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「ちゃんとやっとる?」
母の声で、これほど安堵したことはなかった。
居間のほうへふらふら歩きながら、今日一日の進捗を報告する。
そして、祖父のことで相談があると切り出すと――。
「おじいさん? どういうことやね?」
近所の女性から聞いた話をそのまま伝えると、母はなぜか笑い出した。
「それはあんた、うまいこと担がれたんやろ」
だって、と言いさす私を遮り、母は言った。
「あの男、もうとっくに死んどるもん」
えっ、と。
私は文字通りに絶句した。
死んでいる。
もう。
とっくに。
「ほんまは先月が法事やったかな? おばあちゃんが亡うなってもうたから、どたばたして流れてしもたけど。まあ、おばあちゃんがどうしても言うてやっとったことやし、もうええやろ。今まで弔ってもらえただけ、ええ身分よ。ロクでなしの畜生のくせに」
本当に、死んだの?
「あんたが生まれる前にね。警察に呼ばれたからよう覚えてる」
警察?
「なんや、えらい変な死に方したっていう話でな。事件かも知れんからって、おばあちゃんもしつこく話聞かれたんよ」
変な死に方って?
「手と足が、全部折られとったんや」
耳の中で、唾を呑む音がやけに大きく聞こえた。
「あれからなんも音沙汰ないし、結局、犯人わからずじまいなんやろな。どうでもええけど。むしろ感謝したいくらいやわ」
でも。
しかし。
「あの男な、どこで調べたんか知らんけど、母さんに付きまとってきとったんよ。お父さんと結婚する前。こさえた借金で首が回らんから、娘に工面してくれ言いよる。もちろん断ったんやけど、そしたら、なんやかんや嫌がらせしてきよって」
思い出すにも不愉快だとばかりに、母は憎々しげに言った。
「たまらんでおばあちゃんに相談したら、心配せんでええ、わたしが始末つけたる、言うて。それからすぐやったわ」
なにが。
「あれが死によったのは」
背筋をそっと寒気が撫でた。
それは、もしかして、祖母が――。
目眩のような感覚に襲われ、電話越しに聞こえていた母の声が遠くなった。
かわりに、天井から微かに聞こえる音が近づいてきた。
床を擦る音。
なにかが這いずる音。
私は携帯を握りしめたまま、震えをかみ殺して頭上を睨んだ。
ずるり。
ずるり。
ずるり。
二階で、なにかが蠢いている。
ゆっくりと、少しずつ進んでいる。
祖母が隠していたもの。
無意識に私は立ち上がり、その音を追いかけた。
居間を出て、廊下を進み、玄関へ。
そのすぐ横には、二階から続く階段が。
這いずる音は段々と大きくなる。
間違いない。
二階から降りてこようとしている。
私は階段の下で立ちすくみ、踊り場を見つめた。
逃げ出そうとする意に反して、視線が離せない。
身体に閉じ込められた脳が、必死に叫んでいる。
駄目だ。
見ては駄目だ。
ここにいては駄目だ。
ずるり。
がたん。
がたん。
這いずる音は、とうとう、階段をずり落ちる音へと変わった。
すぐそこまで来ている。
すぐそこまで。
声がする。
呼ぶ声だ。
祖母の名を呼ぶ声――ではなく、私の名を呼ぶ声。
そして、それは。
祖母の声だった。
喉の奥から悲鳴が迸った。
そのとき、不意に身体の自由が戻った。
私は悲鳴を上げ続けながら、玄関の扉に体当りをして外へと転げだした。
それでも、目を離す直前、私は見てしまった。
砕けた手足を投げ出し、ままならない体を顎で引きずる、肥え太った芋虫。
全身を曲げ、伸ばす、蛇腹のうねり。
膨らんだその塊に呑み込まれながら、かろうじてのぞく人間の顔。
祖母の――。
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