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広島駅に到着すると、すっかり日が暮れていた。雨は止んでいるが、アスファルトは濡れて光っている。  疲れたのか、成一が両腕を空に向かって伸ばしている。隣で乗り換えを確認しているなっちゃんは、いつも通りゆったりとしていて特に疲れは見えない。 「一保さん、お腹空かない?」  すぐに呉線に乗り換えなければいけないのだが、眉を下げてお腹をさすっている成一を見るとかわいそうになってしまった。 「わーったよ、お前はそこで待ってろ、なんか買ってくるから。なっちゃん、すぐ戻ってくるから成一とそこにいて」  記憶をたどって、駅の構内を歩き、かつて好きだったお好み焼きの店を探す。大阪にいたころもお好み焼きは食べたけれど、正直言っておれは広島の方が好きだ。卵がたっぷり入っていてボリュームがあって、それでいて食べ飽きない。ビールとよく合う。  テイクアウトが出来るお好み焼きを3枚と適当な飲み物を買って、電車が来るまでの間、ホームのベンチで食べた。うわ、美味しい、と喜んでいる無邪気な横顔を時折眺めては、これから先のことを考え、弱気になる。そんな自分を叱咤するため、口いっぱいにお好み焼きを頬張り、味わって食べた。保大を卒業してからも何度か呉を訪れる機会はあったが、少なくとも数年ぶりの味だ。相変わらず、とても美味しかった。 「どんな時でもご飯は食べなきゃ」  成一ののんきな声に、今はとても癒されている。なっちゃんが笑って「そうだね」と同意した。 「それで、どこに行くの?」 「呉だよ。みりゃわかんだろ」 「それはわかってるけど、呉ってとても広いんだよ。呉のどこに千葉さんがいるのか、わかるの?」 「分かる。何年一緒にいたと思ってんだ」  きっぱりと言い切ったおれを見て、成一は少し悔しそうな顔をした。それがなんとも言えず愛おしくて、抱きしめたくなったけれども、なっちゃんがいるので我慢した。 「ここから呉まで50分ほどかかるから、着いたらもう7時前だよ」  ちょうど食べ終わったタイミングで電車がホームに滑り込む。ゴミを捨て、慌てて乗り込んだ。揺れる電車が呉駅に着くまでの間、今度は隣に座った成一にもたれて眠った。背が高いから、肩に頭を乗せるにはちょうどいい。指が、何度か髪を梳いているのを感じる。いつもの成一の匂い。同じ男とは思えないぐらいのいい匂いを、忘れないでいたい。 「着いたら起こすから、寝てていいよ」 「ありがと。……なあ、」  好きだよ、といいそうになって、慌てて口をつぐむ。伝えるのは、今じゃない。 「なに、最後まで言ってよ」 「うん、また今度な」  あるかどうか分からない、また今度が怖い。いや、だめだ。戦うと決めたんだ。  目を強く閉じ、深く息を吸った。おやすみ、という声を聞き終わると同時に、おれは意識を手放した。  呉に着いてすぐに、レンタカーを借りた。目的地には、ナビなんかなくてもたどり着ける自信があったから、自分で運転したかったけれど、成一が「疲れているだろうから、おれが運転するよ」と言って聞かなかったので、助手席に座って道案内をした。県道242号線まで進み、そのあとは国道487号線沿いに走る。暗い空には、呉の街明かりがぼんやりと浮かび上がっていた。  国道487号線に入ってすぐ、橋の手前で車をとめ、なっちゃんに車を預けて道路に出た。 「一保さん、成功を祈ってるよ。頑張って。…また、会えるよね?」  ドアを閉める寸前、なっちゃんが穏やかな声で言った。 「次に会ったら、うまいコーヒーおごってくれよな」 「もちろんだよ。気を付けていってらっしゃい」  目の前に、海をまたいで倉橋島へとつながる音戸橋がみえる。 「一保さん、ちょっと待って、ここなの?」  後ろから付いてくる成一に、携帯電話の懐中電灯をつけて尻ポケットに入れろ、と指示する。歩道のない、この暗い道路で歩行者が歩いているなんて、自殺行為に近い。  素直に言われる通りにした成一が、後ろからおれを追いかけてくる。暗い橋の上へ目を凝らし、目的の人物を探していると、背の高い影が、赤い欄干に手をかけて乗り越えようとしているのが見えた。 「千葉ッ!!」  大声で叫んで、走った。橋の下は潮流最大4ノットの海峡だ。この高さから落ちたら、まず助からない。  全速で走って、今まさに橋を乗り越えようとしていた千葉に体ごとぶつかって道路に転がった。幸いなことに、車が通る気配はないが、突然走り出したおれに驚いた成一が、少し遅れて追いつき、「何してるの!!」と怒鳴った。 「お前、何するつもりだったんだ」 「別に、死のうとしたわけじゃない。懐かしいなと思って見てただけさ」  肩で息をしているおれを押しのけて、千葉が立ち上がった。その様子は今無茶苦茶なことをしようとしていて人間には見えないほどに落ち着き払っている。 「一保さん」 「来るな、ナイフを持ってる。お前はそこにいろ!」 「そういうこと。邪魔者はそこで突っ立ってろ。…一保、よくここが分かったな」  5メートルほど離れた位置で、成一が立ち止まる。今なんて言ったの、と返してきた声は、狼狽で震えていた。  欄干に手を掛け、呉の町を見つめている千葉の隣に立った。無粋なナイフがこちらに向けられていたが、恐怖は全くなかった。こんなもの必要ねえのに、としか感じない。殴られることやのしかかられることが、あれほど怖かったはずなのに。 (大丈夫、僕がいるよ)  そう、今は航太郎と一緒にいるから、なんだって平気だ。怖くない。 「よくふたりで来ただろ。呉の街が一望できるから、好きだった」 「ああ。あのころはよかったよな」  どうして、こうなっちまったんだろう。  千葉のつぶやきは、迷子になったこどものように頼りなく、哀しげだった。 「どこで間違ったんだろうな」  おれは黙っていた。 「結婚したことか。浮気したことか。それとも、お前を好きになってしまったことか」  苦しげな声に、唇を噛んだ。潮風が千葉の髪を揺らし、おれの頬を撫でて通り抜けていく。  前を向いていた千葉がこちらを振り返り、じっとおれを見つめた。頬の傷、切れ長の目、笑うと細くなる目が、髪に触れる大きな手が、大好きだった。大好きだったのに。 「一保、前におれが、「お前が女だったらよかったのに」って言ったこと、覚えてるか」 「……ああ。めちゃくちゃ傷ついたからな、忘れられるかよ」  投げやりなおれの言葉に、千葉が情けなく眉を下げて笑った。 「悪かった。取り消すよ。一保が男じゃなかったら、知り合えてなかった。同じ場所で、同じものに立ち向かうこともできなかった」  成一が少しずつこちらに近づいてきている。心配が伝わってきて、心臓が痛くなった。嬉しい。それに、…寂しい。 「ずっと認めたくなかったんだ。男が好きなんじゃない、おれは一保が好きなんだと、自分に言い聞かせてた。自分のためだよ、自分を守るために。  でも、そんなのは嘘だ。おれは今の、ありのままの一保が好きだ。その見た目で、その体で、その心を持って生まれてきた一保の事が好きだ。好きだったんだ」  向かい合って、この距離で見つめ合うのはいつぶりだろう。右手に握られているナイフが場違いなほどに、優しい眼差しで千葉が言った。 「今まで、傷つけて悪かった」  胸の奥から熱い塊がこみ上げてきてそのまま、眼からこぼれおちていく。 「一保、ここから一緒に、飛び降りてくれ」  ナイフの切っ先をおれの心臓に向けて、千葉が言った。ふざけるな、という叫び声と一緒に、成一が走り寄ってくるのを、右手で制止する。 「わかった。飛び降りてやる。でもその前に、ひとつ教えろ」 「一保さん、何、言ってるの……?」  怪訝な顔をした千葉が、「何だ」と問い返してくる。 「昔話してくれた、犬の事を教えてくれないか。川に流されて、自分も突き落とされたって言ってただろ。あれは、いつ、どこだ」 「どうしてそんなことを」 「いいから教えろ。それとも、もう覚えてないのか」  近づいてきた成一が、後ろからおれの左腕を掴んだ。その温もりに、必死な視線に、泣きそうになりながら歯をくいしばって耐えた。 「覚えてるよ。命日なんだから。7歳の頃、2月14日。バレンタインデーだった。場所は……太田川の、中流域のあたり」 「間違いないな?」 「ああ」  目を閉じる。千葉がおれの喉元にナイフを突きつけ「手を離さなきゃ首を掻き切るぞ。飛び降りる方がまだ生き残る可能性があるぜ?」と成一を脅した。成一が、殺意をはらんだ目で千葉を睨みつけ、「こんなのが愛だと思ってるのか。あんたは間違ってる」と低い声で唸った。 「成一」  おれの声が落ち着いていることに驚いたのか、成一がハッとしたような顔でこちらを見た。 「言ったよな。何があっても、おれを信じてくれって」  千葉を刺激しないように、遠回しな言い方しか出来ないことが悔しい。最後の最後ぐらい、「好きだ」って言いたかった。  ――たとえ、忘れられてしまうとしても。 「信じてるよ」 「うん、ありがとう。どれだけ時間がかかっても、おれ、おまえに会いに行くから」   成一の手を振り払い、千葉と一緒に欄干の上に立つ。千葉の手から、ナイフが海へと落ちていく。  風が強くて、今にも海の中へと落ちてしまいそうだ。海の中へ気を取られている千葉の一瞬のスキをついて、振り返って成一の襟首をつかんで引き寄せる。もう、我慢できない。言わないまま会えなくなるぐらいなら、忘れられてもいいから、言ってしまいたい。  泣き出しそうな顔をしている唇に、キスをして、言った。 「成一、好きだ。お願いだからおれのこと、忘れないでくれ」  手を離して、またすぐに立ち上がって海を見下ろす。後ろで成一が嫌だ、と叫んでおれを下ろそうとしたけれど、それよりも前に千葉が、おれの腕を強く引っ張って、橋の下に広がる海へ、連れて行こうとする。  一緒に死んでくれるのか、と聞こえてきた声は、どこか酔っているような響きがあった。体が宙に浮いて、両足が、欄干から離れていくのがわかる。眼前に広がる呉の街明かりが、視界と一緒にくるりと回った。死ぬ前はスローモーションに見える、っていうのは本当なんだな。死ぬ気なんかないのに、この数秒の間にそんなことを考えている自分がおかしい。  成一の悲鳴が聞こえる。それに風の音がうるさい。負けじと大声で、おれは言った。 「バーーーーカ!一緒に死ぬんじゃねえ、おれはな、」  繋いだ手の先に視線を走らせると、千葉が目を見開いている。ものすごい速度で落下していく体と、あっという間に遠のきかける意識。 (さあ、僕の力を使う時だ)  わかってるよ、航太郎。目を閉じ、強く念じる。 「千葉、お前を助けに行くんだよ!!」  そして未来を変えて、成一に会いに行くんだ。 (過去を変えて、まだ開いてない未来の扉をこじ開けてやろう) 「「おれたちふたりなら、できる」」  航太郎の声と、おれの声が重なる。目前に迫った海面が、白く光って歪んだ。  22年前の、2月14日へ――  おれを連れて行ってくれ、航太郎。
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