呱々の声、形有るもの

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「止まって」  上も下も左も右も、全方位が暗闇に包まれた世界の中で唯一視認できたのは沙夜子の纏う白だけだった。 「目が慣れるまで少し待った方がいいわ」  入口も窓もなく、外からの夕陽が差し込んでも何らおかしくはない構造にも関わらず、一筋の光も入り込まない。闇は吉良が以前訪れたときよりも深くなっていた。こんな場所に何度も何度も通っていたのか、と思わざるを得ない。あるいは通う度に闇が深まっていったのかもしれないが。  息を潜めてひっそりと耳を傾けていた。時折掠める生暖かい風の音以外には今のところは何も聴こえてこないが、鼻につく臭いは一層強くなっていた。  誰かの息が急に荒くなる。 「まだ……っか!?」  呼吸は乱れ、何度も唾を飲み込む音が澱んだ空気を震わせた。 「まだ、もう少し」  囁き声が耳のすぐ傍で話されたような錯覚すら覚える。ごわんごわんと、耳がありもしない音を感知し始める。咄嗟に吉良は両手で耳を塞いだ。暗闇の中に長くいると距離感がわからなくなる。自分がどこにいるのか、二人がどこにいるのかわからなくなる。次第にぐるぐると視界は回り始め、目を閉じているのか開けているのかもわからなくなる。真っ直ぐ前に白い光がなければじっとなどしていられないだろう。  ぼっ、と火が点いた。ライターの炎が黒色の中を妖しく蠢いていた。吉良は息を呑んだ。灯りに誘われるように小さな顔が現れたからだ。 「消して!」  慌てた拍子に手を滑らせたのか、ライターが高い音を出して転がっていった。途端にむわっと吐き気のする臭いとざわざわと空気が揺れ動く音が漂い始めた。  今、見たのはなんだった? 顔……人の……顔。小さい顔だった。とても小さい。目鼻立ちはまだハッキリとしていない。あの顔は、あの形は。  光に導き出されるようにぼんやりと浮かび上がるのは、生まれたばかりの優希の顔だった。目もまだ開かず、頭も柔らかく常に眠っているような赤子の顔。ライターに照らされた顔は間違いなく、赤子の顔だった。 「おい、何が起こった?」  月岡の声が震えている。急にざわめきは鳴り止み、元の静寂に包まれていた。目が暗闇に慣れてきて、見えなかった輪郭が線を結んだ。あちこちに積まれた瓦礫の山。今にも崩れそうな柱。椅子や机、何かを示していたのであろう燃え残った紙くずが辺りに散乱していた。一階のフロアはかなり広く、診察室や検査室は直進した奥に残っており、今はもう来るはずのない、いや、本当にいたのかすらわからない病人を口を開けて待っている。右手奥には朽ち果てた階段があり、辛うじて二階へ繋がっていた。
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