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 彼のことはよく知らないでいる。彼は秘密主義なところがある。  実際、研修の時も彼はそつなく物事をこなし、優秀な成績で研修を修了した。彼と同僚になった今、僕の心は少しだけ揺れ動いている。  この仕事を始めて良かったか。と思える日が来るだろうか。  彼の父親は死刑局の人間であることはここでは誰もが知る常識のようなものだ。死刑局の創成期に尽力した職員の一人であり、同時に英雄でもある。  その息子である彼も死刑局の人間として頭角を現し、主席執行官という役職も与えられている。親子二代して死を司る仕事への姿勢は尊敬に値するが、一方でどこか腑に落ちない点もある。  生きていたい人間を殺すことは悪になるのだろうか。  世の中には死にたいと願っていても死ねない人間もいる。逆もまたしかりだ。そんな馬鹿げたことを考えているうちに電話が鳴り、三コールで出ると課長からだった。  僕は気だるそうに立ち上がり、課長のいる席へと向かう。    パーテーションで区切られた課長のいる部屋に行き、お互いが敬礼をする。この儀式めいた行為は苦手だ。しかしやらなければ規定違反になり、減給処分を受けるのだからやらなければならない。 「執行状だ」  課長は二枚のクリアファイルと二通の黒い封筒を渡した。 「これは……」 「うむ。一筋縄ではいかないと思っている」 「私にこの執行を任せてよろしいのですか? 主席執行官がいないと……」  課長はそこで咳払いをした。 「だから、君に任せるのだ」  試されている。と僕は思った。上手くいけば昇進することが出来る。しかし、失敗すれば? 葛藤が頭の中を支配し、しばらく逡巡してから僕は頷いた。 「やり遂げます」 「そう言うと思っていたよ」  課長は苦笑いをして言った。僕は黒い封筒を受け取り、敬礼をして席に戻る。  執行対象者の一人目は市内の老人ホームに入居する九十歳の男性だ。安楽死を長らく希望し、それが実現した形になる。ただ厄介なのはもう一人の方だ。  二人目の執行対象者は元犯罪者で、三件の強盗殺人に関与していると言われている六十五歳の男性。本来ならすぐさま死刑執行されてもおかしくないはずだが、彼は心神喪失を訴え、覚えがないという理由で無罪を主張。裁判所は彼を医療刑務所に送致することが決定となった。  昼休憩が終わり、外回りへ行く。職員用の黒いセダンに乗り込み、車を発進させる。市内の老人ホームを二箇所回り、執行者リストを受け取る。最後に執行対象者がいる老人ホームと医療刑務所へ行き、封書を渡すだけだ。  一人目の老人は死刑局を名乗ると、まるで憑き物が落ちたように穏やかな表情になり、黒い封書を受け取るとその文面をじっくり眺めた。 「お世話になりました」  老人はにこやかに笑い、これで厄介払いだ。と嬉しそうに言った。僕は表情を崩さず定型文のような口調で老人に言った。 「死刑執行は二か月後です」  老人は頷き、帰り際に身体に気を付けて。と僕に声をかけた。僕はくるりと向き直り、老人に敬礼をする。老人もまた敬礼を返し僕は老人ホームの入り口へと足を進める。  彼も元死刑局の人間だった。長年勤めた人間。人を殺す人間が、逆に殺される側になった。それが何の意味を成すのだろうか。僕にはわからない。  続いて街の郊外にある医療刑務所へ向かう。門の前には散弾銃を構えた衛兵がいる。関係者用の駐車場に車を停め、衛兵に手帳を掲示する。門が開き、中に入るとそこはやけに静かだった。  いつもなら誰か来るたびに珍獣でも見るような好奇な目で見られる。慣れていたことだったが、やけに静かだ。  面会室で待っていると、小さな穴の開いた大きなアクリルガラス越しに刑務官に付き添われて囚人服を着た男が現れた。 「待っていたぞ」  男は無表情でこちらを眺めた。刑務官は彼を椅子に座らせ、先ほど入ってきた入り口前で佇んでいる。 「法務省死刑局です」  私はお経を読むように死刑執行の期日ややるべきことなどを説明し、アクリルガラスで遮られた面会室のそばにあるレターボックスに黒い封書を投函した。刑務官がそれを受け取り、男に手渡す。 「この時を待っていた、とまではいかないが、死ほど恐ろしいものはない」  男は手紙を黙読し、「そうか」とだけ言った。 「お前さん、人を殺したことはあるか」  私は首を横に振る。 「人間、誰しもが同種の人間を殺したくなるものさ」  こみ上げてくる怒りを抑えながら、僕は黙って男を見ていた。 「国は愚かだ。才能のない人間を殺し、社会の歯車を選別しようとする。懸命に生きてきた男を虫でも踏みつぶすように命を消すんだ」 「何を言っているのですか?」  男はやれやれ、と言わんばかりに首をすくめた。 「その昔、死刑執行制度が出来た時の話だ。最初に選ばれたのは精神疾患の青年だった。彼は絵を描いていた。その絵は人々を魅了するのには充分だった。だが、彼は国によって消された。若き芸術家の芽を摘んだのだ」  刑務官はばつの悪そうな顔を浮かべていた。 「青年が死刑執行された後、親族が開いた彼の個展を見に行ったことがある。人々がどんな感想を漏らしたのかわからないが、オレはその絵に圧倒された。農家だった彼の絵の題材は専ら自然の風景や馬に関するものだった。だが、そんな彼の絵の中にも不思議な絵があった。小さな部屋に青年が蹲り、虚ろな目をしながらこちらを俯瞰するかのように見ている。だったそれだけの絵だ。だが、それはオレを満足させた。その絵を買おうとさえ思った。だが、その絵は既に売られることが決定されていた」  男は席を立ち、「あの絵は国を変えるには充分なものだったよ」とだけ言い残し、刑務官に連れられて面会室を出た。  庁舎に戻り、雑務を終えて定時に帰宅した。何か料理を作ろうかと思ったが、その気にはなれなかった。  近所の寂れたラーメン屋に行くと、同僚の彼と八十路を迎えた彼の父が向かい合ってテーブル席に座っていた。二人して黙々と食事を済ませているさまは他人のようにも見える。  私は二人が座るテーブル席のそばのカウンター席に座り、醬油ラーメンを注文した。
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