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「しかし……人の姿が見当たらぬ」  思わず(ひと)()ちて、己の喉から言葉が出たことに驚いた。獣の呻きが出るものと思っていたのだ。否、もしかしたら自分の耳には人の言葉に聞こえただけで、実際はぐるぐると喉が鳴っただけかもしれぬ。  兎角蘭珠は塀の周囲(まわり)をうろうろ彷徨(さまよ)った。人がいたところで獣の自分を見てどうするかは分からないが、あてもなく森を彷徨うよりは良い。数回門の前を往復しても、人の姿は一向に見当たらぬ。いい加減足の裏が冷えで痺れてきた。そのとき蘭珠は、先程から薄々覚えていた違和感の正体に気づいた。  蘭珠の足許は雪と霜で冷え切っている。頭上の(こずえ)にも雪が積もっているし、葉も土も何もかも凍りかけている。しかし門の向こうの庭園には緑が広がっているのだ。そうだ、花もあんなに咲き誇っている。何かがおかしい。否、自分が黒豹となって極寒の森林を彷徨っている時点で何もかもがおかしいのだが、それ以上にこの館はおかしい。  引き返すか――迷っていると、庭園の木陰で何かが動いた。はっと目を凝らす。間違いない、何か小さいものがいた。 「誰かいるのか」  呼びかける。ややしばらくして、向こうに動きがあった。木陰から飛び出したのは、小さな兎だった。薄茶色の毛並みにくりくりと大きな瞳。黒豹である自分はそれに対して食欲を覚えるべきなのだろうが、生憎(あいにく)心は人のそれである。愛くるしい、という素直な感情を抱いた。  兎はじっとこちらを凝視してくる。取って食われるとでも思っているのだろうか。いや、思うだろう。兎に言葉は通じぬだろうし、どうにか敵意のないことを知らせられないだろうかと蘭珠もじっと見つめ返す。と、兎の背後からもう一匹獣が出てきた。今度は、確か、穴熊というやつだ。兎と一緒になって、じいっとこちらを窺っている。  そう思っているうちに、あちらこちらから小動物が次々に小さな顔をのぞかせた。栗鼠(リス)、狐、狸のようなあれは何というのだったか、とにかくそんな小さな動物たちが、こぞって珍客蘭珠を見詰めている。  さて。あの小さいものたちが一斉に飛び掛かってきたならば、瀕死といえどこの肉食獣はどこまでやれるのだろうか。そんな物騒なことを考えていれば、薄茶色の兎が鉄柵ごしに蘭珠の前へ躍り出た。そして、前歯が愛くるしい小さな口を開いて、 「この館に何の用だ!」  何と言葉を発したのだ。少年の声である。  蘭珠は目を丸くした。獣の言葉が分かるようになったのだろうかとも思った。だがその言葉は間違いなく隣国の言語である。外交に出ることもあるだろうと学んでおいてよかった。言葉が通じるならば話は早い。敵意のないこと、少し休ませてほしいことを伝えるべく口を開いたとき、正面にある建物の荘厳な扉が、大きな音とともに開かれる。  小動物たちはさっとそちらに目線を向けると、揃って頭を垂れる。どうやら屋敷の主のお出ましらしい。  蘭珠は身構えるが、その姿はいつまで経っても見えない……、いや、よく目を凝らせば何かがいる。開け放たれた扉の中央。大分下部。小さな毛玉がちょこんと立っている。なぜか二足で。  真白い毛玉は不安定な二足でよたよたと歩み寄ってくる。門まであと数歩というところまで近づいてきたところで、蘭珠はその姿をもう一度眺めまわした。  真白、否、白銀の毛並み。温かそうな毛がふわふわと揺れる。短く太い四足。つんと立ち上がった三角の耳。くるんと丸まった尾に、円らな瞳が愛くるしい顔……。  子犬である。  どこからどう見ても子犬である。唯一普通の子犬と異なる点は、よちよちながらも二足で歩いていること。丸く愛らしい瞳が猫のように透き通った翠色であったこと。そしてどこで調達したのか小さな緋のマントを纏っていたことと、 「獣め、わが家臣たちには指一本触れさせぬぞ!」  黒豹の蘭珠に向かって人の言葉を発したことである。  凛と張った男の声であった。どこからどう見ても愛くるしい子犬にも関わらず。艶々とした毛並みにしなやかな体、そして立派な牙と爪を持った蘭珠を見て、可哀相なほど震えているにも関わらず。それは確かに悠然たる男性のそれであった。  おまえは一体、と問いかけようとしたとき、子犬を映した視界が歪む。次に見たのは、薄紫から濃紺に変わろうとしている空だった。夢中で歩いているうちに最早宵になっていたらしい。冴え冴えとした月が、傷だらけの獣を冷ややかに見下ろしていた。 「む。どうした」  黒豹蘭珠は地に倒れ伏していた。疲労も空腹も最早限界であった。いっそ、何匹もいる小動物のどれかを捕まえて食ってやろうか。そうは思うが鉄柵が阻む。彼らならば隙間からくぐれそうなほどの幅だが、立派な体躯を持つ蘭珠には首ひとつすら難しい。  こんなことを考えるなど、心まで獣に堕ちたか。浅ましい己を嘲り笑って、その醜い姿を目に映そうと右前足を持ち上げ――驚愕した。そこには黒黒とした毛並みはなかった。代わりに、色白く、頼りない細腕があった。当然、人のそれである。  一体どういうことか、自分の体を確認したいが最早瞼が上手く開かない。(かすみ)がかかっていく蘭珠の意識の隅に、子犬の朗々とした声が響き渡る。 「これは……何ということだ」  こちらが聞きたい。(うめ)くが、声にならない。一文字も発せぬ蘭珠とは対照的に、子犬の声は喜色をたたえている。 「何と美しい者なのだ。皆の者、決めたぞ。こいつにする。邸内に運べ!」  一体何を言っているんだ、蘭珠が考えることができたのはそこまでだった。意識が黒く塗りつぶされていく。小石が泥沼にずぶずぶと沈みゆくように、蘭珠は気を失った。
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