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「ちょっとね、寝不足で」
あたしはごまかして、きんと冷えた水で顔を洗った。凍りつきそうな冷たさだけど、腫れたまぶたが落ちつく。
「それよりあなた、少し苔がついてきてるね。磨いてあげないと」
「いえいえ、彩さまにそんなことしていただくわけには」
付喪神が恐縮してぴょこんと飛び跳ね、縁から落っこちそうになる。
「いいのよ。手や口をすすぐところなんだから、きれいにしておかないとね」
そう、きれいにしておかないと。
あたしは濡れて光る手をそっと顔の前にかざした。
冷えた手は朝日の中でいっそう白くて、爪の紅がよく映えた。しばらくそうして見つめていると、付喪神が小首を傾げてあたしを見上げてきた。
「彩さま、どうなされましたかな」
「別に」
付喪神が差しだした手ぬぐいを受け取って、あたしは丁寧に顔と手を拭いた。
「さ、やろうか」
どこか不思議そうな付喪神が見守る中、あたしは手ぬぐいを固く絞り、手水鉢の表面を磨きはじめる。
「彩さま」
と、付喪神があたしの正面に飛び出した。手ぬぐいの上にぴょこんと飛び乗り、あたしの手を押さえる。
「お加減すぐれぬのでしょう。もう結構でございます。そんなおつらそうな顔で……」
「そんなことないわ」
付喪神をそっと押しやって、ふと、澄んだ水面に映るあたし自身と向き合う。まだ少し腫れぼったいまぶたのあたしは、なぜかまるで違う方向を見ているように思えた。
祈祷や御守りの浄め、参拝客の相手。黙っていてもやるべきことは次から次へとやってくる。
やらなきゃいけない。それがあたしの務めだ。わかっているのに、気がつけば心は上の空で、捗らないとこの上ない。
おさらばするつもりでいた場所、おさらばするつもりでいた務め。目に映る何もかも、ぐっと色あせて見えた。まるで自分との間に薄い膜ができているようだった。
ここの巫女や宮司が、神の姿を見る【神目】を持つ人間だったら、あたしの変化に気づいたかもしれない。だけど誰もあたしを見ない。誰もあたしを咎めない。
何もかもを歪んだ目で見ながら、あたしは密やかにいじけたまま、家内安全の神でいた。
正しくは……ふるまっていたのだ。
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