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【4】黒巣
「どうにも、クロが絡んでるという、噂やな」
相手の顔色を窺いながら言う藤堂のねちっこい言葉に、銀一達は顔を見合わせ、飲みかけのビール瓶を机の上に戻した。志摩が片頬を吊り上げ、揶揄う。
「巻き込まれるんはごめんやと、顔に書いたーるぞ」
竜雄は片膝を立てて「帰るか」と後の二人に声を掛けた。
「最後まで聞け」
藤堂の押さえつけるような声に、しぶしぶ竜雄は膝を折る。
「新聞なんてもんを読んだことのないお前らでも、西荻の家で殺しがあった事ぐらいは知ってるやろ。それに関連して面白ろうない話があってやな。どうもこれは、クロが絡んでいるらしいぞと、こういうわけや。確かに証拠みとーなもんはない。そりゃあお前、相手がほんまにクロの連中なら証拠なんて残すわけがない。だがどういうわけか、名前だけはしっかりと俺の耳にも届いてきやがるんよな、これが」
銀一達は聞こえない振りを決め込み、俯いている。
ただ仕事帰りに美味い酒が飲みたかっただけなのだ。それなのに、ボンクラみたいな兄ちゃん達に難癖を付けられるは、ヤクザに首根っこ掴まれるは、挙句には「クロ」なんて名前を聞かされる始末だ。今日は厄日かと思う程に運がない。
傍らに転がるビール瓶を睨み付けながら、銀一は思う。
(ひとっ風呂浴びるのを我慢してまで、こいつを選んだってのによ…)
銀一は正直腹が立って仕方なかったが、藤堂相手にブチ切れるには、まだ酒の量が足りていなかった。
昔から、『それ』には色々な呼ばれ方があった。黒盛会。黒巣会。黒の巣、そして黒。そのどれもが不正解であり、正解だった。正しい名前が何かという事は重要ではなく、何の話をしているのかが分かればそれが正解と言えた。
この界隈で「黒」関連の名前を出せば、誰もが耳を塞いで首を横に振る。あっちへ行けと手の甲を振り、ヤクザすらその話題には眉をひそめる。昼間からドラム缶の上でバクチに興じる呑兵衛達がたむろする比較的明るい路地ですら、黒の名前を出すと酔いから醒めたような顔で相手を睨み付ける。以前この土地の生活を取材に来た新聞社の人間は、たまたま耳にした聞きかじりの「黒盛会」という名前を口にした瞬間、問答無用で金的を蹴り上げられた程である。
暴力団に対する指定や、それらの基準となった暴対法などが施工される前のこの時代、ヤクザとも愚連隊とも違う「黒」という存在が、裏稼業の間では当たり前のように認知されていたようだった。一説によれば江戸時代後期から日本の裏側で暗躍する何でも屋で、ポジティブな通称とは裏腹な本来の意味は、請負殺人を生業とする営利団体と言われている。もちろん看板を掲げた会社組織とはわけが違う為、当然その実態は謎に包まれている。一般人にしてみればそれこそ都市伝説だと思うかもしれないが、赤江のようなヤクザ者を当たり前に内包して成り立っているような街では、大昔から身近な恐れの対象として危険視されて来た。本物の裏家業人が存在を断言するのだ。いないと考える方が難しい。
「時和会の藤堂さんが出張っていけば、万事解決なんじゃないすかねえ」
竜雄がそう言うと、志摩が気色ばんで膝立ちになる。
「お前さっきからええ加減にせえよ!生意気言うな!」
「ええがな。確かに、俺が出て行けば大抵の事はなんとかする。ただ今度の件、何をどうすりゃええのか、皆目見当がつかんのよ」
「そもそも、藤堂さんは会うたことあるんですか? その、奴らに」
竜雄の問いに、藤堂が腕組みをして黙った。痛い所を突かれただとか、何とかごまかそうとか、そんな腰の引けた感情が読み取れる顔ならまだ救いはあったのだが、質問した竜雄自身が唾を飲み込む程藤堂の表情は険しかった。
「多分…あると思う」
その言い方が、怖かった。
自慢でも、思い込みでもない。明らかに実体を伴ったシルエットを思い浮かべながら答えているであろうその声色と言葉が、銀一達三人を俯かせた。どこかで、そんな集団なんぞ存在しないんじゃないかと思っていた三人の希望が、音もなく砕けた。
「政治的な何かじゃないんすか。金銭とか、土地とか、あと分からんけど、国とか」
努めて、自分達には関係のない世界の話だと考えながら思いつくままに和明が言うと、藤堂は意外そうに目を丸くして、「お前、こっちの素質あるのお」と笑った。
志摩が面白くなさそうに和明を睨むと、和明は振り返ってそこらへんに転がっているビール瓶を一本拾って握り締めた。すかさず銀一がそれを取り上げて首を横に振る。面白そうにそれを見やりながら、藤堂が続ける。
「金と土地な。ただお前、そんな簡単な話なら俺が出んでも、こいつに片付けさすわ。土地転がしの教科書なんぞ、ようけ持ってる。お前らもその気になったらいつでも言うてこい。なんぼでも販売したるさけ。ただお前、よう考えてみ。西荻を殺して今誰になんの得がある? 現にお前、開発事業がストップしてもーとるやないの。国がそれを望む事はないわな。黒に仕事を依頼した奴がおったとして、それは国やないな」
確かに、と三人は考える。
藤堂は、「それにや」と言う。
「何が原因やったか今となっては分からんが、仮に土地に関する揉め事をスムーズに流したいんであれば、俺ならば殺さん。どこぞへ拉致って、嫌でも首縦に振らす方法、知ってるからな。じゃあ、この街のもんか? それこそお前、よそならまだしも、こんなドブ街の人間が開発を止めたい理由なんか、あるけ?」
理由なら、あるだろう。
西荻から土地を借りて生活している者達ならば、開発を止めたいと思っても不思議ではない。それこそ磯原のような人間が、そうだ。例えば雇い主とも言える西荻の名前が『山田さん』にすげ変るとして、その山田さんが磯原達労働者をそのままの雇用形態で引き続き雇い続ける事はない。そもそも国が買い上げ区画整理された土地に、工場だけ以前の状態で残されるはずがないのだ。
長距離トラックで日本中を走っている竜雄は、経済成長とともに様変わりしていく土地を多く目の当たりにしている。恐るべき速さで街並みが変化していくのだ。赤江だけ例外などと言う話はありえない。
「仕事や家を追われるかもしれん人間かて、いてるやないですか」
と、銀一が言った。
「こんな街出て行ける人間は出て行けばええし、それが無理な人間は職を変えるしかないな。住むトコなんぞ、なんとでもなるやろ。うちに言うてこいや。お前らならいつでも世話したるぞ」
藤堂はそう答え、黄色い歯を見せてにやりと笑った。
「いや、まあ、…はあ、遠慮しときます」
「わはは!それにお前、家なんか『隣』になんぼでも空き家があるがな」
「まあ、…そうっすね」
藤堂の言った『隣』とは赤江地区に隣接する住宅街の事だが、これについては別の機会に触れる。
「この街の事で藤堂さんや時和会が知らない。もちろん西荻のじいさん殺しに関わってるわけでもない。…だからって、それが黒の仕業やと?」
と、銀一が聞くと、
「ちゃうがな。消去法じゃないんや」
と、藤堂は唸るように言った。
「お前らは知らんやろうし、別に知らんままでもかまわんけどな。実際殺られてんのは、西荻だけやないぞ」
「え?」
急に、正体不明な怖気が三人を襲った。
「だから簡単やないんや。殺されたんが西荻のじいさんだけなら、土地の問題抜きにしたって理由はなんぼでもこじつけられる。この街で古うから踏ん反り返っとる地主様やでな。大小含めて、ドス持ってポーンと突きに行きたい恨み持った輩なんか、なんぼ程おる思てんねん。…けどなあ」
三人には初耳だった。恨み云々の言い回しは藤堂の勝手な偏見だとしても、確かに西荻の家はこの街に知らぬ人間などいない大地主だ。孫の平助は銀一らと同年代であり、子供の頃はよく取っ組み合いの喧嘩などして遊んだものだった。彼の祖父が無残な殺され方をしてからというもの、街中で色々な噂話が囁かれ、内心銀一達も面白くはなかった。平左自身に西荻としての恩義を感じる事はないが、それでも青白く変貌した友人の顔は見るに堪えなかった。
ましてやそんな状況で、平左以外にも殺された人間がいるなどと街の者が知れば、今頃は大騒ぎになっていても、何らおかしくはない。
「誰ですか」
少し声を落として、和明が聞いた。藤堂は一瞬考える表情を見せ、
「誰にも言うなよ」
と念を押した。
「二人おる。まず一人は、お前らも名前くらいは聞いた事あるやろ。四ツ谷組の、松田や」
「え、バリマツですか!?」
「死んだんですか、あの人」
思わず竜雄と和明の腰が浮いた。隣県で今最も勢いのある暴力団が四ツ谷組であり、まだ三十歳そこそこながら数々の武勇伝で名を馳せた『バリマツ』こと松田三郎は、銀一達世代の中では最も有名なヤクザ者と言えた。
十代の頃、敵対組織の事務所に向かって当時まだ珍しかったマシンガン(バリバリと呼ばれた)を武器に単独でカチコミを血行したという。しかもその理由は「一番近くにある敵事務所だったから」である。当代きっての気狂い武闘派で知られた男であった。
「四ツ谷は今大騒ぎや。まあ、うちの親っさんとこにも話がくるぐらいじゃ。それこそ血眼んなって犯人探してるやろ。ただ、俺は見つからんとふんどるがよ」
藤堂は話を続けるも、銀一達はバリマツが殺されたという衝撃が強すぎて、耳に入って来ない様子だった。彼らとバリマツの年齢は十歳程しか離れていない。義務教育もまともに終えていない三人にしてみれば、隣県とは言え自分達より頭のおかしいやんちゃがいるという事実には妙な親近感があり、赤江の同世代においては共通のヒーローであった。悪事は悪事として当然認識はしていたものの、それでもまだ子供だった銀一達にしてみれば、頭一つ抜け出た存在は格好良く思えたのだ。時代背景もあっただろうが、人の生き死にが割と近い存在だった事も一つの要因かもしれない。結局一度も会う機会はなかったが、噂だけはいつも聞いていた。いつか自分達がバリマツのような生き方をする事になるかもしれないと、そういう可能性は常に感じているのだ。
「…それで、あと一人っていうのは」
銀一がそう尋ねるまで、竜雄と和明は会った事のないバリマツの去り行く背中を空想し、ずっと見送っていた。
「まあそっちは、名前を言うても分からんとは思うが、今井っちゅうおっさんや」
「イマイ…」
確かに、三人とも苗字を聞いただけでは誰の事なのか見当もつかなかった。
藤堂は息を止めて、机の上に身を乗りだした。
「言うなよ…。制服や」
一拍置いて、
「警察ですか!?」
と竜雄が叫ぶ。
「おい!」
と志摩が竜雄の頭を殴る。本来なら黙っていない筈の竜雄は全く反応せず、ゆっくりと銀一を振り返った。
銀一は目を閉じ、和明は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「何や、知ってたんか? 知りあいか? ひょっとして」
三人の反応に、藤堂が食いついた。観念したように、竜雄がボソボソと話し始めた。
西荻平左の孫、平助から聞いた話である。
平左の死後、家督を継いで気丈に振舞っていた息子の幸助が、しばらく経つと様子がおかしくなりだした。
幸助は自身の受け継いだ土地について、初めは開発事業に乗り気でも反対でもなかったという。幸助にしてみれば、先祖代々という感覚すらピンと来ておらず、どちらかと言えばこれまで注目される機会に恵まれなかった分、色々と世話を焼いてくる周囲の反応を楽しんでいるにすぎなかった。
国から交渉を持ち掛けられれば笑顔で応じ、土地を追われては敵わない雇われ労働者達が押し寄せては神妙な面持ちで話を聞いた。まだ幾らかも経たぬうちは、それでも家督を継いで悪戦苦闘しているのだと好意的に捉えられていたのだが、時間が経つにつれてどっち付かずの態度を四方八方から責め立てられるようになった。
よくよく考えてみれば、幸助としてはどちらでも構わないというのが本音だった。結果この街を出てゆかねばならないとしても、平左亡き後自分の人生がこの家に縛られる謂れなどないと感じたし、まとまった金が入るならそれも良いじゃないかと思うようになっていったそうだ。
女房の静子はもともとよその土地の出身だった事もあり、その金を元手に故郷へ帰りたいと言いだした。息子の平助が成人している事もあり、余生は差別や偏見のない穏やかな生まれ故郷、和歌山で過ごしたいというのが言い分だった。
なるほど、幸助もだんだんとそれが良いように思えて来た所へ、男が現れた。その男は六十代半ばといった風体の警察官で、勤務時間ではないであろう夜中に制服を着たまま一人でやって来た。
聞けば生前平左と懇意にしていたらしく、忠告に来たのだと言う。最初に玄関で対応したのは平助で、男の言う忠告の意味が全く理解出来なかった。言われたまま父である幸助に来客を告げると彼も怪訝な表情を浮かべたが、相手が公僕である以上追い返すわけにもいかず、女房を叩き起こして家の中へ招き入れたという。
平助はこの男の事をよく覚えていた。
「下の名前は聞いてない。ただ顔にな、大きな火傷の跡があったんよ。新しいもんやないな。もしかすっと、戦時中のもんかもしれんわ」
「忠告て、なんや」
と、藤堂が尚を身を乗り出した。
「それは分からん。平助も、それは聞いとらんのだって」
「なんでタメ口じゃワレ!」
と志摩が竜雄の額をはたいた。和明が膝立ちになって志摩の頭頂部に拳骨を落とした。
「いたー!」
とひっくり返る志摩。
「夜中に一人でやって来た制服…。その男が、今井なんか。…これはこれは」
藤堂は身を引きながら右手で顎をさすって、そう言った。
その今井という男が、藤堂の言う殺された警察官だという事なのだろう。
「このご時世よ。堅気もヤクザもよっぽどの事が限り、好き好んでサツは殺さんよ」
嫌でも、先っぽの無い親指が銀一達の目に入った。だがそれよりも、藤堂が頬に浮かべた微笑みの方が、銀一達にとっては何倍も気持ちが悪かった。
「いよいよ、奴らの気配が濃厚やのう…」
藤堂の目が、ぬらりと光り輝いた。
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