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私 その1
職場の椅子に座り、目の前の机に置いてある山のような書類の束を見ているとため息しか出ない。パソコンが登場してから多少楽にはなったが、それでもまだ紙はここで重要視されている。上司がパソコン嫌いだとこうなるのだという教訓だ。
隣席の同僚が私に声をかける。
「なあ、この仕事始めてどう思う」
私は首をすくめ、「わからない」と言った。
「そうか」
同僚はデフォルメされた犬の絵が描かれたマグカップを持っていた。
「それがお前の親族でもか」
私は答えない。というより答える義務がないように思えた。同僚はマグカップを口に当て、中の珈琲を飲む。
「苦い経験だよ。あれは」
同僚はパソコンを器用に操作しながら答える。「やりたくないね」と同僚が言っているとき、私は書類に目を通しながら曖昧に頷く。
「俺は経験がない」
「お前にもきっとお鉢が回ってくる」
私は顔を同僚に向ける。彼は書類に判子を押していた。何かの執行状だろう。
電話が鳴り、三コールで出ると相手は課長だった。すぐに執務室に入るように言われ、私は応じ、席を立つ。
「呼ばれたのか」
「ああ」
私は課長のいる執務室へと足を速めた。
執務室。といえば聞こえはいいが、実際のところここは部屋ではない。単なる薄板で区切られた広間の一角だ。
執務室の入り口付近の壁を三回ノックし、「入りなさい」と課長のよく通る声で言われるまで、その場を動かない。予定通りに事は進み、座る課長に敬礼をする。課長も立ち上がってから敬礼を返し、席に座る。
「呼ばれた理由はわかるかね」
私は「いえ」と答えた。
「君にもお鉢が回ってきたようだ」
課長は机上のクリアファイルを手に取り、私に差し出した。賞状を受け取るように両手で受け、表面を見やる。
父の顔写真と経歴が書かれていた。
「君のお父様は立派な死刑執行人だった。ここの所長まで昇進し定年を迎え、今は市内の一軒家で一人暮らし。今年で八十五歳だったな」
「はい」
「わかっているとは思うが、これは法で定められたことだ」
「わかっているつもりです」
「そう思って今回君に任せた」
「やり遂げます」
課長は私に一通の黒い封筒を渡した。
「なんと声をかけていいかわからないが、これが上の答えだ。恨むなら上を恨むことだな」
私はクリアファイルを課長の机に置き、黒い封筒を左手で持ち、敬礼をして部屋を出た。席に戻ると同僚が電話で何か話し合いをしている。やがて電話を切り、同僚は「なんの用事だった」と聞いてくる。
「仕事だ」
残っていた書類仕事をいくつか済ませてから封書を届けることにした。早速取り掛かり、昼休憩の五分前に終わらせる。
昼食を済ませ、休憩時間中に手元に置いてある黒い封書を眺める。この中に何が書かれているか。それは部長クラスにならないとわからないそうだ。しかし、内容は予測できる。
「○月×日を持って、貴名を死刑執行する」
このような文言が書かれているのだろうが、いまいち確証がつかめない。封書に書かれている内容は他言無用である。今までそれが破られた試しはない。日本人は多少の例外はあれど、どこまでもルールと法には真面目なのだ。
席を立ち、外回りに行くことにした。
社用車の黒いセダンを施設の駐車場に停め、中に入る。入り口の守衛に声をかけ、手帳を掲示すると、彼は無線で何か指示を出し、扉のロックが外れる音がした。中の人たちを一目見て、担当者に執行者リストを受け取り、車に戻る。心は妙に落ち着きがなく、どこか騒々しい。
父を処刑する。という絶対的な事実に私は心のどこかで懊悩としたものを抱えていたのかもしれない。死刑執行人として生きた彼を今度は処刑せねばならないという事実に心はどこか平静を装いながら、葛藤を抱えていたことは間違いない。
行きなれた道を進み、父の家へ向かう。呼び鈴を鳴らし、父を待つ。
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