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 夢の中でコタに会うのは久々だった。  コタ…航太郎は、おれの双子の弟だ。  ただ哀しいことに、その存在を覚えているのは、この世界でたったひとり、おれだけ。 「起きよう」  泣くのは苦手だ。昔から、泣くぐらいなら笑ってやることにしている。本当に哀しいときに涙なんかで癒されてたまるか、忘れてたまるか。  航太郎がいなくなり、みんながその存在を忘れた日に、おれは涙を封印した。これ以上何も忘れないように、薄くならないように。  みんなに忘れ去られ――産みの親にすら――それでもなお、家族を助けてくれた航太郎に、おれができることなんてそれぐらいだった。存在を忘れ去られるよりも哀しいことなんて、ひとつもない。  泣くって行為は昇華だ。泣けば泣くほど感情は薄れて消えて行ってしまう。例えばおれが千葉のことを好きだったこと、千葉とするセックスが海の味がしたこと、千葉と過ごした片思いの3年間、その後奇跡が起こって付き合っていた7年間のことを、1mmだって忘れたくないし思い出になんかしたくない。 『なんで、互いに好きなのに別れなきゃいけないの?』と千葉は言った。そんなことこっちが聞きたい。でも聞かずとも分かっている。ヤツは、全部欲しいんだろう。おれという親友じみた恋人も、男としての矜持を満たすそれなりの出世も、親を安心させ社会的地位を築くための「異性の家族」も、どれも捨てたくないのだろう。  そこまで考えて、あまりにも自分に都合のいい想像だと気付き、笑いが漏れた。くたびれたような笑いだ。ぞっとするほど暗くて湿った。  これじゃまるで、千葉がおれのことを大好きだったみたいじゃないか。仕方なく女と結婚したみたいな、自分にとって気持ちいい妄想にすぎない。彼女がすごく可愛いのかもしれない。女の体のほうが良かったのもしれない。子供を作れるのはずるい、などと考え始めると生きてることすら辛くなってきた。呼吸するのも面倒だ。考えたくない。何も考えずに体を丸めて眠りたいのに、頭が冴えて眠れない。  アパートにどうやって帰ってきたんだろう。確か、ショックが大きすぎて、海辺を朝方までフラフラ歩いていた気がする。自分の家はすぐそこなのに、これから先ずっと一人で過ごす家に戻るのが辛くて、海の音を聴いて一人じゃないんだって思いたかった。海こそ、千葉を連想させる一番の代物だっていうのに。  痛む頭を抱えて、ベッドの上で唸り声を上げる。  そうだ、確か…砂浜で座って朝焼けを待っていた。昔、朝は未来で夜は過去だ、と教えてくれた人がいて、つらいときは夕暮れではなく朝焼けを見ることにしていた。朝は果てしなく赤くて、突き刺すように明るく、おれはその場に横になってしまった。どうでもいいや、と思った。どうせ、今日は仕事休みだし。 「一保さーん、寒くないの」  覗き込んできたのは、家主のなっちゃんだった。朝方になっても帰る気配のないおれを、心配して探し回ってくれたらしい。そういえば、カフェで店長をやるようになってから毎日早寝早起きしていて、外泊だってしたことがなかった。下の階に住んでいるなっちゃんは、喧嘩っ早いおれが 「またぞろ街でケンカでもしているんじゃないかと思って怖かった」 といって、笑った。  3月の海は寒い。千葉を送るためにコートは着ていたけど、外で一日過ごすなんて風邪をひきたいですといっているようなものだ。幸いおれは体を鍛えているので大丈夫だけど。 「……寒いよ。みりゃ分かんだろ、うちひしがれてんだ」 「毛布持ってきた。隣、座っていい?」  返事を待たずに、なっちゃんが隣に腰掛ける。砂で汚れるぞ、と声をかけたが、「一保さんだって」といって取り合わない。 「とりあえずコーヒーのみなよ。はい」  なっちゃんは、まるでおれがどこかで冷え切っていることを予見していたかのように、魔法瓶にいれたコーヒーを差し出してくれた。体を起こし、両手で包み込むようにして飲む。  あたたかくて、いい匂いがした。こちらを心配そうに見ているなっちゃんは、それでも、理由や原因を問おうとはせず、てのひらでポンポンとおれの頭を撫でた。 「泣くなら今だね」 「年上の頭を撫でるとは何事だ。なっちゃんと言えど許さねえぞ」 「出たー、めんどくさい体育会系の理論。年なんか関係ないよ、元気な人が元気のないひとを助ければいいんだ。生きるってそういうことさ」  のんびりとした声で言って、カラカラと笑う。暢気でいつも飄々としているなっちゃんは、近づきすぎず遠すぎず、いつも適切な距離をもっておれに接してくれる。この麻のようなさらりとした男に、仕事を辞めたばかりの頃、随分救われた。 「一保さんは、長い休みって取れないの?」  海風に前髪をさらわれながら、なっちゃんが微笑む。 「旅に出てみるのもいいと思うよ。人間はみんな、生まれつき旅人なんだから」  旅をしたいがために在宅で起業したという彼は、「行ってないのは入れない国と北極南極だけ」というぐらい、言葉通り本物の旅人だ。仕事は工業デザイナーだと言っていたが、おれはそれがどんな仕事なのか全く知らない。いろんな人が彼の部屋を訪ねてくるし、中には立派な身なりの人もいるから、きっといい仕事をしているんだと思う。 「ばかやろ。地面に縛られてる一般人は、長い休みなんかふつうとれねえの」 「そっかあ。一保さん連れて行きたい場所、いっぱりあるのになあ」 「たとえばどこだよ?」 「ううーん、近いところならシェムリアップとか」 「ああ、それならおれも知ってるぜ。アンコールワット観光の拠点地だろ?行こうとしたことあんだよな、」  千葉と、といおうとして絶望した。まさか、こんなところにまで千葉が隠れているとは。  話の途中で押し黙ったおれを追及せず、なっちゃんはさらりと話をつづけた。 「なんだ知ってたんだね。他は、そうだなあ。ドイツのクヴェードリンブルグ」 「へえ、そこはしらねーな。どんなとこ?」 「木組みの家々が並んでいて、夜の街を歩いていると絵本のなかに来てしまったみたいなんだ。本当にうつくしい街だよ」  ほかにもこんな国があって、こんな街で…。なっちゃんがゆるい声で説明してくれるのを、すっかり朝が降ってきた海をみながら聴く。数年過ごしたアメリカ以外、ほとんど日本を出た事がないおれにとって、なっちゃんの口を通して頭のなかに浮かぶ異国の風景は、まるで映画みたいに現実感がない。だからこそ助かる。いまは現実の事を考えたくなかった。 「僕らはね、行きたいとおもったらどこにだっていけるんだよ。勝手に縛られているような気になっているだけで」  なっちゃんからは、いつも自由の匂いがした。陸に縛られ、海に未練を残すおれにとって、彼のもたらす爽やかな風はある種の毒だ。 「……心配してくれてありがとうな。もう、帰るから」 「ン。じゃあ僕は先に行くね。毛布はもっていくけど、コーヒーは置いて行くから。好きなだけ飲んで、ドアノブにかけといて」 「わかった」  それからしばらくの間、海を見て家に帰った。今ベッドに横になっているけど、全く起き上がれる気もしないし眠れる気もしない。仕方がないので、ベッドから抜け出して部屋を片付け始めた。泣けもしないし眠れもしないのだから、体を動かすしかない。 「――店長、村山店長!」  気が付いたらコーヒーを淹れる手が止まっていた。慌てて「ごめん」と返事する。 「なんか最近おかしいですけど、大丈夫ですか?」  アルバイトの新見さんに心配されてしまい、ちょうど店に遊びに来ていたオーナーに声をかけられる。くそ、タイミング悪すぎだろ。 「なんだあ、カズ、調子わるいの?」 「変なんですよ、ここ一か月ぐらい。ずっと上の空だし、発注間違えるし」  本当にそれ以上はやめてくれ…という縋るような視線を無視して、新見さんがオーナーに現状を説明してしまう。 「特に、電話が鳴ったらびくびくしてて、あの…もしかして何か、犯罪にでも巻き込まれてるんですか?ならちゃんと相談してくださいよ!」  さすがにきかれるとマズイ内容なので、おれは慌てて人差し指を彼女の鼻につきつけた。 「しーっ!」 「おいおい。そうだなあ、そしたら来週、店が終わったころにおれ、もう一回来るわ。カズ、来週土曜はうちに飯食いにこい」 「ええええ…嫌ですよお…またきいちゃんの面倒見させるつもりでしょ」  きいちゃんというのは彼の3歳になる一人娘だ。奥さんともどもかなり世話になっているので、おれはこの家族に頭が上がらない。 「季理子の可愛さは天下一だろ~。お前ほんと、あんなに好かれて幸せ者め。おれなんかあれよ、おひげが痛い~つってな。抱っこしたら嫌がられるんだぞお」  もじゃもじゃの髭についたスチームミルクにも構わずに、相好を崩す。 「剃ればいいのに。変なアフロもやめてくださいよ」 「いいの。これはおれのキャラなの」  じゃあまた後でな。そう言ってオーナーが店から出て行く。大きく溜息をついたおれに、新見さんが追い打ちをかけるように「しゃんとしてくださいよ、店長」と言ってバシンと背中を叩いてきた。ものすごく、痛い。 「そういえば」  ラストオーダーも終わり、客もほとんどはけた時間帯、窓際に座っている男を見ながら新見さんが囁いた。 「あの人。ここ一年ほどでみかけるようになりましたけど、何者なんでしょうね」 「……あの超絶イケメンのことか。やっぱり女はああいう男がいいのかね~」  イケメンというよりも美貌といったほうがいい彼は、いつも窓際の二人掛けテーブルに腰掛け、コーヒーを飲みながら30分ほど本を読んで帰っていく。 「他の人はどうか分かんないですけど、あそこまでキレイだと逆に私はいけないですね。こりゃ迫っても無理だなって思うし、女抱いてるところ想像できない」  あけすけな物言いに苦笑しながら新見さんの視線を追う。あらためて男の頭の先から足の先までを、しげしげと眺めた。  烏の羽のような、毛先のはねた黒髪、長い睫毛、陶器のように白い滑らかな肌、キスするやつを呪ってやりたくなるぐらい形のいいくちびる。何より、目が合っただけで息が止まってしまいそうな、黒く濡れた鋭くて刺激的な双眸。老若男女ほっとかないどころか、声をかけるのもはばかられてしまうような美がそこにはあった。 「ああいう男でも、失恋とかすんのかな」  うっかり呟いてしまった独り言を、新見さんが聞き逃すはずはない。「失恋したんですか?!それでそんなに薄汚くなって落ち込んでるんですか?」と突っ込みと同時に悪口をねじこんできた。 「私とかどうですか、結構店長のこと好きですよ」  店にいま彼しかいないことを感謝した。それでも大きな声だったのできこえたらしく、彼がこちらを振り返って様子をみている。 「えっなにいってんの。……え?」 「店長顔かっこいいし、力も強くて男らしいところあるし、いいなあって思ってて」 「今する話じゃないだろ、その、あとできくから」 「後でだと、店長逃げるじゃないですか。今返事きかせてください」  どこまで本気なのか判別できないのは、おれが今とても疲れているからだろうか。それとも彼女の口調が、コーヒーのオーダーを伝えるときのように冷静だからだろうか。  視線を落とす。声も表情も変わらないけど、彼女の指は黒いエプロンの端をぎゅうっと握りしめて震えていた。自分が千葉に想いを打ち明けた日のことを思い出して、心臓が痛くなる。真剣じゃない恋なんか、あるもんか。  男がこちらから目を逸らす。多分聞こえていると思うけど、あえて聞こえないふりをすることに決めたらしい。今立ち去るのも不自然だし、と迷うそぶりが見えたから、おれはあの名前もしらない美しい男に、はじめて好感を抱いた。なにしろ彼は、あるときは『体格のいい、精悍な顔立ちのいい男』を、またあるときは『少しくたびれた雰囲気はあるが、端整で独特の色気がある男』を、ときおり『甘い顔立ちの、みるからに年下のスタイルのいい男』を連れていた。つまりいい男ばかり、とっかひっかえ。内心(お盛んな事で)と揶揄したりしていたのだ。自分の恋愛がうまくいかないことによる、妬み嫉みでしかなかったが。  ちなみにここのところ美形男が連れてくるのは、『すこしくたびれた』男だけれど。 「ありがとう。新見さんが気持ちを伝えてくれたから言うけど…おれ、女の人ダメなんだ。愛情の対象にはできない、友人にはなれるけど」  気持ち悪いかな、ごめん。  新見さんが大きく目を見開いて、またしてもおれの背中をバシンと強く叩いた。 「みくびらないでください。誰が誰を好きになろうが、気持ち悪いなんて絶対思わないです。わたしをそういう人間だと思ってたなら訂正してくださいよ!」  ごく親しい身内しか知らない自分の性指向を、まさかこんなところで、アルバイトの女の子に告白するとは思わなかった。でも特別仲がいいわけじゃない子だからこそ、言ってくれる言葉が嬉しく、心底身に染みた。  男が立ち上がり、店を出て行く。  携帯端末で何か通話している横顔は、ひどく切なそうにみえて胸が詰まった。あれは絶対、恋する男の顔だ。しかも対象者は俺と同じ、同性に違いない。
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