってくるのだが、手に負えない重篤な患者は他所へ行ってしまう為、忙しい割には平和な病院、というのが友穂の認識である。
帰り支度を済ませて外に出て、さあ、今日も終わったぞと一息ついて見上げる夕焼け空のオレンジ色は、友穂にとっては不思議と寂しい色に思えた。
通りを走る車のライトや、チラホラと灯りのともりだした飲食店の光。
色づく街の光景と自分との間には、遠い隔たりを感じる。
今、私は何をしていたんだろう。どこにいるんだっけ。
そんな風に一瞬我を忘れ、自分の立ち位置を見失いながら傍観するオレンジ色と去来する泡沫のような寂しさが、心地良くて愛おしい。
職場の人間関係や、業務内容に関して悩みを抱えているわけではない。
しかし、それでも寂しさを感じていたいと願う自分を、友穂は孤独な人間だと思わなかった。
どちらかと言えば、ずっと孤独になりたかったのだ。
自分の知っている自分が嫌いだった。
自分の知らない自分になりたかった。
そして自分を、好きになりたかったのだ。
その日、普段よりも早くに業務を終えると、友穂は導かれるように街へ出た。
右へ、左へと視線を走らせて歩く。
翌日が休みだったわけでも、急ぎの用を頼まれたのでもない。
疲れはあったが、体を突き動かす衝動を押しとどめる程でもなかった。
しかしその衝動がどこから来るものなのか、その時友穂自身には理解しきれていなかったのだ。
後に藤代友穂の夫となる伊澄銀一とは、この時既に出会っている。
だが銀一とは同じ年で幼馴染のような関係だったにも関わらず、子供の頃から仲が良いわけではなかった。
友穂は窮屈で居心地の悪い故郷を出たくて自立を志し、看護婦になるという目標を叶えると同時に家を出た。銀一はそんな彼女に何を言うでもなく、街に古くからある小さな神社で買ったお守りを持たせてくれた。
それまでも彼女の中で銀一の存在が膨らむ事はあったが、自分の気持ちをはっきりと意識したのはこの時が最初だった。しかしそれは同時に、別々の道を生きると決めた別れの日でもあった。
生まれ育った街に愛情がないと言えばウソになる。親も、長年共に生きた飼い犬もいるし、思い出もたくさんある。仲の良い女友達もいる。苦く辛い経験をたくさん乗り越えた。それらを一斉に振り返って、大嫌いだと罵れる程友穂は強くなかったし、薄情者でもなかった。
しかし過去というしがらみを捨て、自らの力だけでこの先の人生を切り開いていける喜びは何物にも代えがたいと感じていたし、そう思わせる程度には、生まれ育った故郷は友穂に苦汁を舐めさせ、そして深く傷つけた。
(それは、彼も同じだった筈だろうに)
この街へ来て二年、看護婦として働き出してから初めて思い出す感情だった。
何故なら今日、急患として運び込まれたのは幼馴染の彼、伊澄銀一だった。
救急車のストレッチャーに乗せられた意識のない銀一と再会した時、懐かしさと衝撃で言葉を失った。代わりに、記憶が閃光のように蘇って来るのを感じた。銀一の傷ついた様を見て、この状況がどういった経緯によるものかを考えるよりも前に、心臓を鷲掴みにされたのだ。それは、恐怖という名の感情に違いなかった。
交通事故の急患として運び込まれた銀一は、診察の最中突然意識を取り戻し、医師や看護婦の静止を振り切って処置室を飛び出したという。別の患者についていた友穂が同僚に呼ばれて院内を探しに向かう途中、「外、外」という入院患者の指さす方向を見ると、走り去る彼の背中が一瞬だけ見えた。頭から血を流す彼を見ていた同僚は悲鳴に近い声を上げたが、隣で友穂は少しだけ笑ってしまった。
(変わんないなー)
そう思ったのだ。
友穂が思い出せる銀一の一番古い思い出も、彼の背中だった。いつも走っていた。まだ、小学校低学年の頃だったと思う。
幼い頃から体の小さかった友穂は、よく同級生からいじめを受けた。陰惨ないじめというよりは、体のサイズをあからさまに揶揄する歌や、力任せに体を掴んで振り回されるなどの暴力がほとんどで、生来より気の強かった友穂はいつも果敢に立ち向かおうとした。親から受けた教育もそうであったし、性格上、黙ってされるがままで居られる人間ではなかったが、年端も行かぬ年代で、体のサイズがミニマムなのがそのまま弱点だった。しかし自分の思うように反撃を食らわすことが出来ない時などは、呼んでもいないのに銀一と、同じく幼馴染である竜雄、春雄、和明の四人が猛スピードで走って来て、自分をいじめる人間をボコボコに蹴り倒して駆け抜けていくのだった。そして 友穂は決まって、ありがとうを言う間も与えず走り去る彼らの背中を、茫然と見送るしかなかった。
それは銀一達が中学に入ってからも変わらなかった。確かに家は近所だった。あまり覚えていないが、小学校に入るまではよく一緒に遊んでいたらしい。しかし物心ついた時には銀一達四人と友穂が一緒になって遊ぶ事はなかったし、小学校に上がってから仲良く話をした記憶もない。もちろん顔見知りだとか幼馴染だとかいう関係は理解しているから、挨拶ぐらいは当然交わすし、お互いを避けるような険悪さがあったわけではない。だが己に向かって、彼らは友達か?と問えば、首を横に振る他なかった。幼馴染と友達の違いはよく分からないが、他にもっと気心の知れた人間がいた事には違いないからだ。
そんな不思議な距離感だったにも関わらず、いつも自分のピンチには銀一達が助けてくれていた。そういう絆と呼べるような温かい思い出は、友穂の記憶にはっきりと残っている。そして長年友穂を苦しめる痛みの記憶もまた、銀一達の思い出と同じ場所に刻まれている。
まだスマホはおろか携帯電話も、ポケベルすらもない時代の事だ。
血塗れのまま病院を飛び出した、危なっかしく目立つ男とは言え、街に溶けてしまえば簡単に探せるわけはない。
友穂は日の沈み始めた街をあてどなく彷徨いながら、それでも注意深く視線を走らせた。
もし今日見たあの男が間違なく伊澄銀一ならば、まだこの街にいる気がした。
確信はないが、今日の再会がただの偶然だとは思えなかったのだ。
ふと意識が誘い込まれた先で、救急車が一台音を立てて通りの反対側を走って行く。
(もしかして、あの車に乗っているのが、彼なんじゃないだろうか)
しかし病院を出る時、もしまたあの男が運ばれて来たら、知り合いかもしれないので必ず引き留めて欲しいと同僚に伝えて来たものの、仮に今目の前を通り過ぎる救急車に銀一が乗っていたとしても、今それを確かめる術はなかった。頃合いを見て病院に電話を掛けてみるしかない。
(見つかるわけないよ。もう帰ろうか)
そう思った時、友穂はいきなり右手首を掴まれて路地裏に引きずり込まれた。叫び声を上げる暇すらない程の勢いだった。だが次の瞬間には友穂の体はもといた歩道に押し戻されていた。突き飛ばされたと言っていい。
自分の体に何が起こったのか理解出来ずに振り返ると、狭い路地裏の向こうに走り去る二人の人影が見えた。一人は間違いなく銀一の背中だと分かった。
「待って!」
思わず叫んでしまい、行き交う通行人が振り返った。友穂はすぐ向こうに反対側の歩道が見えている路地裏に足を踏み入れ、混乱したまま、立ち止まった背中にもう一度声を掛けた。
「人違いじゃないよね? なんで逃げるの?」
「…」
背中は困ったように溜息をつくと、後頭部をぼりぼりと掻いた。そしてその手に付いた、恐らく血を見つめて、また溜息をついた。
「何で黙ってるの? 銀一でしょ?」
言いながら友穂は背中に向かって歩みより、手を伸ばした。
「もうちょっと待って」
背中はそう言うと、振り返らずに走り去った。その声は、二年前別れ際にも聞けなかった、懐かしい銀一の声に間違いなかった。
「ぎ!」
名前を呼ぼうとした時には、銀一の背中は既に見えなくなっていた。
その夜、念のために病院へに電話を掛けて確認した所、やはりあれ以降誰も運び込まれてはいなかった。
そのまま久し振りに実家へ連絡を取ってみると、元気そうな母から父の愚痴と惚気を聞かされた。覚悟はしていたが、やはり少しだけ煩わしかった。
「変わった事ない?」
友穂自身、なんて大雑把な質問だと思ったが他に言い方が分からなかった。
「なーんも。相変わらずよ、こっちは」
明るい声で、母・朋は答える。
「そっか」
「どうしたの、元気ないね。振られた?」
「誰に?」
「そりゃこっちが聞きたいよ。良い人くらいいるんでしょ?」
「母さん」
自分の口から出た「母さん」という言葉に呆れた感情が含まれている事に、友穂自身が首を傾げる気持ちになった。母にしてみれば、妙齢の娘に対して当たり前の話しかしていないだろう。何故自分は、恋愛の話をされて呆れてしまったのだろうか。いつから自分は、恋愛を縁遠い物だと感じていたのだろうか。
「いないの?」
「…うん、いない」
「なあんでえ?」
心底驚いている母の声に、思わず笑い声が出た。
「なんでだろうね」
「あんた昔っからモテたやない」
「…誰にー?」
「誰にってそりゃ…」
「…」
「知らないけどさあ」
久し振りに、大声を上げて笑った気がする。
確かに、友穂は幼少の頃からモテた。体が小さい為からかわれる事も多かったが、同じ分だけ人から愛された。色が白く、整った容姿に明るい性格、分け隔てない気立ての良さに、何よりコロコロとよく笑う優しい声。そしてよく告白もされた。だがそんな思い出も、遠い昔のような気がする。全てが都合の良い妄想だったんじゃないかと、自分では思っていた。
友穂は開け放った部屋の窓から夜空を見上げて、少しだけ母という存在の有難味を素直に受け入れようと思った。
「適当な事ばっかり、言ってさ」
「父さん、あんたの話ばっかりしてるよ」
「ふふ、それで母さん、ヤキモチ焼いてんでしょ」
「なんであんたなんかにヤキモチ焼くかね。それよりあの子よ、イッチャンとこの子、良い人がいるって正式にご両親に紹介したらしいよ。それ聞いてからあんた、父さん煩くってもう。友穂はどうなっとんだってそればっかり」
「イッチャンとこの子? それ誰の事?」
「ほら。昔近所に住んどった池脇さんトコの竜雄君よ」
「…ああ、竜雄。うん、え、正式に紹介って何、結婚したの?」
「籍はまだ入れてないんやけどね、どうもそういう気持ちはあるらしいよ」
「へー!そりゃびっくりだ。ああ、びっくりだ。あの竜雄がねえ。荒くれ者のあいつがねえ」
「人の事言ってられる立場じゃないでしょうが」
「へえ、へえ」
「でも気になったからちょっと聞いてみたんやけどね。銀の字は、今だ誰とも、らしいわよ?」
「…銀の字…」
「え、分からん? 伊澄さんとこの銀一君だけど」
「分かってる分かってる。分かってるよそんなの。え、何をどういう風に聞いたって?恥ずかしい真似してないでしょうね」
「ううん。そういうんやないけど…」
「…なんで急に、そこでしおらしくなるのよ。…母さん?」
「最近、あんまり顔見んねって、銀一君とこのお母さん、リキちゃんと話してさ。その流れで竜雄くんの話にもなったんやけどさ。でも聞いたら本当に銀一君、家に戻っとらんのだって」
「え?」
「銀一君もさ、もう子供じゃあないから、別に、家に帰らない事自体は構わないけどさ。仕事を何日も休んどるんだって。職場の人らも大分気にしてるって。ほら、無口でちょっとおっかない所もあるけど、礼儀正しい真面目な子やろ。無断で何日も仕事休むなんて考えられないって、あちらさんの方から心配してリキちゃんところへ行方を聞きに来る始末でさ」
「結構、おおごと?」
「捜索願、出した方がいいんかなぁって」
「ええ!? 大丈夫なんじゃないの? 銀一だよ。あれはそんな簡単にどうにもなんないって」
「そうだと思うけどねえ。何か厄介ごとに巻き込まれてなけりゃいいけどね」
「厄介ごとって?」
「もともと品の良い土地じゃあないでしょ。それに加えてなんだかさ、最近あんまし見かけない連中が近所うろついてたりするんよ。父さんも良く思っとらんみたい」
「どういう連中なの?」
「分からん」
「…ふーん。父さんも気が短いから、あんまり嗅ぎ回ったりしないでって、注意しておいてね」
「この街に長い事住んどるからね、そこらへんは心得てるよ」
「なら良いけど」
「それより、もし彼の方からあんたんとこに連絡あったら、ちゃんと教えるんよ?」
「私の連絡先なんか、知ってるわけないじゃない」
「病院の名前くらいは知っとるでしょう?」
「いや、言ってないけど。それこそ竜雄は? 和明とか、春雄は?」
「うん。…あんまり心配かけるとアレだからって、黙ってたんやけどね。実は今、誰とも連絡取れてないみたいなんよ。あの四人、誰とも」
「どのくらい?」
「少なくとも、ひと月は経つねえ。あの子らがいなくなった途端、見かけない連中がうろうろし始めたって、父さんそれを気にしとるみたい」
「見かけない連中ねえ。…え、でも待ってよ。今お母さん竜雄が結婚するかしないかみたいな話してたじゃない。それなのに今、竜雄もそっちにいないの?」
「あなたねえ、一体ご自分がいつぶりに連絡を寄越したのか、ちゃんと分かっていらっしゃるの? 前回電話掛けてきたのなんかあなた、正月以来よ? 半年以上前なのよ?」
「ごめん、ごめん。悪いとは思ってるよ」
「久っさしぶりに声聞いてみりゃあ、どえらい東京かぶれした喋る方しよるもん、母さん自分がどこの人間やったーいうて、分からんようなってまったもんでねえ」
「あはは! 器用にまあ、どこの方言よそれ?」
「竜雄くんが良い人連れて来たのなんて、それこそ夏が来る前の話よ」
「そうなんだ、それはまたどうも、どうも。え、でもそんなの、皆仕事してるんだから、家を空けるなんて事は普通にあるんじゃない? 銀一以外皆、家を空けがちな仕事してたでしょ。春雄なんてそれこそ、今はそっちに住んでもいないじゃない」
「そりゃそうだけどさ。でも、連絡が取れないなんて事は、今までなかったんやって」
「その、誰だか知らないけど、竜雄の良い人っていう方とも、連絡が付かないわけ?」
「うん。チヨノさんって言うんやけどね。竜雄くんとこの親御さんとチヨノさんは連絡取り合ってるみたいやけど、竜雄くん本人は捕まらないって、リキちゃん言ってたよ」
「へえ、そうなんだ、なんだろうね。分かった。私も、当たれるトコ当たってみるよ」
「そうしてくれる?」
友穂がこの時母に対し、故郷から遠く離れたこの街で、二年振りに銀一の後ろ姿を見かけた話をしなかったのは、彼女なりの思いやりと言えた。銀一の背中を路地裏で見かけた話をするだけなら、どこかのタイミングで言えたかもしれない。たまたま自分の働く病院に、交通事故の急患として運ばれて来た事だけ見れば、笑い話にさえ出来たかもしれない。
しかし、変った事など何もないと笑って話していた母の声がだんだんと深刻になり、切っても切れない絆で結ばれた、銀一の幼馴染三人の姿まであの街から消えたと聞いた時、言いようのない不安が胸の内にに広がったのを感じたのだ。
そんな事態になっていながらも母の方から電話をかけて来なかったのは、忙しく立ち働いている娘への遠慮にも思えたが、元来能天気な彼女の事だから、まだそこまで大事だと捉えていない可能性もあった。そうなると、友穂自身霞がかって見える今日の出来事を、安易に母に話して聞かせる事は出来なかった。
母との電話を切った後、友穂は少しだけ考え溜息を付くと、再び受話器を持ち上げた。
昭和四十六年。
後に伊澄友穂となる彼女の人生が大きく揺らぎ始めたのは、彼女が二十二歳になったばかりの、その年の事であった。
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