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今日は変な日だったと振り返るのであったが、大事なことを忘れていた。読んでいた本が途中だった。あと少しだったのに。タイトルが思い出せない。検索しようにも主人公は名前がなく、好意を抱く「鶴」の名前しか覚えていない。作家の名前も漢字が並んでいたことしか覚えていない。続きが気になって仕方なかった。
次の日、出勤時、古本屋を見たがシャッターが下りていた。いつもこの時間はシャッターが下りているのだし、それはそうかと思ったが、帰宅時も気になっていた。次の休みに改めて寄ってみようと思った。
金曜日の九時、店に向かった。シャッターは閉まっていた。諦めてそのまままっすぐ行ったところにあるショッピングモールで買い物をすることにした。
十五時。帰り道、店の前を通るとシャッターが空いていた。店先にはスポーツタイプのバイクが停まっており、店の奥を覗くと店主の玉座に体育座りをして本を読んでいる男性がいた。フミだ。めがねをかけていた。この前のサングラスの印象からかなり柔らかいものになった。意外とかわいい目をしている。私はおそるおそる店内へ歩みを進める。ガラスの戸を超えたところで、フミがこちらに気づいた。
「あ、鶴ちゃん!」
フミは、私を見るなり本にしおりをはさみ、玉座から出てこようと、本の塔を崩さないよう慎重に体勢を整えた。
「これ、忘れていったでしょ」
やっとのこと玉座から出てきて、積まれた本から差し出したのは、「お目出たき人 武者小路実篤」であった。
「忘れていったというか……」
忘れたわけではない。店の商品なんだから。
「サネアツ、好きなの?」
「いや…そういうわけでは…」
フミは、なぜこうも前のめりに話してくるのか。ペースを握られているような気がして、腹が立つが、やっと思い出した。
「”むしゃのこうじさねあつ”ね!」
そう武者小路実篤だ。中学のとき習った。私の快感をよそに、フミを目を丸くした。
「え、知らなかったの」
「何か勘違いされているようですが、私文学少女でもなんでもないし、その本だって、この前たまたま手に取ってただけです」
「いや、少女って年じゃないでしょ。それにたまたまそれを手に取るなんて、なんていうかやっぱ素質あるっていうか……」
急に恥ずかしくなった。なんか見透かされているような気がしたし、自分が変態なような気がしてきた。フミは笑っていた。
「あ、いや、確かに少女ではないですけど」
「これ差し上げますよ」
そういって、「お目出たき人」を紙袋に入れた。私は黙って受けとった。
「店主の方は、どうなったんですか」
おそらくフミは悪徳業者とかではないのだろう。こんなのんきな犯罪者がいるはずがない。近親者なのだろうと聞くと、この前のパイプ椅子を持ってきて、私を座らせた。
「……俺のじーちゃんなんですけど、去年、急に倒れて。そのときは何とかなったんすよ。で、この前は、検査の日で。即入院になりました」
決していい話ではないが、フミが店主の孫で会ったことには安心した。この本屋の安全は守られたようだ。
「大変だったんですね。で、代わりに店をしていると」
「まあ俺、そこそこ暇なんで。それも再読しちゃいました」
フミはそう言って、私が持っていた本に視線を移した。
「まあ、俺も近いとこあるし。近所にいた女の子好きになっちゃうとか」
そう言うフミに少し安心した。誰しもこういう気持ちだけが先走ってしまうことがあるのだ。
「私も塾の先生とか一方的に好きだったとかありますよ」
ぼそっと言ってしまって恥ずかしくなった。フミは、まっすぐに私を見た。きまり悪くした私は、そのまま「お目出たき人」を開いた。
秋葉先生の話には続きがある。大学に入ってすぐに、カフェでアルバイトを始めた。普段通りに接客をして1か月ほどたったある日、注文を受けたその客は、秋葉先生だった。気づいたときは、手が震えた。声も震えていたかもしれない。もちろん先生は、私の存在に気づかなかった。ブレンドを頼んだ先生は、カウンターで受け取り、窓際の席に座り本を広げた。読書をしに来たのか、時間をつぶしに来たのか、この店にはよく来るのか。考えを巡らせた。決して混んでいない店内で、私はスタッフにも、もちろん先生にも気づかれないよう、ずっとその姿を見ていた。白いコットンシャツにチノパン姿。大きな背中。その姿を見て、自分で鼓動が速くなるのが分かった。少ししていつも来る男子高校生を接客した。私が通っていた高校の制服だから覚えてしまった。男子高校生は席を探しながら、先生の存在に気づいたようだ。男子高校生が声をかけると、先生の隣に座った。塾の生徒だったのだろうか。親しげに話す二人を見て、うらやましく思った。私も自然に声をかけられたらいいのに。そんな姿を見ていたら、「おつかれ」と声をかけられた。もう交代の時間だった。このチャンスを逃すまいと、急いで着替え、バイト先でコーヒーを飲むことにした。近すぎず、遠すぎない位置に座り、耳だけ彼らに向けていた。話は男子高校生の恋バナだったようだ。ときどき笑い声が聞こえる。過去の塾の生徒の恋バナを聞いてあげるなんて、先生はなんてやさしいんだろう。そう思っていると、二人は帰り支度を始めた。トレーを片付け、店を出ていく。こっそり見ていたつもりだったが、帰り際、男子高校生と目が合ってしまった。まあいつもの高校生だから、ふと目が合ってしまったところで大丈夫。先生にばれていなければ。そう思った。
それ以降たまに、先生がやってくるのだった。前々から、常連だったのかもしれない。私は、先生に会うためにバイトをしているようなものだった。先生は、まだ塾講師を続けているのだろうか。いや、もう大学は卒業しているはずだから社会人なのだろう。来るときは平日、いつもラフな恰好で二十時ごろにくる。もちろん私のシフトの関係上、確認できるのはおおよそ平日の十九時から二十三時までなのだが。たまにPCを持ってきては、何か作業をしているようだ。どんな仕事をしているのだろう。彼女はいるのだろうか。中学生からでさえ、モテていた先生なのだからいるに違いない。でもこんな時間にいつも一人でいるなんてもしかしたら、フリーなのかもしれない。そんなことばかり考えていたが、声をかけることはしなかった。
そのうち、いつか先生から何かしら声をかけられるかもしれないと思うようになった。「前から思ってたんだけど、俺の生徒だった?」とか「どこかで会ったことあるよね」とか「実は、君に会いに来てたんだ」。そうなったらどう応えるのが正解か。「もしかして……秋葉先生ですか」「ずっと先生じゃないかと思ってたんです」「私もいつ声をかけようかと思っていて」とか。そのあとはどうしよう。なるべく話を続けて……。最終的に付き合えたらどうしようなどと期待ばかりしていた。あるとき先生は、先生と同い年ぐらいの少し派手めな女性を連れて、店にやってきた。そのあとも何度か、二人で店にやってきたが、私はただの友人だろう、兄弟かもしれないと思い続けた。しかし、私はまたやってしまったのだ。二人の後を追いかけてしまった。以前の自宅ではなく、知らないアパートについた。女性のアパートのようだった。それ以降またそのアパート周辺をうろついてしまうことがあった。先生は、この女にたぶらかされているんじゃないかと思っていた。しばらくすると先生は、一人で店にやってきたので安心し、アパートをうろつくのをやめた。それ以降も、もちろん先生に声をかけられることはなく、声をかけることもなく、半年働いたところで、そのカフェは閉店することになり、先生への思いも薄れていった。
相変わらず「お目出たき人」の主人公は、鶴におぼれていた。電車で鶴を見かけ、自分の後を追う鶴の姿に夫婦の姿を重ねていた。その後、鶴は別の男性と結婚したにも関わらず、主人公はそんな中でも、結婚は鶴の意思ではないと、最後まで鶴は自分に恋していたと信じる姿に、胸が詰まる思いがした。私はこの主人公とは違う。人並みに付き合うこともしてきたし、先生と結婚だなんて考えてないし、違うから。誰にも何も言われていないのに、精いっぱい反抗した。過去のことは私しか知らないのだから、そう焦ることもないのだと言い聞かせた。
最後の奥付のページをめくり、、思わず本を放した。手放した本は、鈍い音をたて、床に落ち、ほこりが舞い上がった。
「え、どうしたの」
遠くでフミの声がした。
「秋葉……」
奥付に「秋葉」という印が押してあったのだ。
「ああうち、屋号は春秋屋なんだけど、本当は秋葉書店て言うんだよね。ややこしいよね」
心臓が騒ぎ始めている。
「ちょっと待って。君は…誰……」
私は、なんだかよくわからなくなり、ただそう、小さくこぼした。
「なんか思い出したりした?アキバセンセイとか?」
フミは、余裕の顔を浮かべているが、私は気が気でない。
「どうして、それを……」
フミはめがねを外した。その顔で思い出した。カフェによく来ていた高校生だ。
「やっと気づいた?俺さ、子供のとき、気になる女の子の後つけていったら、兄貴がバイトしてた塾に着いたんだよね。で、高校も同じところに行っちゃって。バイトしてる先のカフェも見つけて通っちゃった。でも君に何もしてない。君も気づいてなかったみたいだし何もない。君も兄貴に何もしてない。お互い無罪でしょ。おあいこってことで」
本当に訳が分からなくなった。あのときの高校生が秋葉先生の弟?その弟が、私を見ていたってこと?
「俺だって驚いたよ。ツルちゃんがあんなタイミングで、それ読んで、店にいるんだもん」
「えと…どうしたらいいですか」
私を丸裸にされたような気分だ。申し訳ないし、怖いし、気持ちの整理がつかない。なぜか進退を乞いてしまった。
「俺からしたら、ラッキーって感じなんだよね。今更だけど、兄弟なんだから俺でもいい気しない?」
この新手のナンパにどう答えればいいのだろうか。
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