【3】割瓶

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【3】割瓶

 結局銀一の風呂は後回しになり、三人は夜の繁華街へと出た。  土地柄、仕事柄、よその街へ出ると差別や偏見から揉め事起こす事も巻き込まれる事も多かった。それは彼ら自身はっきりと自覚していたが、それでも仕事終わりに美味い酒を飲むという欲望には抗えない。酒はもちろん地元でも飲むには飲めたが、決して美味くはなかった。  顔馴染みの居酒屋があり、彼ら三人が会う日は大抵、あるいはもう一人の幼馴染とで四人が顔を揃える日には必ず、その店を利用していた。  赤提灯、『雷留』という名前の店だった。  意気揚々と店の暖簾をくぐったまでは良かったが、この日は運悪く、普段からあまり絡みがなく相性の悪い土建屋の若い衆達と勝ち合ってしまい、注文を通す前から小競り合いになった。地元では見ない顔ぶれながら、銀一が「と場」で働いている事を知っているらしく、顔を見た瞬間から鼻を摘まんで臭い臭いの大合唱が始まった。  今年二十一歳の銀一は、今の仕事について既に八年になる。小学校を卒業すると中学にはろくに行かずと場に出入りし、遊び感覚で見習いをしながら仕事を覚え、こつこつと腕を磨いて来た。年齢で言えばまだ職人としては若い部類に入るが、『仕事人間として』は真面目な彼は現場長からも一目置かれ、同僚からの信頼も厚い。その事を銀一自身誇りに思っている。自然、彼は人々から忌避されるような職業であった屠畜についてを隠そうとはしなくなり、その代わり他人にはほとんど興味を示さない男に成長した。  こういう場に出くわしてもそうだ。居合わせた無関係な人間が迷惑そうな顔をしているのを見ても、申し訳ないと感じる常識的な良心は僅かにしか顔をもたげない。しかし同様に自分や自分の仕事を揶揄されるからと言って、別段傷つく事もなかった(それが友人や家族の事となれば話は別だが)。  それが差別からくる物だという明確な自覚が、当時の銀一にはあまりなかったのだ。特に銀一の場合、と場という職業を鑑みるに、血と内臓の匂いが猛烈な熱気と共に立ち込める環境を思えば、人々が自分から顔を背けたがる理由がそこにあると考えるのは極自然な事だったし、実際それは的外れとは言えない。だがそれ以上に、義務教育をまともに受けようとせぬまま狭い世界で生きた事と、銀一自身が己の人間的な欠陥を強く自覚していた事の方が、彼の人格を形成するにあたっては重要な要因だった。自分の周りに幼馴染以外の人間がいないのは、自分が馬鹿な欠陥人間だからだと銀一は思っていたし、そういった意味では出自からくる差別や偏見での苦労を味わわないまま、大人になったのだ。  もちろん己の出自を隠したがる周りの連中もいるし、気持ちは理解できる。そうする事でしか嫁の貰い手がない近所の姉ちゃん連中をよく見知っているから、逆に色々と言われる立場にいる事は当然他所の土地の人間よりも痛感している。しかし朝起きてから夜眠るまでの大半を赤江で過ごす銀一にとっては、他人の野次など「うるせえなあ」程度にしか、既に思えなくなっていた。  直接手を出してくるわけではないが、大声を張り上げてからかって来る若い衆が四名、銀一達の注文を邪魔してくる。  親の世代から顔馴染みである店長の留吉は、揉め事の匂いを感じて煩わし気に顔をしかめかながら銀一達の側まで来るのだが、土建屋の若い衆達が大声で上書きしてくる為に銀一達の注文が聞き取れない。  一旦座敷に腰を下ろした和明が立ち上がった。竜雄が手を引いて止める。 「とりあず飲ませろ。な、一杯飲んで、それからでええじゃろ」  竜雄が言うと、それもそうだと頷いて和明が腰を下ろした。  何とか堪えてビールだけを頼み留吉を下がらせると、さっきからアヤを付けて来る若い衆の内一人が、黄色い液体の入ったコップを持って銀一達の席まで寄って来た。 「すんませんなあ、これでも飲んで許したってよー」  そう笑顔で言うと、コップを置いて仲間の元へ戻っていった。どっと笑いが起きる。おそらくはよくある手口の、小便だ。  おしぼりで手を拭いている銀一の顔に変化はない。竜雄の表情を見れば、既に我慢の限界を超えている。和明は厨房を見つめて膝をガタガタと揺すっている。 「留ちゃん、早よ持って来い。早よ持って来い」  そう言う和明の意識はもはやビールでなく、兄ちゃん連中に飛び掛かる合図の到着を待っているに過ぎなかった。留吉もそれが分かっているらしく、たかがビール瓶三本の注文をなかなか持ってこようとしない。銀一はなんとなくその空気を感じ取って、一人でほくそ笑む。  そこへ追撃のような若い衆達の声が飛んだ。 「おーおーおー!流石!ヨッツともなるとなかなか酒も届かんなー!」 「ヨッツと言うか、三人やけ、ミッツやね!」  それらの言葉に血相を変えて留吉が飛び出してくる。 「ええ加減な事言うなボケ!そんなつもりあるかい!」  しかし留吉の震え切った声よりも、 「なんじゃいグラァ!」  と叫んだ和明の声がはるかに上回って狂暴だった。竜雄は黙って立ち上がるや否やふた組の団体客を踏み越えて兄ちゃん達に殴りかかった。踏まれた客達も口々に文句を言うのだが、まだ側で仁王立ちしている和明の顔面を一目見るなり押し黙った。ああ、こいつは完全に狂ってる。関わってはいけない、と誰もが目を逸らした。他二人よりも線が細いとは言え、形相だけ見れば一番の気性の荒さに思えたのだ。先程銀一達に見せた爽やかな笑顔など微塵にも感じさせない、まさに鬼のような顔だった。 「やめてくれ!頼む!外でやってくれ!」  オロオロと留吉はそう言うが、竜雄も和明も聞こえてはいるが止める気など毛頭ない。敵の真っ只中に飛び込んで行った竜雄を追うように和明も乱入し、テーブルにあった箸で手近な兄ちゃんの太腿を刺した。ぎゃあと悲鳴が上がり周囲の意識がそちらへ向くと、好機とばかりに竜雄が灰皿でもう一人の頭をぶん殴る。量販店に並んでいる軽いトタン灰皿ではない。団体客用の重たいガラス製品である。殴られた若い衆は鮮血と泡を吹いてぶっ倒れ、居合わせた客達は放射線状に逃げた。 「お前ら頭おかしいんか!? ちょっと揶揄っただけじゃろが!」  完全に腰の引けた状態で、残った二人の内の一人がなんとか気勢を上げるものの、こうなってしまった竜雄も和明も全く耳を貸さない。  血気盛んな若者の多いこの界隈において、ヤクザ者の喧嘩ですら見飽きているこの店の常連達ですら、常軌を逸した二人の暴れっぷりに、次第に野次すら飛ばさなくなっていった。 ああ、これは何人か死ぬな。抗争でもないのに人が死ぬな。誰もがそう思い、固唾を飲んで目を逸らした。  コラアだとかオリャアだのと叫んでいたのは最初だけで、四人いた若い衆達は強烈な先手を打たれて押し返す勢いを失ってしまった。最早この喧嘩は一方的だった。  留吉が銀一の側に駆け寄り、「はよ止めんかい!」と詰め寄る。「頼むからやめさせろ、外へ行け!」  だが銀一はあぐらをかいて座ったまま、「ビールは?」と言い放った。留吉は慌てて厨房へ引っ込み、ビール瓶の栓を抜きながら駆け戻って来た。「はよ飲め!はよ止め!」  銀一はそれを受け取って立ち上がると、音を立てて隙間を開けたふた組の客達の間を悠々と歩いた。途中立ち止まってビールを一気飲みする。一瞬で瓶は空になり、銀一は無言でひっくり返し飲み口を握り直した。  それを見た留吉が顔を覆って、しまった、と嘆いた。  馬乗りになって若い衆をメッタ打ちにする和明。隣で別の若い衆の後頭部を掴んで机に叩きつける竜雄。泡を吹いてひっくり返る三人目。残された四人目は青ざめた顔で銀一を見上げた。小便の入ったコップを持って来た男だった。 「ご返杯だ」  そう言って、銀一はビール瓶を振り上げた。  同和対策審議会の答申(同対審答申)が提出されたのは四年前、昭和四十年であり、同和対策事業特別措置法(同対法)が制定されたのは正しく昭和四十四年、この年の事であった。全国的に部落解放や同和対策が叫ばれ始めた時代であったが、若い世代への影響はいまだないに等しく、いわゆるエタやヨッツ(四本指)といった差別的な表現や部落に対する忌避などは、まだタブーにすら思われていないのがこの街の現状と言えた。  同和地区内での諸環境に対する改善を進める国策として始まった事業ではあったが、本来優先されるべき差別の撤廃という大前提よりも、金銭的な特別措置や生活環境の改善・向上に力を入れて行われた結果、周辺地域との軋轢や不平不満を煽るなどの課題も多く、利権に絡んだエセ同和問題などと合わせて次第に疑問視されていくようになる。  歴史上、赤江という土地が古来よりの被差別部落であるという正式な証拠は存在しない。  しかし時代がそういう側面を押し付けたと言っても、過言ではない。  好景気と共に需要の高まった牛肉食を支えたのは銀一達「と場」の人間が行う屠畜、精肉業であったし、読み書きの儘ならない人間が半数を占めるこの街においては、一般的な公務員などよりはるかに収入の良いこの職業に就く事は、もはや必然と言えた。昔から屠畜、屠殺、皮革業などは部落産業と呼ばれて蔑まれる対象とされて来た。柄の悪い土地としても有名で、よそで仕事にありつず食い扶持のない人間や、生まれ故郷からワケありで逃げて来た人間が最後に流れ着く、ごった煮のような街だった。その事もあって、近隣地域からは特に赤江の食肉業従事者は毛嫌いされる傾向が強かった。しかしそこには固定観念や親から教え込まれた差別意識も当然あったが、実際この地にはヤクザ者や銀一達のような粗暴な人間も多かった為、反面、身から出た錆と言える部分も理由としては大いにあった。  幼馴染の竜雄と和明が別々の職に就いたのは、単にそれぞれの好奇心が別の方向を向いたからであり、同じ生き方をするよりも色んな世界を見れた方が話のネタが増えるだろう、その程度の考えしかなかった。特に夢があったわけでもなく、食うに困らぬ生活が出来るのであればその方法には頓着しなかった。もちろん同じ街で生まれ育った彼らの間に差別意識などある筈がないし、銀一だけが人々から嫌悪される状況は、竜雄達にしてみれば到底我慢出来る訳がなかったのだ。  銀一達は皆、子供の頃から喧嘩をするなら殺す気で行け、と教え込まれて育った。もちろん両親からも、祖父母からも、強きを挫き弱きを助けという正義の思想を教わっては来た。ただし『それでも、やるとなったら殺す気で行け』、という鍵括弧付きである。この辺りの生来の気性の荒さは赤江の土地柄とも言える。  地元の人間同士笑顔で話をしていても、次の瞬間刃物を腰に構えて追いかけ回すなどの光景を当たり前に見て育ったし、相手がよそ者で仲間内を愚弄するというなら躊躇う理由などどこにあろうか、というのが彼らの言い分だった。  この日、たまたま赤江の隣街に組事務所を構える暴力団、時和会の若頭が子分を連れて飲みに来ていなければ、銀一達は本当に若い衆を殺していたかもしれなかった。  時和会はこの界隈で賭場を仕切る博徒系のヤクザで、若頭を任された藤堂義右はまだ二十七歳と若いながら相当な腕っぷしと噂され、「時和の暴れ牛」と称される男だった。間に入って喧嘩を止めたのはその子分で、まだ銀一達と年の変わらない志摩太一郎という男なのだが、実はこの志摩の妹で響子という名の十七歳の娘とは、浅からぬ関係が皆にはあった。  どこから手にしたのか、空の鍋とお玉で激しく音を鳴らしながら、その志摩が喧嘩のど真ん中へ立ち入って来た。ポマードで髪の毛をオールバックに寝かしつけたキザな男であったが、顔は確かに男前の部類に入った。銀一と、銀一に殴られ額から血を流す若い衆の丁度間に立って志摩は声を荒げる。 「はいはいはいはい、終わり終わり。この喧嘩はここで終わり。あとはうちの兄貴が買い取りまーす」  聞き慣れた志摩の声に、竜雄も和明もぎょっとして振り返る。座敷の一番奥で、ビール瓶を掲げている藤堂の腕だけが見えた。すぐ近くに立っている銀一に向かって、志摩が低く声を掛けた。 「春雄はどうしたん。おらんで良かったのぉ。それよりお前、ちょっとその右手の危なっかしいもん、捨ててくれる?」  銀一は俯いたまま、握っていたビールの空き瓶をその場に落とした。ビール瓶は、割れて猛り狂った王冠のような形状に変化しており、そのまま座敷の畳に突き刺さった。トス、というその音と共に、銀一は志摩に対して一応会釈で返した。とは言え傍から見ればただ頷いたようにしか見えない。 「多分じゃが、これ、うちと関係ある連中なんじゃないかのお」 「え」  志摩の言葉に銀一は顔を上げ、そして転がっている四人の若い衆達を見やる。作業着の左胸あたりに、微かに時任建設の名前が見てとれる。堅気とは言え半分時和会に片足を突っ込んだ人間である事に、この時初めて気が付いた。竜雄も和明もそれを確認して一瞬バツの悪そうな顔をしたが、ひっくり返っている若い衆の頭をバシンと叩いて、 「作業着くらいちゃんと洗え」 「汚のうて全然見えんじゃろうが」  と、あくまでも憎まれ口を叩いた。  志摩は若い衆達の側にしゃがみ込んで、いけるか?と聞いている。竜雄と和明が立ち上がり、銀一の側まで来た。 「まずいぞ。あそこ、藤堂さんじゃろ」  そちらを見ないようにしながら竜雄が小声で言うと、 「挨拶せんわけには、いかんよな」  と和明も同調した。銀一は視線を志摩に落としたまま、「なるようになるやろ」と笑った。  志摩は自分の声が届いているのか分からない若い衆達の頬を叩きながら、おーい、おーいと何度も呼んでいる。太腿を箸で刺された男は痛みからうーうー唸り声を上げている為意識があるのは丸わかりなのだが、それでも目を閉じたまま志摩の声には答えずにいた。ゴ!と音がした。志摩がその男を殴ったのだ。 「なんで答えんのよ。お前らな、あんまりこっちまでは聞こえてこんかったけど、どうせまたこいつらの事エタだのヒニンだの言うてからかっとったんじゃろ。お前らもここいらで仕事任されとんなら赤江の四兄弟くらい知っとるだろうが。相手を選んで喧嘩せんお前らの勢いは買うてやるがよ、火種としちゃあ今回はお前らの分が悪いわ。こっちはこっちで、きちっと俺と兄貴で締め付けとくから、もうここらでお前らは手を引け。な」  銀一達は黙って志摩の言葉を聞いていたが、上手いもんだなと感心した。赤江の四兄弟などと言われたのは今日が初めだが、頭のおかしな四人が赤江にいるという噂がある事は、前々から知っていた。そこを上手くおだてに使って、コテンパンにされた若い衆の気持ちを静めたわけだ。喧嘩は良いが、理由が良くない。おまけに相手は頭のおかしい狂犬なんだ、相手にするなと、そういうわけだ。 「返事は!」 ひっくり返って喋れる状態ではない四人も、ここは頷く他なかった。  喧嘩の後の酒は美味かったが、正面に座る男の圧力が煩わしくて、面倒だった。  明らかに身長が百八十センチ以上あるその男は、と場で鍛えた銀一ですら敵わない胸板の厚みと腕周りの太さが特徴的だ。騒動が治まるのを待って、藤堂が自分の席へ銀一達を呼んだのだ。関連会社の若衆を四人も潰した手前、断るわけにはいかなかった。  志摩がもう一人の子分と共にビール瓶をケースごと抱えて戻ってきた。 「正座せんかい馬鹿タレ!」  志摩の怒鳴り声に、銀一らはあからさまに顔をしかめた。彼らの興奮はまだ収まりきっていない。 「今日はええわ、面白いもん見たしなあ。お前らはほんま、いつ見ても喧嘩ばっかしとるのお。なんでお前らがいつまでも堅気なんか、全然理解出来んわ」  愉快そうに日本酒を煽る藤堂の右手親指は、第一関節から先がない。事故ではない。若い頃に犯した失態の責任を取る為、小指ではなくいきなり親指を詰めたという話だ。 「お」  お前が言うな、と竜雄が言いかけて口を噤んだ。 「まあ、飲め。飲んでちょっと話を聞いてくれりゃあ、帰ってええ」 「兄貴、ええんですか」  志摩は藤堂の隣に腰を下ろしながら、少しだけ不安そうな顔をした。 「ああ。別にこいつらの口からサツに話が漏れ出る事はないやろ」 「そりゃあ、まあ、そうだとは思いますが…」  事情の呑み込めない三人は首を傾げて、とりあえず飲めるだけ飲んでやろうとビールの一気飲みを開始した。舐め切ったその態度に志摩は腹を立て、机をぶっ叩いて「おい」と叫ぶ。しかし三人はまっすぐに志摩を見据えたまま、ペースを落とさない。藤堂は確かに面倒だが、志摩一人が粋がった所で怖くもなんともない。三人はまるで水みたいにビールを飲み、空瓶を後ろへ放り投げていく。初めの内は本物のヤクザを相手に、一応の礼儀として大人しくしていたつもりだが、喧嘩の後の空きっ腹にビールを流し込むうち、やがてはどうでも良くなってきた。  だが、 「西荻の話なんだがよ」  と、藤堂がそう言った瞬間、三人の動きが面白いようにピタリと止まった。
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