ひとりじめ

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 はっ、はっ、と自分の息ばかりが聞こえる。  ただひたすら上へ登ることに集中していたら、いつの間にか私の周りは白い靄だらけ。息を吸うだけで胸に水がたまりそう。口だけで吸えば水分補給できるかな? と試してみたら、思ったより空気が重たくてゲフッと咳き込んでしまった。  うっすらと木々は見えるけれど、靄でぼやけて何が何だかさっぱり。ここまで視界が悪いと回復するまで待った方がいいとは思う。でも何度も通った山。あと少しで頂上だって分かっているから、辛うじて見える細道を辿って私は足を運び続ける。  しばらくして、周囲から森の気配が消える。靄で見えなくても感じていた密集感みたいなものがフッと無くなって、靄ばかりなのに解放されたような清々しさがあった。  辺りをキョロキョロ見渡しながら注意深く前へ進んでいくと、小さな看板が見えた。頂上を示してくれる看板だ。見た瞬間、私は大きく背伸びをした。 「はぁぁぁ……着いた――っ」  背中に負ったリュックの重みで背を仰け反らせながら、私は息をこれでもかと吸い込む。まだ靄が晴れないから息苦しいけれど、でも頂上の空気はそれでも格別に美味しい。  山の天気は変わりやすいから、きっとこの靄も晴れてくれるハズ……ってか、晴れてもらわないと困る。お願いだから晴れて。一生のお願い――。  平然として水筒から水を飲んだり、タオルで汗を拭いたりしながら、心の中では落ち着きなくそんなことを考えていると、次第に靄は晴れて日差しが差し込んできた。  目の前で空と山がありのままの姿をさらけ出してくれる。下の方は緑が濃いけれど、私の近くになればなるほど柔らかな新緑になり、芽吹いたばかりの木々に勢いを感じる。空は雲が多いものの青いところはどこまでも澄んだ青さで、見ているだけで胸がときめいた。  今日はまだ誰もいない。私だけがこの景色をひとりじめしている――こんなどこまでも続く雄大な景色を、何の特別な肩書きもない私が。  ゆっくりと深呼吸する度にその事実で私の背筋はゾクゾクと震えて、口がにんまりと笑ってしまった。  私はさらに前へ進んで斜面ギリギリの所まで行くと、リュックを降ろし、中からアルミホイルで包んだ塊を取り出す。その包みを開いていけば、今何よりも愛しい白くて歪なふたつの三角形が現れる。 「えへへ、山といえばこれよね」  むんずとひとつ手に取ると、私は丸っこい角へ食らいつく。まろやかな塩気とほのかな甘さと香ばしさが口の中へ広がり、ふすーっと鼻のほうへと少しだけ抜けていく。頬を膨らませながら咀嚼していけば、ますます濃厚になっていく旨みと甘みが舌を伝って喉の奥まで届いて、美味しい幸せを広げてくれる。  呑み込むのがもったいないけれど、喉が勝手に欲しがって腹の中へと通してしまう。もちろんこれで足りる訳がなく、私は二口、三口と白い三角――冷えてもっちりとしたおにぎりを食べていく。  どこまで食べても具はない。梅干しや鮭も捨てがたいけれど、やっぱり私は塩おにぎりが一番。ひとりじめした景色を眺めながら、お気に入りを口でもひとりじめ。  なんて幸せで安上がりな贅沢なんだろうと思う。これを覚えてしまったら絶対にやめられない。何があっても――と思ってた。  おにぎりをひとつ食べ終わって私は水筒から直に温かいお茶を飲み、息をつきながらひとりじめの景色をジッと見つめる。  ……今度来る時からは、ふたりじめになるんだろうなあ。それで時間が経ったら三人じめってなっていくのかな?  その時にならないと分からないけれど、でも、きっと違う景色に見えるんだろうなあ。もし次に来てもひとりじめできたとしても、もうこの満足感は得られない気がする。多分、一緒に見たかったなあって思うだろうから。  ちょっと苦笑してから、私はもうひとつのおにぎりを頬張る。さっきよりも咀嚼を増やして、お米の甘みをいっぱい出して、大切に味わってから胃に落とす。  三角の半分が消えたあたりから、かじる量を減らしてしまう。まだ終わらせたくないと思いながらじっくり楽しんできたけれど、ついに最後のひと口となって私はおにぎりのかけらを見つめる。  これで何でもひとりじめできた時間が終わる。  別にこれからの時間が嫌じゃない。むしろ嬉しくて仕方がない。  でも、今までの当たり前が終わるんだなあっていうことを実感してしまって、気後れしそうになる自分がいる。  式はまだだけれど、明日籍を入れて一緒にあの人と新居で住み始める。楽しみだけれど、何かに背中を押してもらいたかった。  大きく口を開けて、最後のおにぎりを放り込む。  とにかく噛んだ。ドロドロになって喉の奥へ行きたそうになっても、しつこく噛んだ。甘さは次第に唾液で薄れたけれど、呑み込むのが惜しくて噛みまくった。  段々と液体に変わり果てたおにぎりだったものは、勝手に喉へ落ちて口の中からいなくなっていく。諦めて喉をごくりと動かせば、惜しい気持ちも一緒に胃袋へと呑まれていった。 「……さ、帰るか。明日の準備しないとね」  私はもう一度背伸びして空気を吸い込み、口の中に籠っていたおにぎりの名残りと入れ替える。  まっさらで、どんなものにも染まってしまう空気。何度も吸い込んで、私の中にあったものと入れ替えていく。  手足の先まで自分が新しくなったかのような気分になりながら、私はリュックを背負って踵を返す。  私は心行くまでひとりじめを楽しんだ。  もう振り返らない。
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