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 急に休みになった。というか、休みだった。 私は、しっかりシフトを確認して間違えずに出勤したのだが、人事の人が私にだけ訂正前のシフトを回していたのだ。事務所に入るとみんなの視線を感じた。そういうことだった。  こんなに天気がいいのにスーツじゃこのまま遊ぶに遊びに行けないじゃないか、お弁当まで持ってきてなんて考えていたが、そんなネガティブな思いを引きづってこのまま休みを過ごすのはもったいないと、これからの時間の過ごし方に考えを巡らせながら、駅までの道を歩いていた。  まだ9時だ。駅までの道のりのアーケード街は、3件に1件はチェーン店だが、小さな商店街という風情を残していた。ファーストフードやチェーン店などは空いていたが、ほとんどの店は準備中で、シャッターが閉まっていた。出勤前や帰りの様子と状況は一緒だと思っていたが、角の店がシャッターをちょうどあげているところだった。あの角はなんの店だったか。歩く速度を緩め、店を覗いた。薄暗い古本屋だった。店先のワゴンには日に焼け、色あせた小難しそうな本が並んでいた。目に留まった背表紙の作者のこの字面は見たことがあるような気がするが読めない。普段本を読まない私には、一生読む機会などないだろう。店の奥には、古い本が所せましに置かれる中にまぎれて、小難しそうな本を読んでいる老人がいた。白髪に啜れたチェック柄のシャツにベージュのエプロン。いかにも店主といった風格だ。こっちの様子に気づくこともない。気づいてもきっと読みつづけるのだろう。そんなにその本はおもしろいのだろうか。なんという本を読んでいるのだろう。私が凝視していると、店の前に黒いセダンが停まった。私の横を誰かが通り過ぎた。なぜか焦って、先ほどの読めない作者の本を手に取って、さも読んでいる風を装った。濃い色のレンズのめがね…サングラスと言っていいだろう。それをかけ、黒いパーカー、細めのチノパン姿の男性は、まっすぐ店主の方へと向かった。 「じいちゃん、忘れてないよね」 店主に声をかけていたたが、聞こえていないのか無反応だった。 「行くよ」 さきほどよりも大きめの声で男性がそう言うと、 「フミか、どうした」 「そんなことだろうと思ったわ。今日って言ったじゃねえか」 「じゃあ店を閉めてから」 「そんな時間ねえから」 「そういうわけには」 こばむ店主に、男性は私の方を見て、サングラスごしに私を見て、驚いた様子の彼は、歩み寄ってきた。 「あの…すいません。ちょっとだけ店番頼めません?俺、すぐ帰ってきますから」 二十代前半だろうか。結構な内容のことを軽い感じで話してくる。 「え、いや、私は…」 本当に、たまたまいただけの私が、店番なんてそんなのできるわけない。 「大丈夫。誰も来ないから。いてくれるだけでいいんですよ」 「あ、はあ…」 勢いに押されて、生返事をしてしまった。 「ほら、じいちゃん。ツルちゃんが、店番してくれるから大丈夫。じゃ、よろしくお願いします」 そう言って店主を後部座席に乗せ、フミと呼ばれた男性はセダンを走らせて行ってしまった。店主は、おとなしくしていた。若そうなのに、黒いセダンとは何者だろう。別に忙しくも、このあと用事もあるわけでもない。お弁当もある。古本屋なんて、しょっちゅう客が入るものでもないだろう。それなりに店番をこなせる気がしてきた。それにしても見知らぬ客を店番にしていいのだろうか。だが、仕事モードで家を出た私にはちょうどいい暇つぶしになるような気がする。そんなことを思いながら、先ほどの「フミ」の言葉を思い出す。私はツルではない。なぜツルちゃんだなんて、彼は言ったのか。考えを巡らせながら、両手に広げていた本を見ると、「鶴は自分に恋しているのだ」などと書いてあった。
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