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天正十年(1582)六月一日夜、織田信長は京都の本能寺に僅かな近習とともに留まっていた。彼は、三か月前に仇敵であった武田氏を滅ぼしていた。また、四国は彼の構想通りに平定されつつあったし、中国の毛利氏との争いも大勢は決していた。もはや彼の前には、恐れるに足りる戦国大名は存在せず、天下布武への日取りが具体的に見えるようになっていたのである。
家督を継いでから三十年というもの、生と死の狭間を駆け抜けてきた彼にとって、人生において初めて、心安らぐ時間を味わっていた。
心が安定すれば、人に対する見方も変わる。半月ほど前、安土城で咎めた明智光秀のことが妙に気がかりになってきた。彼を叱責するため、近くまで詰め寄っただけなのに、家臣の間では、彼が「光秀を膝蹴りにした」と伝わっているらしい。信長は、黙々と仕えてきたこの重臣を労わってやりたくなった。「今夜書状をしたためれば、光秀が秀吉のもとに着く前に届けらる」と考えた信長は、いつになく慈愛に満ちた表情で、筆を執った。
「そのほうのはたらきは、常々感心して見ている。とりわけ、そなたの外交力は卓越している。余が足利義昭将軍とともに上洛できたのも、そなたのおかげであった。織田家への貢献は、計り知れないものがある。
先日、安土城でそなたを叱責したのも、家康殿がそなたを讒言したためだった。なにせ彼は、余の唯一の同盟相手であるから、彼の言ったことも、聞いたふりをしておかねばならない。家康殿は、武田攻めのおり、そなたがあちらの武将とつながって、余を裏切ろうとしていたと申しておった。後で調べたところ、そなたには、そのような形跡はなく、むしろ怪しいのは、あの狸のほうであることがわかった。
まことに、そなたは実直な男である。
またひとびとは、秀吉が飛ぶ鳥を落とす勢いで出世しているため、織田家第一の家臣と思っているようだ。確かに、武田を滅ぼすまでは、あの者のような非凡な才能が必要であった。しかし、敵がいなくなったこれからは、織田家には、「武」よりも「調和」が大切である。余はあの要領のよい猿を心の底からは信用できぬ。
そう考えて、家臣を見渡した時、そなたほど信頼できる男はいない。この度中国を平定した後は、秀吉よりもそなたを重く用いるゆえ、そのつもりで奉公に励んでほしい。
近いうちに、余も備中高松城を攻めている秀吉の陣に赴くので、そこでそなたと落ち合うことになるであろう。その時に今後の話をゆっくりとしよう。
天正十年六月二日
光秀へ
信長 」
翌日早朝、明智光秀は本能寺を襲った。信長は自刃し、建物には火がかけられた。そして信長の遺体とともに、この書状も灰となった。
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