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結婚パーティの打ち合わせが終わって由記市に帰ってきたとき、おれは全身にびっしょり汗をかいていた。多分精神的苦痛のせいだ。萩原をボコボコにしてやりたいけどあいつは何もしらないからどうしようもない。
もしかして千葉が来たらどうしよう、という心配は杞憂におわった。打ち合わせ会場である新橋の居酒屋は、昼から飲める上に酒も料理も美味いときいていたのに、味なんてこれっぽっちも思い出せない。萩原が、「新郎新婦の写真をプロジェクターで流すんだ~」とか言いながらヘラヘラと笑い、写真をみせてきたのが悪い。すごく可愛い女の子だった。千葉も、熱っぽい視線を彼女に向けていた。
机の上に広げられた、動物園やら水族館やら温泉宿やら、おれと二人では行けない場所でばかり撮った写真。胃がキリキリした。憎しみと妬みで頭の中が熱く煮えたぎっていた。けれども笑顔を浮かべて、「うわっこいつ温泉とかエロいな~」とか「水族館って。ピュアぶってんじゃねえよあの野郎」とか冷やかしながらやりきった。おれは本当に精神がタフだ。格闘技の心得があって本当によかった。
「なんだよあいつ、あっちこっち行きやがって」
「ほんとだよな~。こんだけ可愛けりゃそりゃ結婚したくなるわ」
おれとはどこにも行かなかったですよね。男同士で旅行だの映画だの、ちょっとキモいだろ、とか言ってましたよね。だから居酒屋か、ホテルか、おれの部屋以外で会った事なかったですよね、しかもやったことといえばヤッてただけですよね。ひどいときは朝から晩まで。
頭の中の千葉に、鋭い質問を投げかけるやり手のジャーナリストのような口調の自分が詰問している。妄想でしかないが。
『一保……』
千葉が熱い息を首筋にふきかけてくる様を思い出しそうになって、頭を振った。
外でのデートなんて、せいぜい毎年海にいったぐらいだ。男同士だから仕方がないとわかっていても、大声を出して走り去りたいぐらい腹が立った。悔しかった。
千葉もおれと同じ気持ちでいてくれた、なんて、勘違いだった。
だっておれはあいつとセックスしかしていない。お互いの気持ちいい場所は知り尽くしているし、なんならほくろの場所だって全部覚えている。けれど、ふたりで観た風景なんて、仕事をのぞけば家の天井、居酒屋の風景、そしてこの海ぐらいのものだ。政治家に囲われてる愛人だってもう少しマシな生活をしてるだろ。
1回目は、千葉が死んでしまった。あのときは、生きていくれるだけでいいと、もう一緒にいられなくても、ただ生きてさえいてくれればと願ったはずなのに。はじめての『やりなおし』で2回目、歯車が狂って、こんどはおれが死にそうになり――2回めの『やり直し』を経た3回目、つまり『いま』は――ただのセフレで、不倫相手候補か。
良いザマだ。まさに、実にお似合いってやつだった。
※※※
疲れを忘れたくて、アパートに荷物を投げ、海へ向かう。歩いて5分の海は、どんなときでも心をやさしく癒してくれた。そう、航太郎に二度と会えなくなったあの日でさえ。
双子の航太郎は、顔立ちこそ瓜二つだったが、中身はあまり似ていなかった。
悠然としていて、神童だともてはやされるほど頭がよくて、おれはあいつが慌てたり、失敗しているところを見た事がない。
家族旅行にいくことが決まっていたある日、航太郎が泣きじゃくって病気のフリをしたことがあった。おれには、それが仮病だと分かって腹が立ったが、航太郎が意味のないことをするはずがないということもまた分かっていた。そして、信頼は的中した。家族で乗るはずだった飛行機は墜落して、乗員乗客は全員死亡した。
またあるときは、父親が新車を買おうとしていたとき、強硬に「ここの車はヤダ」と反対して「ここの車を買うなら、僕乗らない」とまで言って困らせたことがあった。父親はかねてからそのメーカーのファンで、どうしても買いたかったけれど渋々諦めた。3日後、ブレーキシステムにかかる重大な欠陥が発覚し、おれたちが買おうとしていたディーラーで同じ車種を買った人は、交通事故に巻き込まれて大怪我を負った。
今日はこっちの道からあそびにいこう。普段はにこにこと笑いながらおれの後ろを付いて回っていた航太郎が、そんな風に言うとき、必ずいう事をきくようになった。航太郎のいうとおりにしていれば、おれたち家族は全員幸せになれる。不慮の事故や事件に巻き込まれたりしない。子どもながらに、航太郎の不思議な能力に気付いていた。
※※※
「またこんなところで寝てる」
目を開こう、と思うのに上手くいかない。よほど疲れているのか、浜辺でぐっすりと眠っていたらしい。体がいうことをきかなくて、半分覚醒した状態のまま目を閉じている。
頬に何かが触れた。ほんとうにそっと、ふれるかふれないかぐらいの柔らかさで、輪郭をなぞっていく。なんだかいい匂いした。ホットドッグとか、カフェオレとかの匂いだ。昼から何も食べてないから、腹が鳴って、その誰かが笑った気配がした。
「ちば……?」
「ちがうよ。一保さんは、俺の事信じすぎてるね」
まぶたにつめたい、やわらかいものが当てられる。目を開くと、なっちゃんがのぞきこんでいた。優しげで、精緻に整った端整な顔立ちが、やや長い、くせっけの前髪の隙間からみえた。
「信じすぎてるって何だよ」
「なんでもない。おなかすいてる?ホットドッグ買ってきたけど食べる?」
「食う!」
お酒のにおいがする。なっちゃんがそういって、クンクンとおれの身体を嗅いできた。千葉の結婚パーティの幹事を引き受けたことをはなすと、なっちゃんは珍しく怒ったような顔をして「一保さんは人がよすぎる」と言った。年の離れた妹である深雪と友人で家主のなっちゃんは、おれのどうしようもない恋愛について知っているのだ。
「なんか断りきれなくて。同期の間ではさ、おれと千葉、親友ってことになってるから」
レタスとマスタードがたっぷり入ったホットドッグは、すごく美味かった。カフェオレも。曲がりなりにもカフェの店長だから、コーヒーにはちょっとうるさいおれだが、なっちゃんはいつも本当に美味しいコーヒーを飲ませてくれる。
「これ、もしかしてコナコーヒー?」
「ピンポン、さすが一保さんだ。おいしいでしょ」
「そんな高いやつ、ごめんな」
「いいんだよ。飲みたい人と、美味しいコーヒーを飲む。お酒が飲めないからね、これが僕にとっての嗜好品なんだ。いくらお金をかけたって痛くないよ」
「ブラックも飲みたいな。やっぱり、香りがすごくいい」
「言うと思って持ってきたよ。ハイ、どうぞ」
みどりいろの大きなバッグから、黄色い魔法瓶を取り出してニッコリ笑った。なんでも出てくるので、なっちゃんの魔法のカバン、とおれと深雪は呼んでいる。
「ありがとう。ほんとうに、なっちゃんがいなかったらおれ、とっくに干からびてるよ」
「まったくだよ」
海も空もすっかり暗くなっている。さすがに市街地が近いから、田舎の海のように星は見えないが、それでもときおりちかちかと、灯台の灯りがともったりする。
「……あのさ。今日、千葉さんが来たよ。面識ないから多分だけど」
心臓が凍りついた。美味しいコーヒーの味も一瞬でドロのようにかわる。
黙って顔を向けたおれに、なっちゃんが視線を落とす。
「出かけてますって言ったら、一保に電話でてくれって伝えてくださいって。メールも電話も着信拒否されてて、連絡がつかないからこれ、渡してほしいっていわれた」
いつまで経っても携帯をかえず、着信拒否もしないおれに業を煮やした深雪が、先日とうとうおれの携帯を取り上げ、千葉を着信拒否にしてしまった。アイフォンを使っているから、そもそも電話がかかってきたかどうかすら、今のおれには分からない。でも、その方がよかった。もう着信履歴をみながら何時間もぼんやり過ごしたくはない。
手渡されたのは、二つ折りのルーズリーフだ。封筒にも入れないところが千葉らしくて、溜息に似た笑い声がもれた。
『一保、ごめん。
どうしてもお前のことが好きなんだ。
会いたい。声がききたい。
さわりたい』
声が聞こえた気がした。
耳元で、いつも千葉がささやいていた、低くてやさしくて安心する声が、おれに言っているような錯覚をおぼえた。
「これ、いつ?」
「ついさっき。おれが部屋出るときに入れ違いで…」
ポケットにルーズリーフを突っ込み、走り出そうとする。なっちゃんが腕を掴んで、どこにそんな力があったのかおどろくぐらい強く引いた。
「やめときなよ」
「でも、もしかしたらまだいるかも、」
「あの日、千葉さんと別れた一保さん、どんなにひどい顔してたか知ってる?海辺でみつけたとき…僕、心配でどうにかなるかとおもったよ。千葉さんと一緒にいたって、傷付くだけだ。やめたほうがいい」
体から力が抜ける。拳を握りしめ、強く噛んだ。泣きたくないけど涙がこぼれおちそうなとき、おれはいつもこうする。痛みよ、かなしみをつれていけ。おれのなかから永遠に涙を連れ去ってくれ。
無理だった。零れ落ちはしなかったが、涙は目のふちに浮かんでしまった。なっちゃんをそっとつきはなし、背の高い、優しげな顔を見上げる。
「それでもおれは、千葉に会いたい」
おどろいたような顔でなっちゃんがおれを見る。振り返らずに、おれはアパートへ走っていった。
アパートには既に千葉の姿はなかった。
落胆といっしょに、安心がやってきて一人で笑う。
「バカだな、おれは」
鍵を開ける。シャワーを浴びて、千葉の手紙を抱いて眠った。好きだ。一緒にいたい。酷いヤツだと思うのに、おれの心は千葉を諦めてくれない。声が聴きたくてさわりたくて、それができない今が苦しくてしかたがない。失恋がこんなに苦しいなんて誰も教えてくれなかった。生まれてはじめて好きになった人を、はじめてセックスした人を、失おうとしている。本も音楽もおれを救ってくれたりしないし、泣くのはイヤだからひたすらに苦しみを抱えているしかない。
もし、おれが急に心臓発作とかで死んだら、千葉は泣いてくれるだろうか。
***
職場と家を往復しているうちに、夏が来た。泳げる季節は毎日5時に起きて一時間ほど泳いでから出勤し、帰ってきたら海辺を走っている。どこまで海が好きなんだよ、とオーナーにも新見さんにも突っ込まれてるけど、海はもう一つのおれの家みたいなものだ。時々厳しい牙を剥いて、平和なときは美しく、夜は思わず引き寄せられそうになるぐらい暗い、いきものがうまれた場所。ずっと、あの中で暮らせたらいいのに。きっととても居心地がいいだろう。
「なっちゃん、おはよ」
「おはよう、一保さん」
あの日なっちゃんの腕を振り払ってから、彼はまたおれとの間に距離を置いてしまった。近づいたような気がしていたのにさびしいけど、きっとこれは自業自得なんだろう。心配して、忠告してくれたのにおれは聴かなかった。たまたまあの日千葉がもういなかったから何もしなかったけど、もしドアの前にいたら、おれは絶対千葉とセックスしたと思う。それがどんなにひどい裏切りで、社会的に許されないことだとしても、絶対そうした。だから、責められても仕方ないし嫌われてもしょうがない。
軽くストレッチをしてから、朝がきたばかりの海に飛び込む。沖合に向かってひたすらクロールをして、水と交わる。朝一番の海は砂が舞っていないから本当に美しくて、このすばらしさを一度知ると、昼なんか泳ぐ気にならない。
もどってくると、砂浜にいたなっちゃんの姿はいつの間にか消えている。ビニールシートに魔法瓶が置いてあるのがみえて、水がしたたるままぼんやりと見つめた。魔法瓶の下には二つ折りのルーズリーフが2通はさんである。直感的に分かった、千葉からの手紙だ。
しゃがみこんで、開いた。ビニールシートが濡れないように、砂浜の上で読んだ。
『結婚パーティの件、きいた。
萩原は知らなかったからあいつに罪はないけど、嫌な思いをさせて本当にごめんな。
当日は来なくて大丈夫だから』
なんだこれ。なんの気遣いだよバカじゃねえの。
そう思うのに。きらいにならせてくれないなんて狡い、最低だと思うのに――
…なみだが出そうなぐらい、喜んでる自分がいる。
『一保と撮った写真、仕事中のばっかりだな。
パーティで流すから持って来いっていわれて、部屋のなかひっくり返して探したんだけど、お前と同じ基地にいたころの写真ばっかり出てきた。懐かしくて、嫁との写真ほったらかしで一保の写真ばっかり見てた。
お前、本当に変わってない。
でもあのころと違うのは、いまおれのとなりに一保がいないんだよな。
写真は二人でふざけて、笑ってばっかいるのに。
もっと一保といろんなところに行けばよかった。会うとさわりたくて、どこかに行こうなんて考えられなかった』
口の上手いうそつき、最低の自己中心野郎!
そんな風に思えたらいいのに。割り切れたらいいのに。切り離せたらいいのに。
読み終わった二枚の手紙をポケットに突っ込む。汚くて乱暴な千葉の字を、なっちゃんも見たのだろうか。なぜ、千葉はなっちゃんに渡すんだろう。東京から一時間半もかけておれの家まで来て、どうしてポストにいれずに他人に渡すんだろう。
無言で砂浜にあるシャワーを浴びて、魔法瓶を洗ってなっちゃんの部屋のドアノブにかける。いつものお礼に、彼が好きなコーラを三本、コンビニの袋にいれてひっかけた。
明日が千葉の結婚パーティだ。
千葉が言ったとおり、きっとおれは欠席する。
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