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九分九厘って語呂がいい
昼休み。呼ばれて顔を向ければ、やっぱりあの人懐こい双眸がこちらの姿を映していた。
形の良い唇が舌が滑らかに動いて、存外低めな声が言葉を紡いでいく。
「先輩、その腕時計素敵ですね」
「ん。ありがと」
桐林の言葉に加えて、彼の視線が自分の左腕に注がれているのを感じる。
ブランドとかよく分からないけど、これは恭介からのプレゼントだ。
なにせデザインも着け心地もなかなか良くて。さらにくれた本人の強い希望もあって、気に入って常に付けるようになった。
そんな事を思い出しながら白い文字盤をそっと撫でる僕に、彼は無遠慮な口調を隠さずで誰からのプレゼントかと訊ねる。
「まぁ、その……」
「恋人ですか?」
「あ、ああ。そう」
確かに恋人だ。いきなり年上の彼氏に時計を買って与えて『毎日付けてね』って大真面目な顔で何度も念押しする酔狂な恋人。
それにしても恋人、か……。
その言葉の甘々しさに、柄にもなくふわふわとした気分になる僕に桐林は穏やかな笑みを浮かべた。
「へぇ……でもそれ、年上の彼氏さんなんでしょう」
「え、年上?」
言葉に大きな引っ掛かりを覚えて目を見張ると、彼は変わらぬ表情で言葉を続けた。
「だってそれ。結構高いヤツですよ。年下がプレゼントするには厳しい位には」
「そ、そうなんだ……」
途端、この時計が少し重たくなったような錯覚。
気まぐれみたいに貰った時計だから、よく分かっていなかったけど。
……そう言えばあいつの親、大企業の役員だったか社長だったか。自虐するみたいに言ってたからあまり聞いてなかったな。
さらに桐林がその時計の値段の相場を口にして、度肝抜かれたと同時に恭介に対する複雑な気持ちが増幅したような気がする。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、彼は相変わらずの距離の近さで顔を覗き込んできた。
「先輩、男と付き合ってるんですか」
「え」
「ほら。さっき『年上の彼氏』って言った時否定しなかったから。彼氏の方だけ」
「あー……」
……しまった。もしかしてヤバい、のか? これは。
僕は冷や汗をかきながら、この童顔な後輩が何を考えているのか。とか、次に何を言い出すのかと固唾を呑んで待っていた。
別に僕が誰と付き合っていようがどうでもいい事だが、社会人しているとまだまだそこまで開き直れないもんなんだよ。
我ながら馬鹿らしいけどさ。
「ふふっ……あははっ、なんて顔をしているんですか」
「えっ?」
突然吹き出し、笑いだした後輩がよく分からない。
笑い声まで爽やかなのが少しムカつくけど、とりあえずわけを聞こうか。
「単に、先輩って可愛いから男にでもモテるだろうって思ってたから驚きませんでしたよ。むしろ羨ましいな。オレ今、恋人いないし」
最後は眉を下げ、情けなさそうに頭をかいた桐林の瞳に揶揄いや好奇の色はない。
ホッとすると同時に、瞬間的にでも彼を警戒した自分を恥じた。桐林のような朗らかで明るい性格の若者が、こんなことで僕を嘲笑したり脅したり嫌悪を顕にしたりするはずが無いんだ。
「で、どんな人なんです? 彼氏さん。年下、でしたっけ」
「え。あー、うん」
「毎週末、一緒に過ごすんでしょ。良いなぁ」
頭の回転の良い奴だから、瞬く間に僕の個人情報が暴かれる気がする。
なんか、敵に回したら怖い奴かもしれない。
……ほんの少し慄いた僕に、彼は何の邪気も深い意味もない顔と声でこう付け加えた。
「じゃあ平日はオレに時間下さいよ。今夜食事でも行きません?」
まぁこの前、華子さんと行ったしな。それくらいなら別に彼も何も言わないだろう。
……そもそも僕が誰とどこに行こうが、彼にはあまり興味ないんじゃあないか。セックスして過ごす週末以外だったら。
「ああ、いいよ」
ほんのちょっぴり痛む胸を抱えて、僕は頷いた。
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