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赤い傘が目の前で揺れる。
仕立てのいいジャケットと、犬のようなまなざし。危うく救急車を呼ばれかけたこと。背中に背負われたときの、見た目よりもたくましい体の体温。
茶色い短い髪と、外国の子供のようなそばかす。琥珀色の目は笑うと色が明るくなること。数えきれないぐらい一緒にお酒を飲んで、音楽を聴いて、趣味が似ていることに驚いた。話す言葉が全部やさしくてまるくて、声が好きで、はじめて登山をしたこと。プレゼントされたブランケットが大のお気に入りで、毎日のように使ってたこと。
あれは、もう覚えていないだろうか。…覚えてるわけ、ないか。
リンドウの花を髪にさしてくれただろ。あれは、すごくグッときた。お返しにってお前の髪にもさしてやったけど、鮮やかな青は茶髪にあまり似合ってなかったな。あのときはじめてキスをして、そのあとすぐにセックスもしたな。指がやさしくて唇はやわらかくて、まるで自分がこわれものみたいに扱われてる気がしてくすぐったかった。
でも、あんなに気持ちいいセックス、したことなかったよ。本当だ。人生で一番のセックスだった。愛されてることも、愛してることも体を通してあふれるぐらい伝わって、たまらなかった。
もう一度だけ、会いたいなあ。
お前が、おれのことを覚えていないこと、忘れてるどころか、出会ってすらいないことになってるんだって、分かってるはずなのに。諦められなくて、つらい。会いに行くって約束したけど、本当はすごく怖いんだ。だってさ、知らない人をみるような目でお前にみられたとき、おれは耐えることができるだろうか?あんなに何度も一緒にメシ食ったじゃん、って言いそうで怖いよ。お前覚えてないってマジかよ、キスもセックスもしただろって、胸倉つかんで揺さぶってしまいそうで。
いや、そんなことしないけどさ。うん、嘘だよ嘘。だってお前はおれに出会ってすらないんだもんな。思い出なんか、はじめから「ない」んだから。仕方ないんだ。お前はおれを覚えてないんじゃなくて、出会ってない。つまり、始まってない。死に物狂いでお前を探して見つけたときにはじめて「出会う」わけで、それはもう仕方のないことなんだけど、率直にいうとこんなに、想像するだけで胸がかきむしられそうな気持ちになるなんて、思いもしなかった。
成一、おれだよ、一保だよ。
ほら、酒と美味しいごはんが大好きな食いしん坊の。いつも寝ぐせのついた、海に取りつかれたイケメンだよ。なあ、コーヒー何度もいれてやったろ、それなのにきれいさっぱりか、この恩知らず。
ダメだ。やっぱり死ぬほどつらい。嫌だ、嫌すぎて死にそう。頼むから思い出してくれ。無理なのは分かってるけど、忘れられたくない。やだよ。成一、…成一、返事してくれよ、なあ。
なんで、そんな困った顔すんの。なんで、知らないやつに話しかけられたみたいな顔すんの。ふざけんなお前、どんな思いでおれが、ここまで来たと――
…もうやめよう。夢にしたって、悲しすぎる。
ここはどこだろう。海の中だろうか。海面らしき場所から、光が降り注いで揺れている。泳いで、水面へと向かった。その先に、何があるかなんて知らない、分からないけれど、このままここにいたって何もはじまらない。
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