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 痛む体を引きずって歩いた。動かずになどいられなかった。  訳が分からない。今蘭珠(ランジュ)は四つ足を地につけて歩いている。初めての経験であるのに、もう何年も続けてきた習慣のようにごく自然にそうすることができた。  その体は美しい毛並みを持つ黒豹である。黒い中にも、あの独特の模様を濃淡に見て取ることができた。  初めは錯乱した。崖から落ちて目が覚めたら豹になっていたなど、子ども向けの寓話でもあるまいし、と。まだ夢の中にいるのかもしれないと、顔を張ってみたりもした。柔らかい肉球が毛皮をぽふりと打っただけだった。  小一時間もうろうろしていると、ようやく受け入れねばならないということに気づいた。その頃には黒豹蘭珠の体力は限界であった。一晩走り通した上に崖から転落して大怪我を負い、そしてこの寒さである。獣の身でなければとうに命を落としていたかもしれない。官職を失ったとしても、祖国に戻れずとも、獣の身になったとしても、死ぬよりは生きていたほうがよかろう。そんな風に己に言い聞かせ、蘭珠はしなやかな脚を前へ、前へと進めた。どこへ辿り着こうとしているのかは分からない。ただ闇雲に、鬱蒼とした山林を歩いた。  どれだけ歩いたろうか。空腹と疲労で視界が霞んできた頃、獣の鼻が香しい匂いを嗅ぎつけた。空腹を癒してくれる有難い匂いではないが、そこらに生い茂っている草木とも違う、甘い香り。これは花だ。こんな凍える季節に、どこかで花が咲いている。花があれば果実もあるやもしれぬ。僅かな希望が灯った。  それから蘭珠は微かな匂いを追って歩き続けた。陽は傾きかけている。何時間経ったのだろう。艶やかな毛皮に覆われているとはいえ、さすがに寒さが身に染みる。きっと左手……左前脚は折れているし、何より腹が減った。  花の香りなど幻覚だったのかもしれないと思い始めたとき、急に草木が途切れ、目の前が開けた。  いつの間にか蘭珠の目の前には高い塀があった。全貌が見えぬほど接近しているというのに、それまで全く気付かなかった。そんなことが本当にあるのだろうか。  近寄ってみて、周囲を探る。白い石造りの塀にはあちこち茨が這っていて、どうやら相当に古いものであるらしいことを窺わせる。塀はどこまでも続いている。相当に広い敷地を囲っている。城壁なのかもしれない。ようやくたどり着いた一つ目の角を曲がってみると、門が見えた。ふらつく脚で、鉄柵の嵌った門へと歩み寄る。そこでようやく、塀の中が見えた。  それは古い屋敷であった。だが蘭珠が祖国で目にしたことのあるどんな屋敷とも装いが異なる。門からまっすぐに道が一本伸びていて、向かって左には美しく整えられた針葉樹。そして美しい花が咲き乱れる花壇がある。これが蘭珠を導いた匂いの原因だろう。向かって右側には人の手で造られたと思しき池と、確か噴水と呼ばれている他国の置物がある。蘭珠の記憶では水を循環させるものだったと思うのだが、中央に佇む女神の水瓶からは一滴の雫も滴ってはいない。この庭だけで、蘭珠たちが寝泊まりしていた官舎ひとつが丸々入ってしまうほどの広さがある。  そして、中央の道を突きあたったところに屋敷はそびえていた。  三つの棟と離れの小塔から成るその建物は、兎角(とかく)大きかった。白い壁、趣味を疑う紅紫の屋根。どれだけ部屋があるというのだろう、壁には無数の窓枠が立ち並び、巨大な正面扉上には色とりどりの硝子が嵌め込んである。とにかく巨大で豪奢、石造りで装飾華美。このような建築様式を蘭珠は書物で読んだことがある。間違いなくこれは、西にそびえる隣国の建物だ。  森を彷徨う間に国境を越えていたらしい。相手方の兵にでも見つかろうものなら捕縛ものだと生唾を飲むが、すぐに自嘲した。今の自分は獣の身である。獣には国境も国籍も関係ない。
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