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 雨に濡れながら歩いている。  買ったばかりの夏物スーツは、濡れたせいで身体に張り付いて動きづらい。濡れた前髪のすきまから、これでもかとばかりに激しく降っている雨が、白くかすんで見える。  抜け出すはずだったパーティは、彼等の幸せそうな笑顔を見た瞬間、身体が凍りついたように動かなくなってしまって、結局最後まで会場にいた。  千葉が愛おしくて仕方ないように彼女をみつめると、彼女も同じ目線で見上げていた。美しい白いドレスにマリアベール、百合の花をあしらった真っ白なブーケ。色とりどりの花びらを投げる、彼女の友人たち。  絵に描いたような幸福がそこにはあって、おれはまるで絵画の背景、もしくはフレームの外の壁だった。どっちかっていうと壁のほう。ショックで白くなった壁だ。何も言えずに、救いを求めるように千葉をみていたら、目が合った瞬間に「ごめんな」と眼で謝られて死にたくなった。  謝られるような関係だったのだ、おれたちは。  目で謝って済む程度の思い入れだったんだ、あいつにとってのおれは。  「結婚するけど好きだ」って言われれば、喜んで足を開くようなやつだと、見くびられていたのか。 「なんで泣けねえんだろうなあ…」  こんなときこそ涙じゃないのか。泣いて、昇華して、忘れちまえばいいのに泣くことができない。悔しくて、惨めで、消えたいと思っているのにそれもできない。どうやって由記市まで帰ってきたのか覚えていないけど、いつの間にかおれは駅前のロータリーにいた。家に帰るにはバスに乗るか、あと数駅電車に乗らないといけない。でも限界だった。もう、立っていることも辛かった。  ベンチを見つけて横になった。雨がどんどん降ってきて、夏だというのに全身が震えるぐらい寒く感じた。それに吐き気もした。精神的ショックがここまで肉体に現れるのだとしたら、人間は思いのほか脆い生物なんだなあと他人事のように考える。――どうせなら、このままショックで心臓が止まったらいいのに。  目を閉じて強く願った。そうすれば、本当に意識が遠のいてきた。 「大丈夫ですか、身体の具合が悪いんですか?」  不意に、顔に落ちる雨が無くなった気がして目を開く。赤が見えた。 「ちょっとごめんなさい」  傘だ。  覗き込んでいるのは…少したれ目の、甘い顔立ちをした若い男だった。指がのびてきて、下まぶたをぎゅっとひっぱられる。 「…白いですね。貧血かな…。救急車、呼びましょうか?」  冷やしちゃだめです、と言いながら、育ちの良さそうな青年は自分の着ていたジャケットをおれの身体に掛けた。仕立てのよさそうな、品のいい彼にぴったりのそれは、やわらかくて軽くて、普段自分が着ている安物とは一線を画していた。 「いい……。救急車なんか呼ぶな。救急隊のやつらはああ見えて忙しいんだ」  おれの言葉に青年が、ぱちぱちと瞬きをしてから、声を上げて笑った。 「忙しいのは事実ですけど。必要なときは遠慮しなくていいんですよ」 「だから、今は必要なときじゃねえの。放っといてくれ、死にやしねえよ。死にそうなぐらいショック受けてるだけだから、そっとしといてくれりゃあじきに元気になる。日はまた昇るってやつ」  だんだん自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。  困ったように眉を下げた青年が、「放っとくのは無理ですね、仕事柄」と呟き、あろうことか、おれを背負って歩きだそうとした。 「う、わ!何すんだやめろ離せ」 「暴れないでくださいよー、うわ、おもっ。見た目より重いですね、村山さん」 「そりゃ鍛えてたから…ってなんでおれの名字知ってんだ」  驚いておとなしくなったおれをいいことに、青年は背負ったままどんどん歩いていく。その方向は…あ、おれの職場。 「秘密、と言いたいところですけど」 「うちの店の客か。お客様におれは今背負われてるのか」 「知人と、ときどきお店に」 「マジかよ。死にてえ」 「そう簡単に人って死なないものです」  あはは、と笑った青年の髪からは、清潔でやさしい匂いがした。染めていない、ナチュラルな茶髪は短くて、でもワックスでゆるく整えられているところが若者らしい。  ロータリーから店はすぐ近くの距離だった。真っ白な顔色で店に運びこまれたおれをみて、たまたま居合わせたオーナーは大慌てで「救急車!」と叫んであたふたしていた。おれが事務室のソファで横になりながら、「救急車呼ぶような事案じゃねーですから」「落ち着けよアフロ頭」と何度も止めていると、何故か青年が笑いをこらえるような顔をしていた。 「ねえ、村山さん。どうして救急隊が忙しいって知ってるんですか?」 「……昔、海保にいたからな。救急救命士の隊員もいたし、消防の連中とも縁が深かったんだ。現場で居合わせることも多かったから、そんぐらいはな」  意識は随分はっきりしてきたものの、身体が冷たくて手が震える。ソファの前に座った青年が気付いて、ためらいなくおれの手をとり、ぎゅっと握ってきた。あたたかくて優しい、純粋な励ましだけが込められた手のひら。  今まで何度もそうやって、誰かを励ましてきた、そんな手だと思った。 「すごくショックなことがあったっておっしゃってましたよね。立ち直れそう?」  まるで自分のことのように、痛ましそうに目を細める青年。――笑い飛ばそうとして、乾いた息だけが口からもれていく。 「泣かないで、村山さん」  泣く?このオレが?まさか。もう何十年も泣いてない、このおれが。  信じられなくて、指で手のひらに触れると、確かにそこは濡れていた。自分の涙で。 「……泣いてない」 「そう思うならそれでもいいです。でも泣いたら楽になることってあるから」 「楽になんか、なりたくない。忘れたくない、1秒だって」  嗚咽がこみあげてきて、もう何も話せない。年甲斐もなく号泣しているおれを見て、引くどころかやさしく手を握ってきた青年は、「わかるよ。そういうときってあるよね」と頷いてくれる。仏様かお前は。絶対おれより年下のくせに。 「おまえなんかにわかってたまるか。お前、わかいもん」 「おれは星野成一っていう名前なんですけど、いうほど若くないですよ。27だから」  ほしの。  ほしのせいいち。  年はふたつ下。ライトブラウンの眼は光の角度でヘーゼルにも見える、身のこなしが優雅な男。  ただの名前なのに、すごく尊いもののように頭の中で響いた。 「失恋して。めちゃくちゃすきだったのに、いきなりけっこんするって言って」  いつの間にか、子どものようにしゃくりあげながら、初対面の相手に打ち明けていた。 「…そうなんだ」 「でもあいつ、けっこんしても、お前が好きだっていってきて。おれ、は、本当に好きだったのに。大好きだったのに、あいつは違ったのかなって。だって、そんなこといえないだろ、大切なら」  上手く話せないぐらいむせび泣いているというのに、星野成一は優しい。うん、と頷いて、手持ちのハンカチでおれの顔を拭き、他の人間に聞こえないようにそっとドアを閉めてくれた。 「なあ、せいいちって、誠実の誠に漢数字のイチ?」  これ以上情けないところを見せるのが嫌で、話を変える。  ほしのせいいちは、柔らかくて甘い、チョコレートよりもずっと明るい眼を細めて首を振った。 「違います。成人の成に、漢数字の一」 「一に成るか。良い名前だな」  驚いたときに瞬きをするのは、星野のクセなんだろうか。  ちょっと甘ったれな顔が、あっという間に笑顔に変わった。 「以前他の人にも言われたので、びっくりしました。ありがとうございます」 「星野の仕事ってどんなの?おれは、見ての通りカフェの雇われ店長だけど」  身体を起こしてソファに座り、隣を指さして星野を座らせる。賢い犬のように、招かれてからそっと座る物腰も、すらりと伸びた手足にきれいな姿勢も、まさにいいところのお坊ちゃんといった雰囲気そのものだ。 「仕事は…公務員ですね。一年間海外派遣に行っていて、今日帰ってきたんです」 「へえ。派遣されるってことは、優秀なんだろうな」 「いいえ、そんなわけでは。あの、村山さんって下のお名前は?」  どうも仕事についてあまり触れられたくないのか、星野がきまずそうに話題を逸らす。深追いするようなことでもないので、バスタオルで身体を拭いながら返事をした。 「カズホ。漢数字のイチに、保険の保で一保。変わった名前だろ、女みたいで子どもの頃すっげー嫌だったんだよな。もう慣れたけど」  乱雑に拭ってタオルを放り投げたおれを、星野が苦笑しながら「まだ濡れてますよ」と咎めた。こどもにするように、タオルを頭にかぶせて優しく拭かれる。擦ったら髪が傷むんですからね、こうやって、髪をタオルで挟んで叩くといいんですよ、とかなんとか言いながら。 「変わった名前だとは感じなかったですけど」 「そうかあ?チバ、おれの同期はいつも…」  言いかけて、口を閉ざす。何を言っているんだろう。もうあいつは他人の男だっていうのに。  何かを察したらしい星野は、それでも、何も言わずに髪を拭いてくれた。事務室の隅にあるドライヤーを持ってきて、丁寧に乾かしてくれる様子は、実家にいたころの深雪を思い出させた。「お兄ちゃん、きれいな髪なんだからもっと大事にしなよ」なんて言いながら、いつも嬉しそうに髪にさわってくれたっけ。今でこそ、一緒にパンツ洗わないで!とか言われちゃってるけど。 「あなたに似合う、美しい名前だと思いました」  弾かれたように振り返ったおれを、星野は平然と見つめ返してきた。なんという穢れのないきれいな眼だよ…… ――天然か。なるほど、全くなんの下心も意図もないからこそ、こんな言葉を言えるのか。  顔が熱かった。美しい名前だなんて、言われたことがない。 「うつくしいってお前…」 「あ、ごめんなさい。一保さんはどっちかっていうとかっこいいです」 「そういう問題じゃねえし」  照れ隠しに、持っていたタオルを星野に投げつける。もう大丈夫そうですね、と笑いながら立ち去ろうとするのを、慌てて止めた。 「待てよ。なんか礼をさせてくれ、……ええっと、これ」  事務所の引き出しを探り、コーヒーの無料券10枚つづりを見つけ出して星野の胸に押し付ける。…意外と、筋肉がついていて硬い、体幹の安定した身体だ。おれもそこそこ上背がある方だと思っていたが、星野はさらに背が高くて、自然と見上げるようなかたちになってしまう。 「ごめんなさい、こういうの受け取れません」 「便宜供与にはあたらないだろ?勤務時間中じゃねえんだし。これは、おれの個人的な礼だよ」 「お気持ちだけで充分です。村山さんも公務員だったなら、分かりますよね」  お邪魔しました、と爽やかな笑みを浮かべて事務室を出ようとする星野を、おれは追いすがるようにして止めた。店の中にいたオーナーや、アルバイトの新見さんもぎょっとした顔でこちらを見ているが、そんなことはどうでもいい。  おれは、人に借りを作ったら返さずにはいられない性質なのだ。恩義を受けたら、倍にして返したい。そうでないと納得できないし寝覚めが悪くなる。 「まて!わかった、じゃあこうしようぜ。お前、今晩予定はあるか?せめてメシぐらい、」  言ってからしまった、と思った。海外派遣先から帰ってきたと、星野は言っていた。疲れているに違いないのに、自分の我を通すなんて大人としてどうかしている。 「…いや、やっぱいいや…。ごめん、忘れてくれ」  やっぱり情緒不安定なんだろうか。もうすぐ30になろうというのに、たかが失恋で様子がおかしくなるなんて情けない。失恋がなんだってんだ、そんなもんいくらしたって死ぬわけじゃなし。  せめて連絡先を、と口にしようとしたとき、星野が、店の名刺を一枚とって裏に何かを書きつけた。目の前に差し出されたそれを受け取ると、いたずらっ子のように、三角の口をして星野が笑った。心の底から相手を安心させる、とても優しくて暖かい笑顔だった。 「金券の類は受け取れませんけど、ご飯ならご一緒しましょう」  気が付けば、おれも笑っていた。  もしかしたら、二度と笑うことなんて出来ないかもしれない、と思いつめていたのに。 「何でもすきなもの食わせてやる。日本食が恋しいだろ?」 「夢にまでみましたからね。前の所属の人たちに誘われていたんですが、断ってしまったので…。さすがに今日ひとりメシは寂しいですし」  前の所属という言葉を口にした瞬間、星野の顔に寂しさがよぎって、言葉につまった。 「何かあったのか。その、前の職場で」 「いろいろありました。すごく楽しいことも、辛いことも。一年離れていたから、随分割り切れたと思っていたんですけど……」  説明しようとしたのか、星野のくちびるがわずかにひらいたまま、停止する。 「いいよ、無理に説明しなくても。なあ、5分、10分ぐらいなら、いま時間取れるか?」  星野の甘い顔立ちに個性を加えている、光が当たるとヘーゼルに近い瞳を、じっと見つめた。形の整った眉に、目尻の下がった優しい眼。鼻筋にうっすらと散らばるそばかすは、繋ぐと星座になりそうな絶妙な配置で、日焼けの名残をみせていた。 「ええ、大丈夫です」 「じゃあ、コーヒー飲んでいけよ。それぐらいならいいだろ」  ほんの少しだけ、星野が困ったような顔で首を傾げた。それでも、視線を外さないおれをみて、諦めたように笑った。 「ミルクありなら」 「知ってる。砂糖なし、スチームミルクあり、酸味が強い豆は苦手。だろ?」  そう、おれは彼を思い出していた。甘い顔立ち、抜群のスタイルに優雅な物腰。丁寧な言葉遣い。  星野は――…窓辺の美形が、何度かここで一緒にお茶していたお相手のひとりだ。 「じゃあ、いただきます」  笑ったときの眼の形があまりに見事で、おれもつられて笑ってしまう。 「星野って、なんか天性のチャームがあるよな」 「どういう意味です?」 「なんでもおごってやりたくなる、って意味」 「そういえば、時々先輩方に『お前はオゴリ甲斐がある』って言われます」 「得な性分だな」 「いかつくてむさくるしい男ばっかりですけどね、うちの職場」  へへ、と笑った星野は、嬉しそうとも、照れくさそうともとれる笑みを浮かべたまま、カウンターに腰掛けた。 ――赤い傘の影から心配そうに見下ろしてきた眼…暖かい手。それにあの、心の底があたたかくなる笑顔。  決してホレっぽい方ではないと、自負している。何せ、千葉のことが好きで、三回もやりなおしたぐらいなのだ。奴の人生をよりよいものにするためなら、おれは文字通り何でもできた。  けれど、今日の結婚パーティではっきりした。  おれが想うほど、千葉はおれのことを愛してくれていたわけではないのだ。  気持ちに重さや長さなど、目に見える基準があるわけじゃない。だからこそ、感じるかどうかが全ての基準だった。愛されている、と感じることができるかどうか。どんなに困難があっても、傷つけられても、「愛さえ感じられれば」おれはそれで良かった。  心配そうに見守る新見さんやオーナーの前で、いつもより丁寧に、気持ちをこめてコーヒーを淹れた。淹れながら、泣きそうになる。  こどもの頃から、ずっとそうだった。  おれが心惹かれる人は、いつも、別の人を選んでいく。
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