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プロローグ
『さわやかな季節を迎えましたが、いかがお過ごしでしょうか』
「ねえ、どうしてそんなにありきたりなフレーズになっちゃうの」
縁側で書いていたのを加代に覗かれた。それを裏返し、町を見下ろした。一面に田んぼが広がっている。風でなびく稲は、黄金の海のようだ。先ほど裏返したものをまた手に取って、綴った。
『里の田んぼが黄金色の海になりました。俺は今、黄金色の海を見下ろしています』
半年前までSEの仕事をしていた。昼夜もわからず、ただ缶詰になってパソコンに向かっていた。部署異動になってからそれがエスカレートし、週に1度家に帰る程度になっていた。そんな日々を1年ほど送り、まあ案の定ではあるが5年付き合った彼女と別れることになった。結婚も考えていた彼女が家から送った後、パソコンを踏みつけた。机に紙を置き、引き出しに入っていたサインペンで退職願を書いた。もうパソコンには、触れたくないと思っていた。
なんの展望もないまま、ハローワークに行った。それなりに蓄えもあり、今は少し休みたい気持ちになっていた。人とも会いたくない。しかし、就活をすると雇用保険が下りるらしい。履歴欄だけ埋めた履歴書をハローワークの担当者に渡した。担当者は定年近いであろう品のいい梅野と名乗る女性だった。
「あら、きれいな字。SEされてたの。SEならたくさんあるけど、きっと嫌なのよね」
「そうですね、パソコンに触らない仕事がいいです」
「業種の希望とか、月収とか、勤務地とかの希望はいかがでしょう。……本当きれいな字ねえ」
「東京ならどこでもいいです。月収はもちろん多いことに越したことないですけど、こだわりないです。パソコンともあんまり人と関わらなくても済む仕事ってありますか」
「本当、加代ちゃんにそっくりな……」
穴が開くのではないかというくらい履歴書を見ていた。確かに字には自信があった。別に教室とかに通っていたわけではないのだが、自分の唯一の自慢ともいえる。結婚を考えた彼女へも告白は手紙だった。「今時、手紙って。でもこう額に飾りたくなっちゃう」と笑われた。梅野という女性は、床に置いていたカバンをあさりだした。
「あの……実は……ただうちの家業で、仕事っていうのもあれなんだけど……手紙を……書いてはくれないかしら」
そう言って、彼女は一通のハガキを取り出した。そこには俺の字でこうあった。
「あなたの言葉は忘れてもあなたの字だけは忘れない」
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