僕は明かりをつけるみたいに暗闇を消した

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僕は明かりをつけるみたいに暗闇を消した

 僕はたぶん。  何も悪いことなんてしてない。 これまで生きてきた十六年間。過去はもちろんのこと。この先の未来だって。  たぶん。  多少の、対象となる事案があったとしても、これは絶対に釣り合わないはずだ。  なんで神様は僕に、こんな罰を与えなくちゃならなかったのだろう?  山本和明、どこにでもある名前さ。 同姓同名の、どこかの山本和明と間違えたんじゃないだろうか?  そうだよ、間違えたんだよ。きっと。  僕は普段、神様に願ったりしないんだけど。こういうミスだけはしないようにお願いしたいよ。  僕は今、暗闇の中にいる。  これが真の暗闇というんだろうね。なんも見えやしない。  得も言われぬ恐怖はあるけれど、その恐怖があまりに現実離れしていて、そのぶん冷静に考えることができてる。  何もかもが失われて、真っ暗になった世界に僕はいる。  僕は、今。ん?  これって?生きてるよね?  まさか、気づかぬうちに死んでないよね?  深く息を吸い込んでみる。  そして、ゆっくりと吐いてみる。  心臓が、身体の内部で激しく音を立てているのがわかる。  身体が小刻みに震えてる。  心臓の音が、身体の外部からは心細く伝わってくる。  身体の小刻みな震えによる振動に運ばれるように。  ボディソープの細かい泡に包まれているように、やさしく梱包され、肌の上の小人達がそれをバケツリレーで僕の耳まで届けてくれる。 「生きてる。うん、い、生きてる」  口に出して、声で。その声を耳でも確認してみる。  真の暗闇の中だ。  目の前は真っ黒だ。目蓋が開いているのか、ぱちぱちと瞬きをして確認してみる。  開いた状態でも閉じた状態でも、変わりはなく目の前は真っ黒だ。目の粘膜まで真っ黒で、それが眼球にへばりついている錯覚がする。激しく目を擦ってみるが何も変わらない。おそらく今、僕の目は真っ黒じゃないだろうか。 「おい、シロヤギさん。どうしてくれるんだよ?あんたのせいじゃないのかい?」  おそらく隣にいる気配だけは感じるそいつに語りかける。恐怖と怒りが入り混じって、乱暴な言い方になってしまっていた。それは言いがかりだった。 「そう言われましても、この状況は、私にも理解の範疇を遥かに超えてしまっています。ただ」  シロヤギさんは僕の左側の少し後ろにいる。シロヤギさんの声はか細かったけれど、他には一切の音もないこの暗闇の中では、僕の耳にしっかりと届き、彼の息遣いと相まって、耳の中の内側の壁を不意にくすぐった。僕はぞくぞくっ、となりながらも彼の言葉の続きを待つ。意味はないがその方向へ顔を振り向かせてもみた。どんな動作をしたところで、目の前は真っ黒だったけど。 「この暗闇は、あくまで一時的なものです。それはこの私にもわかります。一時的です。はい」 「ほんとかよ。停電みたいなもんなのかよ」  声のする方へ身体ごと向けて彼に文句を言う。彼に文句を言ったところで、どうこうなる問題ではなさそうだけど、僕には彼に文句を言う権利が十分に、十分過ぎるほどにあった。  川上遥。高校二年。  三か月前。うん、もう三か月が経つのか。僕は彼女とクラスメイトになった。可愛い女の子だなってのが第一印象。背も小さくて、いわゆる守ってあげたくなるタイプの女の子。髪はいつもポニーテール。  ほんと、ただ、それくらいだった。  学校では大して話すきっかけも機会もなかったし、それを積極的に作ったりすることもせずに、気づけば出会いの春は去り、次の季節がその後釜に当然のように居座っていた。  二週間前の、午後の授業まえの記憶が、おでこの小さな画面に再生される。 「これ」 「えっ?」  僕は自分の席につこうとしていて、その途中で消しゴムを拾う。小さいやつ。  川上遥の席の近くだったから、それを彼女に見せた。その小さいやつ越しに見た彼女の顔。不意を突かれて驚いた表情。笑顔とはまた違う印象のそれに惹きつけられた。  でもすぐに、真後ろから声がして、「それ、あたしの、ありがと」と別の女子の声がして、教師が教室の扉を開ける音もして。僕は消しゴムをその女子に渡し席についた。 「これ」に対して、「えっ?」  それが川上遥との、僕が記憶している中では最新の会話だった。  思えば僕は、出会いの春に川上遥に声をかけるべきだったんだ。  そうしていれば、何かが少しは変わっていたのかもしれなかった。  僕らは高校二年のクラス替えで、初めて出会ったんじゃなかったんだから。  東京都杉並区の小学校。二年の夏休みが終わるまで。僕らは少なくとも一年と何ヶ月間か、同じ学校に通い、それも割と仲良くしていたんだ。その小学二年の夏休みだって、よく一緒に遊んでたよ。4、5人のグループで近所の公園に行ったり、ちょっと離れた山の方にある自然公園にも行ったりした。今も可愛いけど、あの頃からすでに可愛いかった。4、5人のグループでよく遊んだけど、僕は彼女しか見ていなかった。なんなら彼女以外のメンバーが誰だったのかさえ覚えがない。  たぶん、初恋だった。  夏休みが終わってすぐに、彼女は愛知に引っ越すことになったってことで、転校してそれきりに。  かなりショックだった。  それからの僕の小学生日記は、ほんとに味気のない、思い出のかけらもないものになってしまって。  小学生の頃を思い出すときはいつも、一年から二年の夏休みまでの記憶をチョイスする。頭の中はそう設定されてしまっていた。いわゆる甘酸っぱい思い出だけが、僕の小学生の思い出だった。  なのになんで忘れるかね。  川上遥の顔を。いや、名前も。  甘酸っぱい初恋の思い出はなんだったんだよって!  僕は今、辺り一面真っ黒な、暗闇の世界にいるけれど。  世界がそうなる前、ほんの十五分くらい前に、僕は彼女からの手紙を受け取ったんだ。 「ほんとにラブレターだったよね?」  僕は悪態をつきながらシロヤギさんに訊いた。 「はいっ、まず、間違いありません!」  彼は責任を感じているし、申し訳ないと思っている。暗闇の中で、声の印象だけでもそれは伝わってくる。  シロヤギさんは郵便局員だ。  名前を知らないから便宜上シロヤギさんと呼んでいるが。それは彼が山羊で、毛色が白かったからだ。白といっても真っ白じゃない。クリーム色といったら聞こえはいいが、なんか薄汚れたような茶色っぽい白だった。  僕は驚いたよ。  川上遥から手紙が届いたことはもちろんだけど、そんなことよりも。  そんなことよりも、とか言いたくないけど、そんなことよりも。郵便局員が人間ではなく山羊だったことに驚いたよ。  で、『やぎさんゆうびん』って童謡の話をするけど。  シロヤギさんが送った手紙をクロヤギさんが読まずに食べてしまって。クロヤギさんは、仕方がないので「さっきのお手紙、ご用事なあに」とシロヤギさんに手紙を送るんだけど、その手紙を今度はシロヤギさんが読まずに食べるわけ。そんな風に川上遥からの手紙をシロヤギさんは僕に手渡す前に食べたんだ。郵便局員でありながら、その職務を全うせずに。  そのことについてシロヤギさんは「つい、うっかりと」と弁解をした。 「配達中の手紙を食べるほどお腹を空かせていたわけでもないし、昼食はしっかりと食べたのでむしろ満腹だった」のだとも言っていた。  次の配達が僕の家で、彼はその手紙を早々と手に持ったまま自転車をこいでいて、交差点の信号待ちでぼんやり考えごとをしていたら、いつの間にか手紙を口にしていたのだと説明した。けして空腹を満たすためではなく、爪を噛む癖のような行為だったのだと彼は真剣に弁解していた。  結果的に手紙は、全部ではないのだけれど、三分の一ほど齧られてしまった。 そこに書かれていた文章を、読むことができなくなった手紙を受け取ることになった僕としては、彼が空腹だろうがなかろうが、爪を噛む癖のような行為であろうが関係なく腹ただしいわけで、よくも郵便局は手紙を食べる山羊を雇ったもんだ、と彼に怒りをぶつけたんだ。彼はもちろん自分のしたことには反省をしていて、謝ってはいるのだけど、僕のぶつけた怒りについては反論した。  人間だって、人間の郵便局員だって、配達しきれない手紙を川に捨てたり、自宅に隠したりする者がいて、ニュースになったりするではないか、と。山羊だけが特別に問題なわけではないというのだ。 「勤続五年になるけれど、これまでにそんなことはなかった。今回が初めてなんです」と彼は言った。勤続五年で初めて彼は配達中に手紙を食べたのだ。『やぎさんゆうびん』の歌のように。  人間の郵便局員だって、五年も務めていればその間に何らかのミスもするだろう。ある人は配達車を電柱にぶつけたり、ある人は郵便物を紛失したりするかもしれない。ある人はお客から集金した現金を横領だってするかもしれない。そう考えるとシロヤギさんが言うように、山羊だからダメだということもなく、たまたま起きたアクシデントのように思えなくもないなと納得しかかっていた。  そんな僕を前にしてもシロヤギさんは、ミスはミスとして自分を許そうとはしなかった。大事な人からの手紙を食べてしまったという罪に苛まれて、腹を切ると言い出した。 「すぐ近くに外科医院があるんです。私はそこで腹を切ります。まだ胃の中で手紙は消化されてないかもしれません。千切れた断片であっても、それをパズルのように繋ぎ合わせれば、そこに書かれている内容がわかる可能性はあります」  僕は外科医院じゃなくて動物病院だろ、と思ったのだけど、どっちにしてもそんなことをさせるつもりはなかった。 「そこまでしなくても。もう、仕方がないことだから。『やぎさんゆうびん』の歌じゃないけど、差出人に「ご用事なあに?」と聞いてみるよ」  とシロヤギさんを宥めた。  それでもシロヤギさんは引かなかった。 「その残りの部分の手紙の文章を見る限り、それはラブレターのようなものではないかと思われます。差出人の女性はどんな想いでそれを書いたことか。それを想うと胸が痛みます」  その痛みを考えたら、腹を切る痛みなどどうってことないと彼は言った。麻酔が効いていれば痛みすらない、とも。  僕は僕で、自分で言ったものの、川上遥にもらったラブレターの可能性がある手紙のことを、本人に「ご用事なあに?」とは絶対に聞けないだろうなと思い直していた。 「腹を切るしかない」とシロヤギさんがそう言って。 「いや、何か別の方法を」と僕が答えた瞬間に、それこそ停電したみたいに辺り一面暗闇になったんだ。 「どうなってるんだ!」  僕は暗闇の中で怒鳴り声をあげた。  なんなんだ、この状況は?  で、そもそもなんなんだ、山羊の郵便局員って。なんで山羊が郵便局員やってんだ。  それも、よりによって川上遥からのラブレターかもしれない手紙を食べるなんて。 どこからか怒りが湧いてきて、あらゆる不満が一気に放出した。  世界が暗闇になってから十五分くらいが過ぎただろうか。  目の前が真っ黒で、もちろん視界が奪われていたが、それとは関係なく(いや、関係あるのか?)時間の感覚も奪われているようで、過ぎた時間は五分かもしれないし三十分かもしれないと、自信がなくなってきていた。  このままこの暗闇にいたら、もっといろんなものが奪われてしまいそうで、僕は暗闇に対する恐怖を、新たなる恐怖として感じ始めていた。  そんな矢先、僕とシロヤギさんしかいない、とりあえずはそんな暗闇の世界で、もう一つの、別の声を聞いた。 その声は僕の名前を呼んだ。 「こんにちは、山本さん」  とうとう僕は死に達してしまったと思うくらいにその声に驚いた。気を失う寸前だった。  死のお迎えかとも思ったその声の主は山羊だった。シロヤギさんとは別の山羊だった。 「山本さん、あなたに一言だけ忠告させていただきたい」  その山羊は言った。なんで暗闇の中でそれが山羊だとわかったのだろう。でもそれは人間の声ではなかった。人間の言語を習得した山羊の声だった。 「あなたが手紙を書くのです」  その言葉だけで十分だった。  なんやかんや言って僕は、自分からは何も行動もせずに、出来ない理由を探しては言い訳ばかりして、流されるままに生きてきたんだ。  高校二年になってからの三カ月間。いや、これまで生きてきた十六年間だってそうだろう。  そのくせ一丁前に受け身でいるんだ。いったい何様だ。  何が甘酸っぱい初恋だ。  顔も名前も忘れてたくせに。  その顔も名前も忘れてた相手に、ラブレターかもしれない手紙をもらって浮かれてさ。 「差出人の方には私から説明し謝罪させていただきます。その際、山本さんには手紙は届けられなかったと差出人の方には伝えます。いくらかの嘘はありますが、文章の一部が損なわれ内容が不明なのですから届いてないのと同じようなものです」  これはシロヤギさんが言った。 「災い転じて福となす、かもしれません」と付け加えるように別の山羊が言った。  くどいようですが、と前置きをして、「差出人の方から、再度手紙を受け取るまえに、行動された方がいい」  迅速な行動を、と、彼はそう言っている。  思いのすべてをしたためよう。 「あなたが手紙を書くのです」  山羊の言うことは正解だった。神様の思し召しのように受け取った。  彼女に手紙を書くんだ。 こんな暗闇では書けやしない。  僕は明かりをつけるように暗闇を消した。  世界は明るさを取り戻し元どおりになった。  目の前にシロヤギさんはいなくなっていた。  幻だったからではないだろう。彼はさっそく差出人である川上遥に謝罪に向かったのだ。  僕の目の前にはシロヤギさんの代わりにクロヤギさんが立っていた。 「あとのことは、おまかせください」  クロヤギさんはそう言った。とても頼もしく、信用するに値する人間、いや山羊に見えた。  僕は小学生の頃に転校していった女の子のことを思い出していた。  当時、「はるちゃん」と呼んでいた。名字は「川上」ではなかった。そう。  さよなら、はるちゃん!  どれくらい泣いただろう。彼女がいなくなってからも、毎日のように思い出しては泣いていた。  たぶん、初恋だった。  思いのすべてをしたためよう。はるちゃんに、川上遥に手紙を書こう。  初恋の相手に、それこそ人生初のラブレターを。  シロヤギさんとクロヤギさんには感謝してる。神様ありがとう。彼らが僕にそのチャンスをくれた。  僕の頭の中では、永遠にループする『やきさんゆうびん』の歌が流れていた。  僕は口ずさんでみる。  これから僕が送る手紙は、そうしないで欲しいなと、少し不安に思いながら。その歌をうたってみる。
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