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 店は、おれの家の近くにある、魚介の美味い居酒屋にした。  家族ともよく訪れるので、店長も店員も全員顔見知りだ。一度服を着替えに戻った星野と、由記駅で待ち合わせをした。  そこからはバスで、自宅や実家にほど近い、由記市南区の小さな町に降り立った頃には、太陽のほとんどが海に沈んでいた。  星野とおれは、生ビールを一杯飲み終わるまえに意気投合した。お互いにあまり人見知りしない性質だったこともあるし、音楽の趣味だったり、食べ物の趣味が驚くほど一致していた。  なによりも、タイミングのいい共通点が距離を近くした。…どちらも、『失恋を引きずっている』というあまりカッコよくない共通点が。 「すごく好きだったんですよね」  ガラス戸からみえる、マジックナイトの空を背に星野がぽつりと言った。長屋を改築したこの店は、隙間だらけなので冷房の効きが悪くて、お互いに汗をぬぐいながらビールを呷る。  土曜ということもあって、店の中は人でいっぱいだった。店主と顔見知りなので、座敷のいい席に通してもらえて、窓の外には海と空が一望できた。 「すいません、ビールおかわり。なんかもう中ジョッキだとめんどくせえから、大でふたつ」 「喜んで~」  通りかかった店員を呼び止め、おかわりを頼む。星野が申し訳なさそうに腰を浮かせたので、「おいおい、これは職場の飲み会じゃねえんだから。気を遣わなくていいって」と手を振った。 「…付き合ってたのか?」 「いいえ。その人には、長い間べつに好きな人がいたんです」  かさごの煮つけを口に運び、おいしい、と微笑んだ星野に、これも美味いぞと剣先イカの刺身をすすめる。箸使いがうまくて食べ方が上品だ。ビールを飲むときだけ、ゴクリと音をたてる喉骨が、やはり男だなあと視線を奪われてしまう。  相手は会社の上司だったらしく、口の重い星野からなんとか話をききだし、おれたちは何度目かの乾杯をした。「フラれた者同士、奇跡の出会いに」とかなんとか言って。全く笑えない。それなのに楽しいのだからどうかしている。  出会いから、別れまでの経緯を簡単に説明させて、おれは驚きのあまり、まじまじと星野をみつめた。まさか。好きな奴が別の人間とくっつくのを手助けするやつなんか、この世にいるのか。 「そこまで来ると偽善でもなんでもねえな。根っからの『いいやつ』じゃん」  話が盛り上がるのと比例してビールが減っていく。店のBGMが、おれの好きな歌に変わった。 「今でも時々思います。何度も夢にみました、あのときもしも、おれがふたりを結びつけなければ、今頃隣にいたのはおれだったのかもしれないって。ダサいでしょ、笑っていいですよ」  正直な星野は、唇を突きだして拗ねた顔を隠さない。おれは指さして笑った。 「そこまで引きずるって、よっぽど美人だったのか?」  蓮根のはさみ揚げに舌鼓を打ちながら、問い返す。すると星野は、なんともいえない不思議な表情を浮かべた。限りなく苦笑に近いような、無表情だった。 「美人は、その相手ですね。おれが好きだった人は…まっすぐで、ちょっと臆病なところもあって、でも……尊敬できる人でした」  よく分からなくなってきた。星野の好きだった人の、相手が美人? 「男性だったんです。おれが前に、好きだった人」  何故か挑むような目で、星野が言った。おれのほうが視線を逸らしそうになって、踏ん張った。 「へえ。それは奇遇だな、おれもだよ」  また、あのまばたき。丸い目が、ますます大きくなっていて可愛いな~と感じてしまう。 「おれはゲイだからな。あ、勘違いすんなよ。男ならなんでもいいってわけじゃねえから。襲われるとか狙われてるとか、そういう風に思われても期待には添えないんでね」  世間に広くカミングアウトしない理由は、それだ。同性愛者に対する偏見どころか、この日本では未だ、「同性を好きになるなんて、病気か何か」だと思っている奴がたくさん存在しているせいだ。自分の存在や性的嗜好を否定する段階はもう過ぎたけれど、いちいち石を投げられるぐらいなら、黙っている方を選ぶ。おれは石を投げられて黙ってうなだれるタイプではないし、おそらく投げた奴が大怪我する羽目になる。まだ檻の中に入りたくはないし。  星野が箸を置き、肘をついて(彼にしては行儀のわるい仕草だ)、おれを遠慮のない眼差しでじろじろ眺めた。黒くて短い髪(てっぺんだけピンと毛が立つ、へんな癖がある)を、真っ直ぐで太い眉を、その下にある「猫みたいな」黒々とした眼を、形がいいと自慢の鼻筋を、やや不機嫌そうだと言われることがおおい、薄いくちびるを、星野の視線が流れていく。 「一保さんはきれいなお顔をしているし、相手はいくらでもいるんでしょうね」 「それが残念なことに、さっき説明した千葉しか付き合った事ねえんだよな」 「口が悪くて色気がないからでしょうか?」 「お、やる気か。ケンカ負けなしのおれに売るとはいい度胸だ」  立ち上がって星野にヘッドロックをかましてやった。いたたたた、ギブ!ギブ!と叫んでいる星野を落ちるギリギリまで締め上げてやってから、フン、と鼻息荒く元の席に戻る。  職場が離ればなれになったとき、寂しくて、ゲイが集まるバーに何度か行った事もある。それなりに声をかけられたし、モテないというわけではない。けれど、おれにとってそれは意味のないことだった。千葉でなければいけなかったのだ。男である、という第一段階だけでは寝ることができない、それがおれだった。 「その人とはもう会わないほうがいいですよ。こう言っちゃなんですが、クズです」 「……あいつだけが悪いんじゃないよ。おれも、悪かったんだ」  つい庇うような発言をしてしまって、星野は溜息をつきながら頬をかいた。 「ショックで青くなって、気を失っちゃいそうになってたのに?」 「それはまあホラ。時とともに痛みは癒えるだろ」 「おれはフラれてから一年以上たちましたけど、今日の朝電話がかかってきて…声聴いただけで、あーまだ好きだー、全然諦めきれてねー、ってなりましたよ」  どこからみてもリア充そのものの星野が、男の上司に片思いしてフラれてこんなに落ち込んでいる。外から見ただけでは、誰が幸福で誰が不幸かなんて、分かりやしないのだ。 「ほんとは今日、そいつと飲みに行くはずだったんだろ?でも、お前はまだ過去にできてないから、行きたくなかった」  返事はなかった。  テーブルに突っ伏した星野の髪を、そっと撫でた。短い茶色い髪は、家で洗ってきたのか、ワックスも何もついておらず、ふわふわと柔らかかった。 「子ども扱いしないでください」と星野が唸った。 「だってお前、なんか可愛いんだもん」というと、「可愛いっていうのもやめてください。トラウマです」と返ってきて笑ってしまう。どんなトラウマだよ。 「失恋に一番効くのは時間だっていうけど、お前をみてると自信なくなってくるわ」 「……男の場合は必ずしも時間が良薬にはならないですよ」  深雪が言っていたくだらないカテゴライズが頭に浮かぶ。いわく、『女は上書き、男はフォルダ分け』。新しい恋で女は過去を忘れるが、男にとって過去の恋はいつまでたっても別物として保存されてしまう。 「確かに。よし、ここで文明の利器に頼ろうぜ」  鯛めしが運ばれてきた。土鍋で供されるそれは、おれの大好物なのだ。おいしそう、と涎をたらしそうな顔で鍋の中を覗き込んだ星野に、茶碗山盛りの鯛めしをよそって渡してやった。 「とりあえず冷める前に食え。おれはグーグル先生にきいてみる」 「何をです?!」 「失恋から立ち直る方法、とかで検索すんだよ」  酔っぱらっているせいで、手元がおぼつかないからSiriにきいてみることにした。ヘイSiri。失恋から立ち直る方法は?くそまじめな顔で問いかけているおれをみて、星野が身体を折って笑っている。お前さ、笑ってる場合じゃないからね?一年以上経っても引き摺ってるお前にだけは笑われたくないから。  検索結果に、『失恋から立ち直る6つのステップ』なるサイトが出てきたので、おれと星野は向い合せで、額を突き合わせてじっと画面を見つめた。  ステップ1:拒絶 (彼をまだ好きな気持ちや、それでも別れることになった今を受け入れよう)  ステップ1は、まだ現実が受け入れられていない段階です。別れたなんてまだ信じられなかったり、本当は相手が自分を好きなままではないか、などと考えてしまいます。 「あー…おれまだステップ1だ」 「おれはそこの段階は超えたかなあ」  よし、次いくぞ。おれたちは5回目のおかわりを頼んでから、携帯の画面をスクロールした。  ステップ2:怒り (溜め込みは厳禁!ちゃんと発散しよう)  ステップ2は、こみ上げてくる怒り。元彼に対する怒りや憎しみだけではなく、幸せそうな周囲にまでその怒りは飛び火します。失恋したせいで友達までなくしてしまうなんて泣きっ面に蜂もいいところ。人に当たらず、運動などで発散しましょう。 「ぐっ…思い当たるフシがあるぞ…。だめだな、気を付けよう」  星野がニヤッと笑って顔をあげた。 「おれもありました。日本を発つとき、ふたりでくれたプレゼントがあったんですけど、何度それをゴミ箱に叩き捨ててやろうと思ったか分かりませんもん」 「お前が?もっといい子だと思ってたのに、意外」 「結局はできませんでした。…おれ、相手の人のことも、嫌いになれなくて。好きな人が幸せなら、って思ったのも本当なんです。ただ、きれいな気持ちだけに徹することはできなかった」  想像してみる。もしも、千葉が「申し訳なかった」とか言って、嫁とふたりで買ったプレゼントをおれに持って来たらどうするか。――考えるまでもない、おそらく顔にめり込むぐらい強く、顔面に叩きつけてやるだろう、そのプレゼントとやらをな!! 「…ほんと、キツかったんだな、お前。かわいそうに、よしよし」  ふたたび頭をわしわしと撫でると、星野はもう抗議せずにされるがままになっていた。 「で、ステップ3は?」 「めんどくさいからまとめていくか。ステップ3.取引。よりを戻せるのでは、などと考え始める時期です。周囲の信頼できる友人に話をきいてもらい、平等な視点で審判を下してもらいましょう」  おれに続いて、星野がよみあげていく。 「ステップ4…抑うつ。未練を乗り越えると、もう戻ることは出来ないのだ、という深い絶望と無力感を感じ始めます。友人といても気を遣ってもらっていることが申し訳なくなったり、誰とも会いたくない、と思ったりします。こんなときは、癒される場所でゆっくりしていましょう」  畳の席なのをいいことに、おれはくつろぎきって胡坐をかいて、硝子戸にもたれかかっている。星野もさすがに少し酔ってきたのか、目元が赤い。 「おれはステップ1で…星野は3ってとこか?」 「そうですね。…一保さん、なんか飲むと雰囲気変わりますね」 「果てしなく陽気になるって言われるぞ」  ステップ3ってことは、もうすぐ抑うつになるのかあ。  そう言って、星野が憂鬱そうな顔でテーブルへ視線を投げた。  しこたま飲んで、店を出るころにはどちらも千鳥足になっていた。「海の匂いがする!」と嬉しそうに星野が言うので、「ちょっと海辺、散歩してから帰るか?」ときいてみた。 「いいですね、行きましょう。…あの、一保さん。ひとつお願いがあるんですけど」  海までは、徒歩5分もかからない。坂道をフラフラしながら下り、灯台の明かりに気を取られながら、立ち止まった星野を振り返った。 「なんだよ?」 「星野って呼ぶの、やめてもらっていいですか?その呼び方、思い出してしまうんです」  切なげな表情に、はっとした。  名前にコンプレックスがあるおれは、「一保」という呼び方を千葉にだけ許していたはずなのに。星野に「一保さん」と呼ばれるのが全く嫌ではないことに、気づいたのだ。 「じゃあ、なんて呼べばいいんだよ?成一か?」  立ち止まっている星野…、成一を見上げながら、小声でもう一度呼んだ。 「成一、元気出せ」 「……あなたは人の心配してる場合じゃないでしょ」  さきほどまでの張り詰めた空気が嘘のように、成一が破顔した。うるせえよ、と憎まれ口を叩いてみたが、それはどこか甘い響きを帯びていて困ってしまった。  昼間の雨がうそのように、星のきれいな夜だった。半月が海に浮かんで、砂浜を歩くおれたちや、腕を組んで歩いているカップルの影を長く伸ばしていた。波打ち際を歩いていた成一の足もとに波が押し寄せ、足跡を消し、おれがその後に続いた。波はおだやかで、夜風が髪のあいだを通り過ぎ、街へ抜けていく。  立ち止まった成一は、物憂げに地平線を眺めていた。おれは側に立ち、千葉と過ごした3回の失敗を考えた。1回目、おれを助けようとして海で死んでしまった千葉のことを考え、2回目、ひどい束縛から暴力に発展し、殺されかけたことを考え、3回目は…今がそうだが…失敗に終わったことを考えた。  好きになるたびに心が傷つき、傷つけ、どうしてもうまくいかない。分かっているのに、諦めることができなかった。  もうやり直すのは終わりにしよう。――もとよりあの力は、自分のためには使えない。 『誰かを助けるためだけに、使うことができる。でも、4回だけだ。4回目の力を使ったとき、カズくんは、みんなの記憶の中から消えてしまう』  コタの未来ノートの中に書かれていた、約束事を思い出す。  おれはすでに2回、やり直してしまった。  未来をみることが出来たおとうとの航太郎と、過去へ戻ることができるおれ。ひとつの卵から生まれた命は、ふたつでひとつだ。  例え世界中の人間が航太郎を忘れても、おれたちの絆を断ち切ることはできない。
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