1/1
前へ
/5ページ
次へ

 夢を叶えた先、輝いていた筈の光景は酷く(かす)んでいた。  イルミネーションの輝く街頭に立ち、自身の勤めるケーキ屋『ラーヴァ』のチラシを配る女──(たちばな)は、溜息をこぼした。  どうして自分はこんな仕事をしているのだろう。  橘は、幼い頃からケーキ屋に強い憧憬を抱いていた。 甘い物──特にケーキ──を食べると、人は誰だって幸せそうな表情を作る。 橘は両親が幸せそうにしているのを見て、自分も誰かを幸せにしたいと思ったのだ。  子供にありがちで陳腐な考えだが、橘は決してその憧憬を捨てることは無かった。 周りの友人が夢を変えていく中、橘はパティシエになるために専門の大学を卒業し、晴れて今年からラーヴァで勤めている。  ラーヴァは、橘がケーキ屋に憧憬を抱くキッカケを与えてくれた、人生の導のような店だったのだが、 「こんなクソ寒い中、チラシ配りなんて……」  しかもサンタのコスチュームという、邪魔なおまけ付きだ。 「たっちー、表情硬いよ?」  橘がげんなりする横で、同じ格好をした同期の宮本(みやもと)が、揶揄い口調で声を掛ける。 宮本もまた、パティシエの枠組みでラーヴァに入社した。 「そんな時だからこそ、ここのケーキじゃない?」  宮本の差し出したチラシに、橘は大層つまらない表情を作る。 今の仕事に対する嫌気が増した。 「私さぁ、こんな寒い中立つために入社したんじゃないよ」 「それはあたしだって同じだよ。 でもさ、たった三十分じゃん」 「三十分でも嫌なの。 ちっとも受け取ってくれる人いないし」  宮本の抱えるチラシの量の倍以上を、橘は抱えていた。 宮本は飲食店のバイト経験があり、コミニュケーションは橘よりも長けていた。 「そんなの適当に愛想振り撒いときゃ良いんだよ。 どうせ買うか買わないかはお客次第なんだし」  宮本は猫被りの声で、ラーヴァをご贔屓に、と披露してみせた。 「やっぱ私には無理。 性分に合わない。 これってハラスメントにならないかな」 「何ハラになるんだろうね」  ケラケラと笑う宮本はそれから、二人の前を通り過ぎた家族連れに狙いを定めると、早速声を掛けに行った。 仮にもあの家族がケーキを購入すれば、クリスマス当日は幸せそうな表情をするのだろうか。  橘がパティシエとして働き始めて気付いたことがある。  自分は、ケーキを食べて幸せになる人々の表情を伺えないということを。  常にケーキを作り続けているが故に、お客がケーキを購入する姿さえ殆ど見たことがない。 果たして自分の作ったケーキで、幸せになってくれているんだろうか。  どれもこれも全ては想像の中で完結された話で、やり甲斐に繋げるのは難しかった。 「まだ一年も経ってないのに」  減らないチラシを捨てたくなった。 今のご時世、SNSで発信すれば良いものを。 頭の固いおっさん店長は、トナカイの扮装をして街のどこかへと消えている。  自分が楽しみたいだけじゃないの? 「あー、ウザいなぁ」  あと何分だろう。  左手の腕時計を一瞥すると、まだ十分も残っていた。 正直、あと五分も耐えられるかどうかだ。  橘は仕事と自らの意思の狭間にいると、宮本が戻って来た。 「おっ、さっきと減り具合変わんないね」 「ねー半分こしない?」 「それはたっちーの仕事でしょー?」 「配らずにゴミになるよりかマシだよ」 「そうかもしれないけどねぇ……。 あっ、あの男の人に話しかけなよ」  橘の悩みを断ち切って、宮本は一人の男に狙いを定めた。 不躾に指を向けられていることも気付かずに、男はこちらへ歩み寄っていた。 顔を俯かせ、淀んだオーラが滲み出ている男に橘は同情してやった。 「いや、あの人はケーキなんかいらないでしょ」 「そんなの話してみなきゃ分かんないよ。 ほーら、行って行って!」 「え、えぇ……」  宮本は嫌がる橘を無理矢理男の元へ向かわせ、サムズアップを送った。  橘は背に腹はかえられぬと、精一杯の猫被りで男に話しかけた。 「あの、すみません」  男は何も言わずに顔を上げて、橘を見た。  やや無愛想な男との間に沈黙が降りぬよう、橘はさっとチラシを出して用件を伝えた。 「ケーキ、いかがですか」  暫し男が言葉を絞り出す間があって、 「いえ、結構です」  やっぱり!  男は特段申し訳なさそうにするでもなく、寧ろ逃げるようにして橘の前を去った。  宮本は橘の側まで来ると、惜しかったねと言った。 あまり気持ちは込められていなかった。 「私もうお店に戻る。 今日はもう精神が持たない」 「あと五分は残ってるよ?」 「これってサービス残業でしょ。 多少の我儘くらい見逃してくれないと」 「んー、まぁそっか。 店長も戻ってくる気配無いし、あたしも戻ろっと!」 「別に私に合わせなくても良いよ」 「ううん。 さすがに一人は楽しく無いからさ」宮本が白い歯を見せる。 「後で何か言われても私のせいにしないでね」  というわけで、二人はラーヴァに戻ったのてあった。  私服に着替え直し、宮本と別れた橘は、のらりくらり家路を歩いていた。 途端に寒さを覚えたのは、あのコスチュームが意外にも温もりを与えてくれていたからだ。 明日からはちゃんとカイロを持って行くべきだ。 コスチュームを恋しいとは思いたくない。 「……ん」  橘は、前方に人集りが生まれているのを見つけた。 立っているだけでも寒い中、人々は何か一点に視線を注いでいる。  何か事故でもあったのだろうか。  野次馬心で橘も人集りの一部に加わると、事故とは真逆の光景がそこにはあった。 ギターを構えた一人の青年による、路上ライブが行われていたのだ。  拍子抜けして場を立ち去ろうとする橘だったが、演奏されている曲が明瞭になった瞬間、胸裏を激しく掻き毟られる感覚に見舞われた。  そして、このまま聴き続けてはいけないと思った。 ややもすれば感情の(たが)が外れてしまう恐れがあったからだ。  一人暮らしをしているアパートに戻ってから、橘は通勤時に持って鞄の中を漁っていた。 大学の入学祝いに自分で買った鞄である。 中には筆記具やノートの他に、ラーヴァで用いる資料等が詰め込まれている。  全てを取り出すのは面倒で、手探りでアレを探しているのだが、なかなか姿を現さなかった。 「おっかしいなぁ」  あの青年のライブを耳にするまで、すっかり忘れていたことがある。  祖母から貰ったオルゴールの存在を。  祖母は、橘のことを幼少期から懇ろに接してくれていた。 今と比べ芯の弱かった橘に祖母は、泣きたくなったら空を見上げなさいと教えを説き、件のオルゴールを渡したのである。  今にしてみれば『上を向いて歩こう』の方が妥当だが、橘は気にしなかった。 あれを聴けば、旅立ってしまった祖母がいつでも自分を励ましてくれると思えたから。  そんな祖母の形見でもあるオルゴールを鞄に入れていたのだが、いつの間にか失くなっている。  一つ言えるとすれば、この数日間の内に失くしたということだ。 鞄の中でうっかり蓋が開いて曲が流れたのを聴いている。 「じゃあ、どこで……」  仕方なく中身を全て床に並べたところ、橘は鞄の底に空いた穴を見つけた。 穴はさほど広くないが、掌サイズのオルゴールなら簡単に落ちてしまうだろう。 落下音は積もった雪に吸収されたに違いない。 橘は目元を手で覆って天井を仰いだ。 「あぁ、もうっ」  支えを失った人間の心は、簡単に折れてしまう。  橘は、翌日のラーヴァを休んだ。  宮本や店長が咎めてくることは無かった。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加