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 それからもリュシアンの求愛の日は続いた。  ある日は。 「ランジュ、そなたの好きな花はなんだ」 「花になど明るくはないが、今咄嗟に思い浮かんだのは蓮だな」 「ハス?」 「ご主人さま。ロチュスのことでございます」 「お、おお、分かっているとも! ロチュスだな、心得たぞランジュ!」  小一時間後、うたた寝から覚めてみれば(へや)に大振りの水鉢が置かれ、睡蓮が浮かんでいた。睡蓮と蓮は違うのだと告げた瞬間の子犬の落ち込みようは、なかなか見物だった。  またある日は。 「ランジュ! そなたの好きな食べ物はなんだ、教えろ」 「(カニ)」 「かかか蟹? 海で獲れるあれか?」 「わが国ではよく食べるものだ。とはいえおれの家は貧しかったゆえに祝いの席でしか食べられなかったのだが」 「ぐっ……そんな話を聞かされては、エトワール家当主の名にかけて、何としても、蟹、蟹を……」 「ご主人さま? 網をお持ちになってどちらへ? ご主人さま!」  その日の晩餐は大振りな海老の姿焼きだった。ソテーというものらしい。 「さすがに海はないのだ……これで許せ」 「……よかろう」  正直に言えば、蘭珠は蟹よりも海老のほうが好きであった。  ある時は自分がどれだけ美男子で裕福だったかをくどくどと語ってきたこともあったし、蘭珠の国についてしつこく尋ねてきたこともあった。  十日も過ぎれば、蘭珠の足はほとんど完治していた。アンリが毎晩用意してくれる薬湯の功が大きい。感謝を伝えてふさふさの毛を撫でてやると、アンリは嬉しそうに目を細めてみせた。それを見て子犬が喧しく喚いたので、治ったばかりの足で踏ん付けてやったものだが。  歩けるようになった蘭珠は、はじめ邸内を探索して歩いた。屋敷の使用人たちともようやく接触できた。彼らはおおむね蘭珠に好意的だった。それはそうだ、彼らが人間に戻れるか否かは蘭珠に懸かっているのだから。  執事のアドルフは年老いた大型犬の姿をしていた。蘭珠に(うやうや)しく頭を下げ、主さまをよろしくお願い致しますと頼まれてしまった。料理人のウスターシュは東国では見たことがないアライグマという動物で、小さく爪の長い手で器用に食材を捌いているのを見て感心した。庭師の穴熊ロジェは気さくな青年であったし、家政婦長をしていたというシマリスのキアラは屋敷の者全体の母親という雰囲気だった。  そして蘭珠は最近では、下男の狐、トリスタンに教えてもらった書庫にこもることが多くなっていた。以前トリスタンらが蘭珠の室に運んでくれた書物は、ここから持ってきたものらしい。  決して狭くはない一室の中、四方の壁は全て書棚で、それがはるか頭上まで続いている。部屋の中央にも幾つも両面棚があり、古今東西の背表紙が蘭珠を迎えてくれた。  学問的興味がそそられる本もいくつもあったが、本来の目的のためにぐっと堪えた。蘭珠がこの膨大な蔵書から選りすぐったのは、人が獣に変わることについて書かれたものである。何か、自分が人の姿に戻る方法について手助けとなるものがないかと思ったのだ。  該当するものを探すのには、トリスタンとアンリが手伝ってくれた。時折ふらりと訪れる小鳥のシュゼット(まだ若い女性で、女中をしていたらしい)も手伝ってくれる……ように見えて、彼女はお喋りをしていただけだったが。 「ランジュさま。少し休憩されてはいかがですか」  書庫の床に腹這いになって本の挿絵を眺めていたら、アンリが銀の盆に茶の用意を携えてやってきた。今は黒豹の姿である蘭珠に配慮して取っ手のない、広い器のようなものに茶を注いでくれた。砂糖を入れるかと勧めるのを頑なに固辞して有難く頂く。随分花の風味の強い茶だった。 「調べものは捗ってございますか?」 「いや、さっぱりだな」  怪しげな魔導の書物から古の寓話、動物図鑑まで読んだ。それでも人が獣の姿から元に戻るにはどうすればよいか、などという荒唐無稽な記述は見当たらない。いや、全くないことはないのだ。子ども向けの寓話には人が何かしらの生き物になってしまうものが時折見受けられる。蘭珠の知っている話もあれば、そうでないものもいくつもあった。だがそれらは大抵はこう締めくくられるのだ。 『王子さまのキスで元に戻りました』 『彼女の愛で彼は人の姿を取り戻したのです』  それは蘭珠の望んだ答えではない。 「彼女の愛で……か」  私を愛せと吼えていた子犬の姿が脳裏をよぎる。そして今更、とある疑問をはたと抱く。  愛する、とは。具体的に何をすれば良いのだろうか。  これらの寓話のように口づけを交わせばよいのだろうか。それとも、もっと深く交わり合う必要があるのだろうか。 (……あの犬畜生と?)  冗談ではない。蘭珠は口に含んだ茶を噴き出しそうになった。蒼い顔をしている蘭珠をアンリが傍らで気遣わしげに見ていたが、何か言う前に書庫の扉が勢いよく開かれる。発生する騒音を一切気にかけないこの開け方は、無論、彼奴(あやつ)である。
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